山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

梅の花あかぬ色香もむかしにて‥‥

2006-02-28 22:17:37 | 文化・芸術
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-今日の独言- ギリヤーク尼ヶ崎と‥‥

 大道芸人として日本国内だけでなく世界各国も遍歴した孤高の舞踊家ギリヤーク尼ヶ崎が、その若かりし頃、邦正美に舞踊を学んだという事実は意外性に富んでいてまことに興味深いものがある。
邦正美とはわが師・神澤和夫の先師であり、戦前にドイツへ留学、M.ヴィグマンに師事し、L.ラバンの舞踊芸術論や方法論を「創作舞踊」として戦後の日本に定着せしめた人であり、また「教育舞踊」として学校ダンス教育の方法論化をはかり、多くの教育課程の学生や現職体育教員に普及させた人である。


 ギリヤークの略歴をインタビュー記事などから要約すると、
1930年、北海道函館の和洋菓子屋の次男として生まれ、子どもの頃から器械体操が得意な少年として育ち、戦後初の国体では旧制中学4年の北海道の代表選手に選ばれたほどだという。映画俳優になりたくて51年に上京したが、強いお国訛りがことごとく映画会社のオーディションをパスさせなかったらしい。
その後、邦正美舞踊研究所で舞踊を学び、俳優の道をあきらめ、57年に創作舞踊家としてデビューしているが、折悪しくその頃、実家の菓子屋が倒産、東京生活を断念して帰郷する。3年ほど青森の大館で家の手伝いをしながら、大館神明社で創作舞踊を考案しながら過した、という。
ギリヤークの踊りに影響を与えたのは禅思想だ。「一瞬一瞬を生きていく」という鈴木大拙の思想を形にしたいと考え、踊りで表現したいと思った、と言っている。
大道芸人として路上パフォーマンスを誕生させた契機は、知遇を得た故宮本三郎画伯から「青空の下で踊ってみては」と言われたことに発する。踊りに専念しその道で喰うこと、それには細い一筋の道しかなかったのだろう。すでに38歳、人生の一大転換は68年のことだった。


 ところで、神澤和夫は1929年生れで、ギリヤークとは1歳しか違わず、まったく同時代人といっていいが、この二人が相前後して邦正美に師事しながら、その後それぞれに開いて見せた世界は反対の極に位置するほど対照的であり遠いところにあるかに見える。
神澤は先達の邦正美を通して、M.ヴィグマン、L.ラバンへと参入していき、自身をその系譜の正嫡たらしめんと厳密なまでに自己規定し、自らの表現世界を創出してきた。他方、ギリヤークにはかような自己規定も問題意識も皆無というほどに見あたらない。彼の自己規定は、その生涯をひたすら踊る人としてあること、彼の関心はこの一大事に尽きるように思われる。正統も異端もない、一所不在、漂白の芸能民としておのが舞踊を実存せしめた。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-18>
 山城の淀の若薦かりにだに来ぬ人たのむわれぞはかなき
                                  詠み人知らず


古今集、恋五、題知らず。
若薦(わかごも)-若くしなやかなコモ。かりに-「刈りに」と「仮に」を懸けている。
邦雄曰く、眼を閉じれば、掛詞の淀の若薦の淡緑の葉が鮮やかに靡く、薦若ければ刈らず、故に仮初めにも訪れぬ恋人をあてにする儚さを歌う素材ながら、その彼方にまた、利鎌(とかま)を引っ提げて近づく初夏の若者の姿さへ彷彿とするところ、古今集の「詠み人知らず」恋歌のゆかしさであろう、と。


 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじ形見の春の夜の月  俊成女

新古今集。春上、千五百番歌合に。
邦雄曰く、新古今集の梅花詠16首中、艶麗な彼女の歌は、皮肉にも嘗ての夫、源通具の「梅の花誰が袖ふれし匂ひぞと春や昔の月に問はばや」と並んでいる。人は変わったが梅も月も昔のままと懐かしむ趣き、言葉を尽くしてなほ余情を湛える。藤原俊成は孫娘の稀なる天分を愛でて養女とし、俊成女を名のらせた。後鳥羽院がもっとも目をかけた当代女流の一人であった、と。


