山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

それもなほ心の果てはありぬべし‥‥

2007-08-31 15:31:40 | 文化・芸術
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-表象の森- いじめ自殺

月刊「文芸春秋」の1月号などと遡って買い求めたのは、「いじめ自殺」について吉本隆明が小文を寄せているというのに食指が動いたからだ。
「いじめ自殺、あえて親に問う」と題された掌編の中で、吉本はハッとさせられるような大胆な言葉を発する。
「子どもの自殺は『親の代理死』」と見たほうがよいのだ、そう見るべきなのだ、と。
ただ眼を瞠らされ、しばし内省、黙考するしかないような重い言葉である。
ではあるが、子どもに自殺された親にとっては半狂乱と化さざるをえぬ凶刃とも映るだろう。
吉本の謂い様をかいつまんでいえば、
虐められる子も、虐める子も、みんな心の奥底に傷を負っているのだ。
その傷はどこからきているかといえば、幼い子どもにとって主たる庇護者たるもの、両親とりわけ母親なりが、子育ての時点あるいはそれ以前に、すでに負ってしまっている深層の傷であり、寄る辺なき身の幼な児は全面的に寄りかかるべき親の心の傷を、心から頼り切っている身なればこそ無意識裡に見逃せるはずもなく、自分自身もまた傷ついてしまうのだ、というようなことになろうか。
したがって、「子どもの-いじめによる-自殺」と、現在そう見られている悲劇の数々を、現象としていくら「いじめ自殺」と見えようとも、「いじめ自殺」と捉えて対処法を考えようとするかぎり、その努力はほとんど無効なものになるだろう、ということだ。
まだまだ未成熟な子どもが、遺書として「いじめによる自殺」を書き残したとしても、それは真の因から遠いものかもしれぬ、という視点は重要だ。抑も、成熟した大人の場合でさえ、その遺書に真の因を書き残すことは甚だ難しいにちがいない。
「いじめ」と「子どもの自殺」は結びつけられ、すでに「いじめ自殺」の語は、この国の現代社会の用語として成立してしまった感があるが、人というもの、人間社会というものはそうやって問題の本質からいよいよ遠ざかっていくものなのかもしれない。

-今月の購入本-
A.パーカー「眼の誕生-カンブリア紀大進化の謎を解く」草思社
吉本隆明「思想のアンソロジー」筑摩書房
福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書
宮本常一「忘れられた日本人」岩波文庫
J.ジョイス「若い芸術家の肖像」新潮文庫
高見順「敗戦日記」中公文庫
月刊誌「文藝春秋 1月号/2007年」
広河隆一編集「DAYS JAPAN -地震と原発-2007/09」
「ARTISTS JAPAN -28 長谷川等伯」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -29 川端龍子」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -30 安井曾太郎」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -31 菱田春草」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -32 英一蝶」デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -33 酒井抱一」デアゴスティーニ

-図書館からの借本-
松永伍一「青木繁-その愛と放浪」NHKブックス
阿部信雄・編「青木繁」新潮日本美術文庫

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-103>
 それもなほ心の果てはありぬべし月見ぬ秋の塩竈の浦  藤原良経

秋篠月清集、上、秋、月の歌よみける中に。
邦雄曰く、「月の歌」と題して歌は無月にしたところ、天才良経の面目の一端が窺い得よう。月の名所塩竈の眺めは、それでも心に残る何かがあろう。期待と諦観を揺曳して薄墨色にけぶるかの上句と、意外な下句が、独特の世界を映し出す。「久方の月の宮人たがためにこの世の秋を契りおきけむ」は、西洞隠士百首の中のもの、異色の秋月歌である、と。

