山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

誰かきさうな雪がちらほら

2005-01-31 10:48:54 | 文化・芸術
200408-024-1

<Nepal・Pokharaの岸本学舎だより>

今日、ここに紹介するのは、政情不安で混迷化が続くネパールで
貧しくて学校に行けない貧困最下層の子らを受け容れ続けている岸本学校の主宰者
私の長年の友人でもある車椅子の詩人岸本康弘が、
ネパール政府より文化人として褒章を受けた際に
新聞報道で掲載された彼の紹介記事より要約を翻訳したもの。


<Hero of the Rising Sun -記事要約>

 幼い頃、私の父は、障害をもってしまった私に向かって「私が死ぬときは、お前も首を吊って死ね。」と言った。
その言葉とはうらはらに、父は、私がこの世で障害をもって生きてゆくために、人として必要なたくさんのことが身につくように全力を尽くしてくれたのです。父の「死ね」というその言葉は、障害者であるよりもひとりの人間として生きること、また、私のような人々の福祉に尽くすように、と私の心を促した、と彼は言う。障害ゆえに彼が受けてきたさまざまな憎悪や差別は、かえって、人として他者よりも秀で、有能たらんと、たえず導き鍛えてくれた。
 詩人であり作家としても知られる岸本康弘は、1937年8月23日、兵庫県宝塚市で、作一とトシ子を両親とする貧しい勤労世帯に生まれた。 生まれた時、彼は健康で五体満足な赤ん坊だったが、満1歳を過ぎた頃、腸チフスに罹り激しい高熱に苦しんだ挙句、脳性麻痺となり四肢が不自由の身となってしまった。8歳のとき父親が他界、家庭を支える唯一の稼ぎ手を失ってしまった。「私を育てあげ教育するために、筆舌につくせぬほど懸命に働きつづけた私の母を、私はこの世で一番愛している。」と彼は言う。 身体の障害ゆえに、小学校に通うことができなかったので、彼はひとり自宅で学習せざるを得なかった。また彼は「あるとき、友達に、世界地図をひろげて日本を示すように言われたとき、私はニュージーランドを指してしまって笑われてしまったことがある。そんなふうに、誰もが私をからかったものだ。ちゃんと文字を読めない私を友達があざけ笑うと、きまって私はわっと泣き出したものだ。」と幼い頃をふりかえる。 だがまもなく、彼は、父親から文字やアルファベットを教わり、読めるようになる。「 本を買うお金がなかったので、よく友達から本を借りたものだ。また、母親はどこからか本を手に入れてきて、勉強するようによく励ましてくれた。 私を励まし続けてくれた唯一の人たちである母と妹を、私はこよなく愛している。こうして、学校に行かずにさまざまな学習をし、知識を身につけるというこの困難な作業に打ち克って、他の友達より正確に読み書きや計算ができるようになったのだ。」と彼はつづける。
 1966年には立命館大学の通信講座を受けるようになり、さらに向上心を持つようになる。 1968年、文学への大いなる情熱をもって大阪文学学校を卒業する。 中学2年次の学習を始めた頃、それは16歳の時だったのだが、彼は初めて詩を書き、24歳のとき、最初の詩集を出すべく取り組み始めた。 「私は、学校用に、あるいは報道用に、さらにはコンピューターの仕事のためにも書き続けてきた。」と彼は言う。
 また「松葉杖を頼りに、初めて独力で歩けるようになったのは、35歳のときだった。それまでの私は、ただ単に、壁などによりすがりながら動くことしかできなかった。 もっとも愛する母親を亡くしたのは、43歳の時だった。」と自分をふりかえる。
 岸本は美しい詩や物語を書く。 彼は11冊の詩集を既に出版しており、そのなかには「人間やめんとこ」「地球のヘソのあたりで」「竹の花」などがある。 彼の作る物語のいくつかは日本で映画にもなっている。 彼のポカラでの学校事業への支援のために、「明日は」という映画が作られた。 彼は、1999年度の「シチズン賞」や1994年の「関西文学賞」を受賞。 さらに、2001年には「現代詩人平和賞」を受賞している。
 岸本はこれまでに50か国以上の世界各地を旅してきたが、その放浪の旅はこのネパールで最後となった。
8年前に、初めてネパールへ来た時のこと、彼はある少女に「いま何時か?」と尋ねたことがあるという。少女は時計をしていたのだが、それを読めない。時間が分からないのだ。彼はとても悲しくなった。 また、ある女性は、自分が一日中働いたその賃金を計算することができない、そういうことがごくあたりまえで、ネパールでは国民の識字率が非常に低く、その向上は大きな国家的課題であることを悟り、この課題に対して自分のできることをしようと、彼はこのとき決心した。 彼は、映画用の詩や物語を書き、それを売ってお金をつくり、そしてついに、貧しいがゆえに、あるいは障害ゆえに学校に行けない子供たちのために、ポカラにネパール岸本小学校を設立したのです。 「誰でも私の身体の障害を見て、私をいじめたものだ。 私は、意気消沈したけれど、だれもが、私のように差別や憎悪の対象として社会から迫害されることがあってはならない、とくじけず生きてきた。この経験が、私にそのような子供のための学校を設立させたのだ。」と彼は言う。
 ポカラでの学校設立を契機に、日本ではこの事業の支援のために「きしもと学舎の会」が結成されました。現在、ネパールにおけるHDSSと日本のきしもと学舎の協同作業でこの学校は運営されている。 HDSSの代表であるアルジュンは、「学校は、非常に系統的に運営されている。」と説明する。 学校に行けない約150人の児童が岸本スクールに通っている。岸本スクールでは、教科書、制服、教材や学用品のほとんどを子供たちに無償提供し、毎週金曜日には、子供たちが「聖金曜日昼食」と呼ぶ給食まで実施されている。
 岸本は、音楽に対する大いなる情熱を持っている。 最近、彼は、ネパールで活躍する歌手や音楽関係の人たちと一緒に、ヒマラヤの山々とネパールの人々への賛歌として、一つのCDアルバムを完成させている。
 岸本はネパールをこよなく愛する。 「私は、私自身もっともっと知りたいと願ってきたヒマラヤの山々やブッダに関する本を、いまも読む。」と言う。近頃、彼はネパール国王より「サダーナ・サマン(文化特別賞)」という名誉ある表彰を受け、これまで以上に、この世界や人々の福祉のために尽くしていこう、と思いを新たにしたと言う。
 66歳で、岸本は、なお創造への熱意と情熱を持っている。 彼は、ほとんど毎日のように働く。 彼は詩や物語を書き、それらを自分で印刷する。 夜、彼はNHKのテレビを見終わってから、深夜おそくまで再び作品づくりに取り組みます。
 最後に「結婚はどうですか。」と聞くと、「私がもし結婚していたら、こんなふうに多くの国々を訪れたり、人々の福祉のために働いたりすることはできなかったでしょう。」 と言い、つづけて「私と結婚を望んだ美しい少女は大勢いたが、私はそれを望まなかった」と、笑いながら答えた。