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ひさかたの月夜を清み梅の花‥‥

2006-02-27 11:21:42 | 文化・芸術
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-今日の独言- 母と娘、それぞれ

 4歳のKは、一昨日、日々世話になっている保育園の生活発見会、いうならば昔の学芸会で、ようやく呪縛型緊張の壁を破った。
人見知りのやや過剰なKは、これまでこの手の催しでは、いざ本番となると一度も普段の稽古どおりにやれたことはなかった。父母たちが多勢集ったその雰囲気に呑まれてしまってか、まったく動けなくなるのが常だった。ハレやヨソイキの場面ともなると自閉気味に緊張の呪縛に取り憑かれたがごときに、固まるというか強張るというか、そんな心-身状態にきまって陥るばかりだったが、この日のKは違った。やっとその呪縛から自らを解き放つことができて、懸命にリズムをとりながら振りどおりに身体を動かしていた、いかにも必死の感がありありと見える体で。


 35歳のJは、2月のアルティ・ブヨウ・フェスと昨日の琵琶の会と踏破すべき山が連なり、それぞれ表現の個有性の課題に挑まざるを得なかったのではないか。
元来なにかと拘りは強いくせに意気地がない、些か分裂型の気質かと思える彼女だが、重なった二つの山は相互に作用したようで、表現の自律と自立、それは自ら能動的に自発的にしか獲得しえぬということが、これまではいくら頭で理解していても、自身の心-身はどこか消極的な振る舞いのうちに身を退いてしまうようなところがあったのだが、やっと彼女なりの<信>を得たのではないか。それは自ずと定まるところの課題の発見でもあるだろう。
今後さらに、彼女の<信>がそうそう揺るぎのないものへと強まっていくことを、見届けていきたいものだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-17>
 ひさかたの月夜を清み梅の花心ひらけてわが思(も)える君  紀小鹿

万葉集、巻八、冬の相聞。
生没年未詳、紀朝臣鹿人の娘、安貴王の妻で、紀郎女とも、名を小鹿。万葉集巻四には夫・安貴王が罪に問われ離別する際に歌われたとされる「怨恨歌」がある。また天平12年(740)頃に家持と歌を贈答している。
邦雄曰く、梅の花は現実に咲き匂うその一枝であり同時に万葉少女の心を象徴する。「梅の花心ひらけて」の幼く潔い修辞が、まことに効果的であり、大伴駿河麿の「梅の花散らす冬風(あらし)の音のみに聞きし吾妹を見らくしよしも」と並んでいる。作者のなまえそのものが現代人には詩の香気を持っていて愉しい。「わが思へる君」で突然終る調べの初々しさも格別、と。


 冴えし夜の梢の霜の朝曇りかたへは霞むきさらぎの空  肖柏

春夢草、上、詠百首和歌、春二十首、余寒霜。
邦雄曰く、二月の霜、春寒料峭をそのまま歌にした感がある。名だたる連歌師ゆえに、この一首も上句・下句が発句・脇句の照応を見せ、それがねんごろな味わいを醸している。たとへば「梅薫風」題でも、「梅の花四方のにほひに春の風誘ふも迷ふあけぼのの空」と、第四句の独得の修辞など、一目で連句のはからいに近いことが判る、と。


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梅が香におどろかれつつ‥‥

2006-02-26 09:52:49 | 文化・芸術
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-今日の独言- 奇妙な集まり