 唐衣夜風涼しくなるゆゑにきりぎりすさへ鳴き乱れつつ  恵慶

恵慶法師集、きりぎりすの声。
邦雄曰く、初句の「唐衣」が、在来の枕詞から解き放たれて華やかな裾を翻しているような、季節感を存分にもたらす。結句の「鳴き乱れつつ」も、呂律の廻らぬ感と、群れて階調の整わぬ様とが、生き生きと耳の底に蘇ってくる。作者の自在な詠風が躍如としており家集中でも出色。「鳴く声もわれにて知りぬきりぎりすうき世背きて野辺にまじらば」も佳品、と。


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里は荒れて燕ならびし梁の‥‥

2007-08-30 16:48:51 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 市岡、単位制に

大阪府教委による公立高校の再編整備のなかで、市岡が単位制高校へと09年度までに移行することが決まったようだ。
そういえばこの春から学区再編で従前の9学区制から4学区制へと変わり、おまけに前期・後期の入試があったりで、新聞の入試情報などなにがどうなっているのやらさっぱり判らずといった今浦島の思いで眺めたものだったが‥‥。
学区制の変遷でいえば、たしか私が卒業した年の昭和38年度から、この年は妹が進学した年だった所為なのだろう、それまで市内6、市外7の全13学区から5学区へと急拡大の広域化がなされたのを覚えている。
あと調べてみると昭和48年度に府下全域を9学区に再編され、今年の4学区編成まで延々と変わらずにきたわけだが、この長い年月にあって進学率における大阪の公立高優位神話が徐々に崩れ去っていき、その一因を学区制の硬直化に求められてきた傾向も否定できないし、また府教組攻撃の材料にもなってきただろう。それかあらぬか年下の友人の教員など偶に顔を合わせれば、教育現場の愚痴のひとつも必ず聞かされたものだ。
それにしても今浦島のこの身には、総合選択制だ、総合学科だ、全日制単位制だといわれても、一体どういう区別やら要領を得ないこと夥しい。府教委の公式サイトでは平成11年頃からはじまった再編整備計画の経緯が情報公開されているが、膨大な文書資料に及び、かいつまんで判りやすく解説してくれるものとてないから、骨折り損もいいところだ。
今度の再編計画で、総合選抜制19校、総合学科10校、全日制単位制4校となるもようだが、入試でいえばこれらはいずれも前期試験となり、府下全域から受験できることになるらしい。市岡が移行する単位制でいえば、先がけて堺の鳳高校が08年度から移行することになっており、市岡はこれを後追いした格好だ。単位制というからには年次の留年などはなく、3年間で課された単位を履修すればよいことになろうが、旧名門の鳳や市岡がこの制度を採るというのには、長年かけて進行してきた進学校としての地盤沈下に歯止めをかけたいという願いが些かなりとも込められているのであろうか。
こういうことの裏舞台や綱引きについては門外漢の私などにはまるで見当もつかないけれど、現校長K氏は、今は昔の面影に遠く落日の市岡復活にかなり意欲的な御仁らしく、OB連への啓蒙活動にもご執心とみえて、10月に開催予定のわが市岡15期会の総会にもわざわざ参席したいとの申し出があったと聞く。出るというからには当然挨拶のひとつもお時間頂戴と相成るは必定で、そこで名門復活をと鼓舞されてもねえ、ぼくらの世代はそういう風なのじゃなかなか踊らないんですがネ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-102>
 里は荒れて燕ならびし梁(うつばり)の古巣さやかに照らす月影  木下長嘯子

挙白集、秋、古郷月。
邦雄曰く、唾と泥と藁で固められた、漆喰様の燕の巣の脱け殻を、白々と照らし出す秋月、題材からして既に、在来の古今伝授風の美意識から脱した破格の新味がある。第四句の「古巣さやかに」も、一抹の諷刺が含まれており、初句の重みを支えるに足る。雨月の歌に「名を立てし恨みも晴るる今宵かな月といへば雨花といへば風」もあり、異風また一入、と。

