山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

痩骨のまだ起直る力なき

2008-06-30 15:57:59 | 文化・芸術
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―四方のたより― 水平的集合の祝祭空間、その楽日は?

この24日から昨日-29-までの1週間行われた、CASOにおける「デカルコマニィ的展開/青空」展とはいったいなんであったか?
初めと終りの日だけにしか立ち会っていない私に、それを語る資格があるやなしやという問題もあろうが、敢えていうならば、その特質は「水平的集合の祝祭空間」といったものになろう。

多くのMusicianたちやDancerたち、加えて造形や絵画、映画、写真などのArtistたちが寄り集い、それぞれの表現行為を並列せしめる。その集合を可能ならしめているのはDancerとしての大道芸人デカルコ・マリィの存在にはちがいないが、彼自身の立ち位置、他の参加者たちへのスタンスが、横へ横へとひろがりいく水平的な交わりを大事にしようとの拘りゆえだろう。

だからこの集合-体を付すべきではない-によるMovementは、全体として親和性に満ちており、臨場する人々に快を与えるものとなりうるし、観る者を巻き込んだ祝祭空間ともなりえているのだろう。この点においては特筆に値するEventといってもいい。

とはいえまったく注文がないわけではない。
祝祭の1週間、楽日の大団円となったLIVE・音舞楽劇「青空」で演じられたものが、その水平的集合の祝祭に相応しいものになりえていないことで、これではまるで画竜点睛を欠いたものと云うしかない。

このLive-音と舞による楽劇-、時間にして正味30分程。音の演奏者たちは各々楽器が異なる。さまざまな音が連なり、重畳し、共振していく音世界‥。

ならば舞のほうはどうであったか。ほぼ前半はデカルコ・マリィのSolo世界、後半になって他の競演者たち10名ばかりか、まずは思い思いのactionなりimageをもって登場してくるが、やがて一団となって動きはunison化する。Imageの捉えやすい単純な動きが繰り返され、energyが増幅され、最後にはてんでに蒼穹の彼方へと舞っていったか‥、といった展開だが、いかにも段取りに終始してしまっている。

大勢でやるのだから一定の段取りは必要だろう、それは認めるとして、段取りのままに終ってしまってなんとする。その段取りの内に、破調を、波乱を、そのタネを仕掛け置かずになんとする。ひとしなみにDancerといっているが、その構成は、役者ありモダンありで、さまざまな個性をもった多彩な顔ぶれである。仕掛けひとつで意想外の世界を現出せしめること、それほど難しい業でもあるまい。

このユニークな水平的集合なればこそ自ずと生まれ出る表現のひろがりを期待してみたのだが、この祝祭の大団円たる時間を凭れ合いや馴れ合いで費消されてしまっては、いかにも悔いが残ろうというものだ。

親鸞に「横超-おうちょう-・竪超-じゅちょう-」の語がある。「横」は他力、「堅」は自力を表す。「超」はすみやかに迷いを離れることを意味するが、この水平的集合に親鸞の「横超」を垣間見た気がしたのだったが‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-23

   ほとゝぎす皆鳴仕舞たり  

  痩骨のまだ起直る力なき  史邦

痩-やせ-骨の、起-おき-直る

次男曰く、季語はないが、晩夏・初秋の候にいたり、署をもちこたえた病人のさまだと判る。「まだ」と云い、「力なき」と云い、期待と努力は何度も-何年も-繰返されたのだ、と覚らせながらうまく前二句がつくった歴史の俤を絶っている。

冥途の鳥と異名をとった鳥の声を聞かなくなったということは、死はそこに来ているとも、ようやく危機を脱したとも受取れて、史邦が後者を択んだのは俳諧のはこびとしてごく自然な智慧だが、黒川玄逸の「日次-ひなみ-記事」-貞享2年-に、「俗に云ふ、床に臥して-杜鵑の-初音を聞けば、すなはちその年病あり。もし然らば、すなわち忽-すみやかに-起してこれを祝せ」とある。「起直る」は、この種の縁起かつぎから思付いたのかもしれない、と。