 昨夜は市岡高校OB美術展の打上げ会。
例年のことだが、まずは午後3時頃から会場の現代画廊に出品者が三々五々集って搬出までの時間を懇親会よろしく歓談する。集ったメンバーは17期が他を圧倒して多い。やはりこの会の精神的な紐帯として彼らが中軸なのであり、辻正宏が17期で卒業したことと大きく関わっているのだ。
辻正宏が存命なあいだはこの会の生れる必然はなく、彼が故人となったときはじめて誕生した理由を今更ながら確認させられる。
この会はまったく不思議な集りだ。特定の思潮があるわけでもない。内容はおろか形式さえも多種多様、絵画にかぎらず、彫刻、工芸、書、デザイン、陶芸にいたるまでが、狭い画廊にてんでに居並んで奇妙な空間を生み出している。フリの訪問客がプロもアマを混在した自由な展示がおもしろいと語っていったという、そのことが含んでいる意味は深いところで本質を衝いているのかもしれない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-16>
 梅が香におどろかれつつ春の夜の闇こそ人はあくがらしけれ
                                    和泉式部


千載集、春上、題知らず。
邦雄曰く、梅の香りを、それとも知らず、誰かの衣の薫香と錯覚して驚き、かつ誘われていく。闇なればこそ夢がある。月光の下では一眼で梅と知れよう。古今集「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」を逆手に取ったこの一首、出色の響きである。春の夜の闇は人を心もそらにさせるとは、婉曲でしかも艶な発想だ、と。


 鶯の花のねぐらにとまらずは夜深き声をいかで聞かまし  藤原顕輔

左京大夫顕輔卿集、大宮中納言の家の歌合に、鶯。
寛治4年(1090)-久寿2年(1155)、六条藤原家、顕季の三男、正三位左京大夫。藤原基俊没後、歌壇第一人者となり、崇徳院の院宣により「詞花集」を選進。金葉集初出。勅撰入集85首。
邦雄曰く、深夜に鳴く鶯の声を主題にした歌は珍しい。「花のねぐら」というあでやかな言葉に、コロラチュラ・ソプラノの「春鶯伝」を連想する。第三句と結句の、ややアクの強い修辞が、一首の味わいを濃くして、十二世紀半ば、金葉・詞花集時代の特徴を見せる、と。


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梅の花にほひをうつす袖のうへに‥‥

2006-02-25 13:06:36 | 文化・芸術
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-今日の独言- 「むめ」と「うめ」

 ぐっと冷え込むかと思えば、今日は気温も14℃まであがり、蕾も一気にほころぶほどの春の陽気だ。今日と明日で各地の梅だよりもぐんと加速するだろう。天満宮の梅は和歌山の南部梅林と同じく七分咲きとか。
ところで、歳時記などによれば、平安期以降、梅の表記は「うめ」と「むめ」が併用されていたようで、かの蕪村をして「あら、むつかしの仮名遣そやな」と歎かせたとある。「梅」一字では「mume-むめ」が本来のようで、「烏梅」とか「青梅」とか熟語となると、u-ウ音が際立ったらしい。
山本健吉によれば、承和年間(834-848)に、御所紫宸殿の前庭に橘と並んで植えられていた梅が枯れて、桜に変えられたという故事があるが、これは花に対する好尚が唐風から国風へと変化する一指標、とある。また、他説では、貴族社会はともかく、低層庶民は古来から桜を愛でていたともいわれるから、ようやくこの頃になって、唐風に倣うばかりの趣味志向から貴族たちも脱皮しはじめたにすぎないともいえそうだ。


  灰捨てて白梅うるむ垣根かな   凡兆
  二もとの梅に遅速を愛すかな   蕪村
  梅も一枝死者の仰臥の正しさよ   波郷


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-15>
 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも  大伴家持

万葉集、巻十九、天平勝宝五年二月二十三日、興に依りて作る歌二首。
邦雄曰く、万葉巻十九中軸の、抒情歌の最高作として聞こえた三首の第一首。涙の膜を隔てて透かし視る春景色と言おうか。燻し銀の微粒子が、鶯の声にも纏わるような清廉な調べは、いつの日も心ある人を詩歌の故郷へ誘うことだろう。この折三十代前半の家持、夕霞の鶯は、彼の心象風景のなかで、現実以上に鮮やかな陰翳をもって生き、ひたに囀りつづけている、と。