 有明の月も明石の浦風に波ばかりこそ寄ると見えしか  平忠盛

金葉集、秋。
邦雄曰く、月夜、明石の月を見て京へ上ったところ、「都の人々月はいかにと尋ねければよめる」と、ねんごろな詞書あり。月明りあまねく昼を欺くばかり、月も「明し-明石」、波ばかり「寄る-夜」の懸詞もさほど煩からず、なるほど、平家物語にまで引かれる即妙のゆかしさ。平氏隆昌の緒を開いた武人の、歌人としてのたしなみが偲ばれる、と。


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声高しすこし立ちのけきりぎりす‥‥

2007-08-27 11:55:44 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 信州子連れ旅

子どもが5.6歳ともなってくると、気ままな旅もどうしても子どもを軸に動かざるをえない。
それほど重症ではないのだが、日々、アトピー性皮膚炎と闘う幼な児には、なによりも空気清澄にして涼風爽やかなのがよかったとみえて、先週の21日から23日、信州滞在の三日の間はほとんど痒がりもせず、まずは結構な環境であった。
初日は行きがけに、観光の定番コースだが、安曇野の大王わさび農場に立ち寄った。以前に一度来たことがあったが、一面のわさび畑の緑と豊かな水の流れが快い記憶として残っていたからだ。昼下がりの夏の陽射しはきつかったが、木蔭は涼しく、せせらぎの水の流れに脚を浸すと痺れるほどに冷たく心地よかった。足湯ならぬ足水というわけだが、七月生まれの私などには寒冷によほど弱いとみえて、冷やりとした一瞬の快感もすぐに突き刺すような痛覚となって襲ってくるから、さっさと引き揚げて一度きりで止めてしまったが、母と子にはその痺れるほどの冷たさがよほど快感なのか、なんども浸しては揚げるの足水を繰り返していた。
先の稿でも書いたが、古民家の宿やきもち家は、その造りといい居住性といい、決して予想を裏切るものではなかった。こういう空間でゆったりと寛げるのはある種至福の時といってもよかろう。
東京から来たのだろう、まだ2歳半という男の児連れの若い夫婦が、われわれと同じく二泊していたが、はっきりしない片言しか喋れぬこの子が、環境の違いだろうがよほど躁状態になっているとみえて、うちの娘がちょっと手勝手やると「キャッ、キャッ」と奇声をあげてはうるさいほどに「オネェチャン、オネェチャン」と覚束ない足取りで追いかけ回していた。おかげで夕食の一刻が賑やかこのうえないものとなって、うちの幼な児にも愉しい時間だったろう。
二日目は戸隠高原へと足を伸ばした。クルマで一時間余り、中条から小川村へそして鬼無里へと、山越えの峠を二つばかり走ったか。嘗ての鬼無里村も戸隠村も平成の大合併で今は長野市に編入されている。
忍者の里でも聞こえた戸隠は、木曾義仲に仕えて功のあった仁科大介に由来するというから古い。昔から修業の山として天台・真言両派の修験道が栄えた戸隠であれば、忍者たちが派生してくるのも肯ける。