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ほとゝぎす皆鳴仕舞たり

2008-06-29 22:51:11 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-22

  火ともしに暮れば登る峯の寺 

   ほとゝぎす皆鳴仕舞たり  芭蕉

皆-みな-鳴-なき-仕舞-しまひ-たり

次男曰く、「たれぞの面影」を誘う狙いについて、当座、去来の口から出なかった筈はないと思うが、それはまず後鳥羽・順徳両院の遠流を措いては他にあるまい。
承久3(1221)年7月隠岐と佐渡にされざれ遷御、後鳥羽院は在島18年60歳で、順徳院は在島21年46歳で崩じている。切なる還京の願はついに聞入れられなかった。

「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け」-後鳥羽院-
「おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島守」-々-

「増鏡」が世に知らせた、隠岐での後鳥羽院の歌は全部で16首、多くはないが、「新古今集」改撰-隠岐本-に日夜ひとり心をくだかれた、御人の憂悶の情は窺うことができる。

「たれぞの面影」は、後鳥羽院と見定めてよいだろう。句は、かくてこの夏もむなしく過ぎてしまった、帰京の願は今年も叶えられなかった、と読める。

承久の乱のはじまりは3年5月15日、嘉時追悼の院宣、終結は6月15日、僅かひと月で脆くも事は潰え去った。続いて7月13日、隠岐へ向けて離京。後鳥羽院蜀魂の暦は逝く夏の思い出から始まった、という事実は句作りにとっていっそうの好都合だったに違いないが、工夫の趣向はそれだけではない。

「火ともし」は一家無事・海上安全の祈願から護国の法灯まである、と読ませる去来の句ぶりは、四季それぞれと結んで風情になる。冬を夏に奪うことなどいと容易い句渡りだが、雪が冬の代表的景物ならほととぎすは夏のそれ、片や始動-雪け-なら片や終息-鳴仕舞たり-、と呼応させた奪い方の手並はさすが。

「ほとゝぎす待つ心のみ尽させて声をば潜む五月なりけり」-西行・山家集-
「至宝抄」に曰く「時鳥はかしましき程鳴き候へども、希にきゝ、珍しく鳴、待かぬるように詠みならはし候」とあるように、ほととぎすは鶯と共に初音を待たれる鳥だ、ということもむろんこの句の結構には利かされている、と。


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壁書さらに「默」の字をませり松の内

2008-06-28 15:37:27 | 文化・芸術
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―山頭火の一句―

明治45-1912-年、30歳になる年の句だが、この頃の種田正一はまだ「山頭火」ではない。詳しく云えばすでに山頭火をペンネームにはしていたが、俳号は「田螺公」と称し、他の文芸活動、たとえばツルゲーネフの翻訳などに山頭火を使っていたらしい。むろん句ぶりはまだ山頭火らしさもなく、新風自由律の開眼からは遠い。

防府を中心に前年-M44-から発足した俳句結社「椋鳥会」に参じ投稿していたが、45年の句作はこの一句のみ。

結婚を子どもも設けたにも拘わらず、文芸への志は閉塞の内にあり、彼の心は焦躁にかられ荒んでいたようである。

「もう社会もない、家庭もない‥自分自身さへもなくなろうとする」
「自覚は求めざるをえない賜である。探さざるをえない至宝である。同時に避くべからざる苦痛である。殊に私のやうな弱者に於て」