 梅の花にほひをうつす袖のうへに軒洩る月の影ぞあらそふ
                                    藤原定家


新古今集、春上、百首歌奉りし時。
邦雄曰く、光と香が「あらそふ」とは、さすが定家の冴えわたった発想だ。天からは月光が軒の隙間を洩れて届く。樹からは梅花の芳香、それも薫香さながら衣に包を移す。伊勢物語「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」の本歌取り、と。


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ものおもへば心の春も知らぬ身に‥‥

2006-02-24 15:54:10 | 文化・芸術
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Infomation<奥村旭翠とびわの会>

-今日の独言- 筑前琵琶はいかが

 例年春の訪れを告げるように「奥村旭翠とびわの会」の演奏会が催される。
今年は明後日(2/26)の日曜日、会場はいつものごとく日本橋の国立文楽劇場小ホール。
筑前琵琶の奥村旭翠一門会といったところで、新参から中堅・ベテランまで十数名が順々に日頃の研鑽のほどをお披露目する。
旭翠さんは弟子の育成には頗る熱心であるばかりでなく指導も適切で弟子たちの上達も早い。琵琶は弾き語りだから演奏と詠唱の双方を同時にひとりでこなす訳だが、どちらかに偏らずきっちりと押さえていく。だから奏・唱バランスのとれた将来有望な人たちが育つ。
浄瑠璃の語り芸は70歳あたりから芸格も定まり一代の芸として追随を許さぬ本物の芸となると思われるが、琵琶の世界も同様だろう。
旭翠さんはまだ60歳前だが、彼女が教えることに極めて熱心なのはきちんと伝える作業の内に自身の修業があるとはっきり自覚しているからだ。そういう芸への姿勢をのみ私は信ずる。
 連れ合いは入門してから4年、まだまだ新参者の部類だ。それでも石の上にも三年というから、ようやく己が行く道の遥かにのびる果てが霧のなかにも茫と見えてきた頃であろうか。謂わば無我夢中の初歩段階から、やっと些かなりと自覚を有した初期段階へと入りつつあるのだと思う。
彼女がこの会で語るのは「湖水渡」。馬の名手と伝えられた戦国武将明智左馬之助が、秀吉軍の追手を逃れ、琵琶湖東岸粟津野の打出の浜から馬もろともに対岸の唐崎へとうち渡り、坂本城へと落ちのびたという講談にもある一節。唐崎にはこの伝に因んだ碑もあるが、もちろん史実ではなく語り物として伝えられてきた虚構の世界。
 当日の演奏会は17の演目が並び、11:30から16:30頃までたっぷり5時間。手習いおさらいの会だから入場は無料。時に聴き入り、時に心地よく居眠りを繰り返し、時間を過すのも年に一度なればまた一興。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-14>
 ものおもへば心の春も知らぬ身になに鶯の告げに来つらむ
                               建礼門院右京大夫


玉葉集、雑一、思ふこと侍りける頃、鶯の鳴くを聞きて。
生没年不詳。父藤原伊行(これゆき)は藤原の北家、伊尹流に属し、書は世尊寺の流れをひいた。「和漢朗詠集」の見事な写本がある。母は夕霧尼といい箏の名手。建礼門院(中宮徳子・清盛の娘に仕え、やがて重盛の二男資盛との悲運の恋に生きた。「建礼門院右京大夫集」は晩年、定家に選歌のため請われ提出したもの。
邦雄曰く、彼女にとって心の春とは、資盛に愛された二十代前半、平家全盛の日々であった。建礼門院右京大夫集では、この鶯は上巻の半ば、甘美な、そのくせ不安でほろ苦い恋の一齣として現れる。「春も知らぬ」とはむしろ反語に近かろう、と。


 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる
                                   凡河内躬恒


古今集、春上、春の夜、梅の花を詠める。
生没年不詳。貫之とともに古今集時代の代表的歌人。古今集選者の一人。三十六歌仙。古今集以下に196首。
邦雄曰く、梅の花の芳香は闇といえども包み隠せるものならず、散文にすれば単なることわりに聞こえるが、歌の調べはうららかに、照り出るようや一首に変える。躬恒の天性の詩才でもあろう、と。


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