幼い子連れ家族のお目当ては「戸隠チビッ子忍者村」だ。要するにアスレチックの道具立てを忍者の里風にアレンジした子ども向け遊びの空間。これがまだ男の子も女の子も区別なく遊び興じる年頃の幼い子どもたちにとってはすこぶるご機嫌の遊び空間となる。ご丁寧にもわが幼な児も400円也で赤い忍者服に着替えて、修業の旅へとフルコースを堪能すること二時間余り、少々怖がりの気がある娘ながら、このときばかりは心技体充実して、次から次へと遊び興じていた。
午後からは戸隠神社奥社の2㎞に及ぶ山道を森林浴とばかりのんびりと歩いてみたが、折悪しく雨模様となって中ほどの山門から折り返した。
宿へ戻って夕食後、遊び疲れた子と母が深い眠りに落ちてからはしばらくは読書。この春先から読み継いできた新訳本の亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」をやっと読了。その夜はずっと激しい雨音が続いていたが、それも朝方には曇り空ながらあがっていた。たしか最低気温19℃とテレビで言っていたが、帰路19号線を大町市へと抜けようというあたり、もう10時半頃になろうというのに、国道にある気温表示が同じ19℃とあったのには驚いた。この日は関西でも雷雨の荒れ模様でこの夏一番の涼しさだったようだが、さすが信州の涼しさには及ばない。
安曇野に着く頃には晴れ間も多くなり陽射しも強くなってきていたが、風は涼しくそれほどの暑さも感じない。このまま高速を走って直帰するには些か惜しいと、穂高駅前のレンタサイクルを借りてしばしロードサイクリング。店で道祖神めぐりなど記載のロードマップを貰って穂高神社を起点に風に吹かれつ安曇野一帯を周回する。犀川流域のこのあたり、水田やわさび畑のひろがる平地にこんもりと塚のようになった処々に樹々が生い茂っている。そういえば他谷(たや)遺跡とかの縄文文化を伝える竪穴住居址群や墓壙群も近年発掘が盛んなようだ。点在する道祖神や史蹟旧跡ポイントで自転車を止めてはスナップ撮影をしたりちょいと一服。二時間弱ののんびりゆったりのサイクリングだったが、こんどは子どもよりも連れ合い殿がご満悦のようだった。
自転車を返して近くで遅めの昼食となったが、腹を満たして帰りの高速道で眠くなってはと思い私のみ自粛、コーヒーだけにした。それでも豊科から高速に上がって中央道の駒ヶ根を過ぎたあたりで少し眠くなったものだが、冷たいものを飲んだり煙草を吸ったりと抗っているうち眠気も去って、とうとう名神に入って伊吹山のSAまでノンストップで駆けてトイレ休憩。
帰着は午後6時半頃だったが、この年に遠出のドライブはやはり堪える。嘗て4.5日かけて東北路を3500㎞走ったことも両三度あるけれど、それももう十年近い昔のことだ。とてもじゃないがそんなハードドライブは今後できそうもなく、今回の旅程あたりが体力相応と観念すべし、と思い悟らされたような旅でもあった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-101>
 秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む  三条院