などと記すこの弱者の自覚は、彼の神経をさらに衰弱へと追い込んでいったか‥。

―表象の森― Performing Artsの30人

狂言と現代劇を繋ぐトータルシアターに挑む野村萬斎
ブレヒトと歌舞伎を股にかける演出家/串田和美
千年の時空を超える仏教音楽「声明」の新井弘順
現代演劇界のニューオピニオンリーダー/平田オリザ
知的障害者との舞台づくりを集大成/内藤裕敬
わだかまりを抱えた人々が通り過ぎる「場」を描く青木豪
日本の若い観客に響くギリシャ悲劇翻訳家/山形治江
マンガと歌舞伎と伝奇ロマン活劇のアクション劇作家/中島かずき
舞踊とコンテンポラリーの越境のアーティスト/伊藤キム
独自の美意識に彩られた大島早紀子のコレオグラフィー
マンションの一室をつくり込む舞台美術家/田中敏恵
点と線を繋ぐ独創的な箏演奏家/八木美知依
日常から湧き出す妄想の劇作家/佃典彦
欲望のドラマツルギー/三浦大輔の軌跡
歌舞伎を支える振付師/8世藤間勘十郎
コンテンポラリーダンス界の異才/井手茂太の発想
社会派コメディの第一人者/永井愛の作劇術
能の音楽から現代へ羽ばたく革新者/一噌幸弘
前衛野外劇のカリスマ「維新派」の松本雄吉
だらだら、ノイジーな身体を操る岡田利規の冒険
身体の極限を問う黒田育世の世界
蜷川幸雄の新たなる挑戦「歌舞伎版・NINAGAWA十二夜」
和太鼓と西洋音楽の融合をプロデュースするヒダノ修一
アングラ第一世代/麿赤児が語る舞踏の今
学ラン印の超人気ダンスグループ「コンドルズ」の近藤良平
現代演劇のニュージェネレーション/長圭史
栗田芳宏が仕掛けた能楽堂のシェークスピア
密室演劇の旗手/坂手洋二の世界
ロック時代の津軽三味線奏者/上妻宏光
金森穰が語る公立ダンスカンパニーの未来

「パフォーミングアーツにみる日本人の文化力」、国際交流基金が運営する「Performing Arts Network Japan」というsiteがあるが、2004年から07年に掲載されたアーティストたち30人へのインタビュー集だ。

60年代から活躍してきたベテランから新世紀になって登場してきたような若手にいたるまで、ずらり並んだ顔ぶれを整理してみれば、劇作・演出系が14人、ダンス・舞踏系が7人、邦楽系が声明も含め5人、さらに狂言、邦舞、翻訳、舞台美術の分野からそれぞれ1人といった構成で、なるほど、この国におけるPerforming Arts-上演芸術-の現在というものを一応眺めわたせるものになっているのだろう。

ただ私にとって興味を惹かれたものは、私自身に近いもの-演劇や舞踊-より、むしろやや遠い世界-演奏や美術-の語り手たちだった。たとえば声明がどのように西洋の現代音楽と出会い、Performing Artsとしての現在を獲得してきたか、あるいは、伝統的邦楽の琴がどんな技術的変容を加えながら西洋楽器とコラボレーションしているか、などの話題であった。

このとりどりの30人の語り手たちの集積によって、なにか新たな地平が切りひらかれつつあるのか、なにがしかの展望が見えるのか、と問うなら、実はなにも見えてこない、なにもないのだ。ひとことで云えば、表現行為なるものは多様性を標榜しつつ、ただたんに消費されるものへとひたすら突き進んできた、そんな現実が横たわっているだけだ。


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火ともしに暮れば登る峯の寺

2008-06-27 23:17:45 | 文化・芸術
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<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-21

   雪けにさむき嶋の北風  

  火ともしに暮れば登る峯の寺  去来

暮-くる-れば

次男曰く、二句一意に作った島の暮しである。
「雪けにさむき」とあれば、「火ともしに」と起す初五文字の遣い方がまず巧い。「夕べにはともしに登る峰の寺」と云っても意味は同じだが、これでは寒暖の呼応は現れない。連句にならぬのだ。

「火ともしに」と初を取出せば、「暮れば登る」は自然の成行と見えようが、これも「宵から登る」では興にならぬ。「暮れば-登る」情は、「雪けにさむき-火ともしに」と不可分の興の工夫とわかる。

そういうことが、ごく日常的なことを語ったに過ぎぬ一行に、ドラマを孕ませる。言葉とは微妙なものだ。

作者去来は後年-元禄7年-この句について、浪化-ロウカ-宛のなかで、「誰ぞの面影に立申候句にて御ざ候」と告げているが、「雪けにさむき島の北風-夕べにはともしに登る峰の寺」や、「-火ともしに宵から登る峰の寺」などでは、俤の立たせ様もないだろう、と。


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雪けにさむき嶋の北風

2008-06-26 22:27:30 | 文化・芸術
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写真は「Check Stone」-作品集「四季のいろ」より-