詞花集、秋、月を御覧じてよませ給ひける。
邦雄曰く、次の秋まで生きているかどうかも知れぬ身、それは三条院にとっては、文飾でも誇張でもなかった。35歳で帝となり5年で退位、翌年41歳の崩御、その頃はすでに失明して月は心に映るのみであった。御製には「恋しかるべき夜半の月かな」の他にも月光哀慕の悲しい調べが多い。「月影の山の端わけて隠れなば背くうき世をわれや眺めむ」、と。

 声高しすこし立ちのけきりぎりすさこそは草の枕なりとも  藤原顕輔

左京太夫顕輔卿集、長承元(1132)年十二月、崇徳院内裏和歌題十五首、虫。
邦雄曰く、初句切れ、命令形二句切れ、三句切れ、まことに珍しい文体で歯切れの良さ抜群。王朝のきりぎりす詠中、好忠作と双璧をなす。殊に第二句の「すこし」に、優しさがにじんでいるあたり、心憎いかぎりだ。子の清輔と共に俊成・定家らの御子左家とは対立する歌風ながら、胸の透くような簡潔さ、雄勁な調べは、さすがに詞花集選者の真骨頂、と。


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きりぎりす夜寒に秋のなるままに‥‥

2007-08-24 17:34:44 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 古民家の宿

お盆も過ぎたというのに炎熱地獄の続く都会を逃れ、3日間という束の間ながら涼を求めて信州に遊んできた。
宿泊先は信州でもめずらしく観光資源らしきものはまったくないような山村の中条村。人口は一昨年の国勢調査時点で2593人。平成の大合併で長野県でもいくつもの村が消えていったが、どうやらこの村の場合、周辺二村との合併協議も不調に終わったらしい。
観光資源がないのだから民宿とて一軒もなく、古民家を移築したという公共の宿が一軒あるのみ。ネットで見つけたその古民家の佇まいに食指が動いて、連泊の予約をして出かけたという次第。
その名も信州名物「おやき」から採られたらしい「やきもち家」は、近在の古民家を移築したという中央の萱葺の母屋は間口12間となかなかの威容で、向かって右側には温泉の湧く浴場家屋と客室4室の新館を配し、左側には集会など団体用とみられる大広間を配している。
我々が宿泊した二日目には、千葉から山村体験にやって来たという小学生の団体がこの大広間に泊まって、蝉の鳴き声ばかりの静かな山あいに子どもたちのにぎやかな声を響かせていた。
客室は母屋の3室と合わせて計7室で、定員は最大38名というから、建物全体の規模に照らせば贅沢なほどにゆったりとしている。我々の泊まったのは母屋の一室だが、これがなんと15畳もあり、おまけに平家造りで剥き出しの天井の梁そのままに高いこと、ひろびろとして居心地はほぼ満点をつけてもよいくらい。
費用対効果でいえばかくのごとく文句なしの環境であり施設内容だが、なにより人のぬくもりが肝要のもてなし、客への応接ぶりに未熟さがあったのは惜しまれる。
地域振興施設として国の補助金制度を利用して整備された道の駅「中条」と同様に、村の事業として生まれたこの宿は、昨今の公共施設全般と同じく、その運営を指定管理者制度で民間に委託しているのである。それが100%民間委託ならばまだしもだろうが、どうやら外郭団体のごときものとなっているとみえて、もてなしの主役たる宿の主人も女将も誰が誰やらはっきりしないどころか、人が日毎に代わってしまっては、客の此方としてもとりつくしまもない。これでは贅を尽くした萱葺の古民家風の宿も形無し、仏作って魂入れずでなんとも心許ないばかり。
金に糸目をつけず成った折角の村興しの一策も、どこにでもある箱物行政と同様の歪みを曝け出していては、造りはどこまでも見事なこのお宿、はていつまで健在でいることやらと、悲しい心配ばかりが先立つのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-100>
 草若み結びし萩は穂にも出でず西なる人や秋をまづ知る  清原元輔

元輔集。
邦雄曰く、詞書には「西の京に住み侍りし人のとはぬ心ばへの歌よみて侍りし返事に」とある。恋の趣き、殊に心変わりをひそかに恨む趣きも見えながら、爽やかな味が捨てがたい。即吟を得意とした元輔ならではの作。人の住む「西の京」は右京のこと、現在も桂・嵐山・嵯峨は右京区の中にある。西は秋、東は春、秋は「飽き」心において読むべきであろう。

 きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく  西行

新古今集、秋下、題知らず。
邦雄曰く、文治3(1187)年、作者69歳の御裳濯(みもすそ)河歌合中の二十一番に見える。「松に延ふまきのはかづら散りにけり外山の秋は風荒むらむ」との番、俊成は左右適当に褒めて持とし、新古今集には二首とも入選しているが、西行の個性横溢、素朴な味比類のない「きりぎりす」こそ記念さるべきだろう。第四・五句の句跨りが、また一入悲しみをそそる、と。


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三日月の秋ほのめかす夕暮は‥‥

2007-08-20 22:33:50 | 文化・芸術
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-表象の森- 定家の「よそ」

今日は定家忌だそうな。
仁治2(1241)年8月20日に崩じたとされる藤原定家は享年80歳。但し旧暦であるから現在の歴に直せば9月26日ということになる。
塚本邦雄によれば、定家の詠んだ歌には歌語としての「よそ」が多用されているという。3652首を集めた一代の家集「拾遺愚草」に、その数どれほどを占めるのか知る由もないが、そのすべての歌から秀歌を選りすぐったという邦雄の「定家百首」では5首採られている。