―表象の森― 2年ぶりの「四季のいろ」

午後から日本風景写真協会の第3回選抜展を観に、本町の富士フイルムフォトサロンに出かけた。大阪展は今日が最終日、来週は札幌展だそうである。

「四季のいろ」と題されたこの展覧会は2年に一度の開催だが、前回梅田のマルビルへ出掛けて初めて観てからもう2年が経つかと、この年齢ともなれば「月日は百代の過客にして」の謂がことさら身に沁みる感がする。

どうやら富士フイルムフォトサロンは昨年に梅田のマルビルから本町へと移転していたらしいが、前回に比べ会場が少し狭くなったか、名誉・指導会員の11点と会員選抜の90点、計101点を数える展示の壁面構成は些か窮屈に過ぎようかと思われた。とはいえそこはスポンサー企業、なにしろ会場は無料提供なのだから、選択の余地はなく、なかなか悩ましい問題ではあろう。

展示作品中、もっとも私の眼を捉えたのは「Check Stone」と題された大分県は由布川渓谷での撮影作品。巌の造化の妙が深遠なる景を現出せしめ、こういう景の発見は撮影者にとってもさぞかし無上の喜びであろうと思われた。

一応、全作品を見終わってから、一休みよろしく椅子に腰を降ろしてみれば、手許近くに今回の作品集が置かれていたので手に取ったのだが、その表紙を飾っている写真が「Check Stone」であったのにまず驚かされた。

頁を繰りながら、いましがた観てきた写真の数々の残像を追ったり、実際に観較べてみたりするのだが、壁面に掛けられ、透明なアクリル板を通して観る印画紙に焼き付けられた画面と、アート紙に印刷された画面では、その写真-風景-にもよるが、ずいぶんと印象に隔たりがあるもので、しはらく驚きつつ見入っていた。

「黒部の谷は秋と夏」であったか、これなどは印刷の画面を見てさりげない構図の良さにはじめて気付かされたようなことである。
「怒涛の海」は構図を超えた波濤のDynamismが画面に溢れていた。「水面凍える」はさりげない自然現象に見出した撮影者の造化感覚が良い。「遊泳」の水面のたゆたいを透して見える木の葉の群れ模様もおもしろい。

あと印象に残る作品たち、「峠の桜」「夜明けの静寂」「雨雲覆う」「メルヘンの丘」「暮色」「秋雨の境内」「孤高」など。

近頃の私はなぜだか、夕景であれ落葉であれ、赤茶色の風景に心惹かれてしまう傾向が強いのだが、好みは好み、鑑賞は鑑賞と、なるべく作品に即して観ようとは心懸けたつもりである。

中務さんの「渇き」については、ご自身から「干上がった汚泥」だと聞かされるまで、実景のなんたるかまるで判らなかった。いや聞いてもなお、実景を想像することができないくらいで、実景を切り取り写し取っているはずの世界なのに想像の埒外にあるというこの不思議には、少々面喰らってしまった。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」-20

  いちどきに二日の物も喰て置 

   雪けにさむき嶋の北風   史邦

次男曰く、二日分一度に食べられたらこれに優る手間の省き様はないが、よもやそんな現実はあるまい、凡兆に惚けられて、いやいやそれがあるんだ、と史邦は応じている。

「二日の物」の内一日分は余り物だ、という見究めがみそである。島も本土の余り物だろう。この気転の連想は俳になる。それも、いまにも雪になりそうな北海の冬なら、申し分ない。食えるときにたらふく食っておこう、という生活の智慧も現実味を帯びてくるから、この有季-冬-の景を以てした虚-実の奪い方は巧い。

凡兆句の手間の省き様を、仮に、「いちどきに夕餉の物も食べておき」「いちどきに三度の物も食うておき」あるいは「貰ひ湯のついでに乳を貰はれて」などと、前句の実の会釈らしく作れば、「雪けにさむき-嶋」に格別の興は顕れぬ。越の北風でも、志賀の北風でもよいだろう。

史邦の句は一見、食いだめから任意な想像を繰り広げて詠んでいるように見えるが、そうではないのだ。「嶋」は軽海かつしたたかな俳言である。「二日の物」がなければ出てこない。

「いちどきに二日の物を喰て置」が、折替りを面白くするために、敢えて虚の作りを以てした謎掛体の工夫だと気付かぬと、解釈はあらぬところへと霧散する、と。


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