 年も経ぬいのるちぎりははつせ山尾上のかねのよその夕ぐれ   (1)
 袖のうへも恋ぞつもりてふちとなる人をば峯のよその滝つ瀬   (2)
 ふかき夜の花と月とにあかしつつよそにぞ消ゆる春のともしび  (3)
 契りおきし末の原野のもとがしはそれもしらじよよその霜枯れ  (4)
 やどり来し袂はゆめかとばかりにあらばあふ夜のよその月影   (5)

「よそ」とは此処ならぬ場所、すなわち「余所・他所」にはちがいないが、その曖昧模糊とした限定し得ぬ不確かさから、時空を限りなくひろげ表象の深みへと誘う詩語となりうる。
たとえば、邦雄は「定家百首」のなかで(1)の歌について
「年も経ぬ」の恨みを含んだ初句切れが、「よその夕ぐれ」の重く沈んだ体言止め結句にうねりつつ達し、ふたたび初句に還る呪文的構成が出色であり、さらに初瀬山の一語は、恋愛成就を参籠祈願する意を込めつつ、内には「果つ」の心を響かせているのだが、歌は「祈恋」から発して「呪恋」となり、ついに祈りを呪うまでに凄まじい執念と成り果せてある。その上、夕ぐれを恋人の相逢う時刻と捉えるなら、恨みはさらに内攻しよう。
定家の得意とする「よそ」の用法、一種虚無の色合いさえ感じさせるこの言葉は、憎しみと諦めにくらむ心と、その心をあたかも第三者として見すえるかの冷ややかな眼の、両者交叉すると「よそ」とでもいうべきもの、つまりは、鐘は無縁の虚空に響き、作者は黄昏の中に取り残されて沈んでゆくばかり、救いのない「よそ」に他ならない、と。

また(3)の歌について、
燈火は「よそ」に消える。終夜の宴に華やいだ心はまだ醒めきらぬ。燈火はかの非在の境に揺らぐものか、あるいは宴の座に連なりながら、月光に紛れて見えなかったのか、いずれにしても陶酔を断つ滅びの予兆として今消えようと瞬く。暁の暗示は「あかしつつ」の間接的な時間の経過によるものであり、春夜の逸楽に耽溺した作者の肉と魂は、離れ離れにうつつと夢を漂うのだ。
もちろん「よそ」は「ここ」ならぬ場と時を示す。つまりは他界であり非在の境であろう。さらに作品に即するならば、現世にありながら不可視、不可燭の空間、経験を拒む時間の謂となる。そのような茫漠としたひろがりと靉靆としたふくらみをもつ詩語は、西欧における「彼處(ラバ)」よりもさらに虚無の翳りを帯びた言葉である。
この歌、「よそ」という言葉のもっとも定着した定家の歌の典型であり、(1)の「よその夕ぐれ」の凄まじい呪文と双璧をなす、と。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-99>
 三日月の秋ほのめかす夕暮は心に萩の風ぞこたふる  藤原良経

秋篠月清集、百首愚草、花月百首、月五十首。
邦雄曰く、秋篠月清集巻頭、良経の天才振りを証する花月百首の中でも、技巧的な冴えを示す一首。上・下句の軽妙な照応を試みながら連歌的なくどさは微塵もなく。仄かな今様調が快い。良経の若書きに見るこの破格の調べこそ、新古今集には現れぬ今一つの新風だろう。萩と三日月を近景・遠景とする見事な心象風景に、のどかな鼓の音色が響いてくる、と。

 くつわ虫ゆらゆら思へ秋の野の薮のすみかは長き宿かは  曾祢好忠

好忠集、毎月集、秋、八月初め。
邦雄曰く、くつわ虫も王朝歌には珍しい。きりぎりすや鈴虫とは些か趣を変えて、諧謔を感じさせるため、用例は極めて少ない。あの喧しい秋虫に「ゆらゆら思へ」と悠長な第二句を続けるのも、意外性があり、先の短い歎きを第三句以下に盡しながら、「薮のすみか」と、また聞き慣れぬ歌詞で耳を楽します。ほろ苦い面白みが一首の底に漂い、忘れがたい、と。


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