山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

花咲かば告げよと言ひし‥‥

2007-11-27 16:09:00 | 文化・芸術
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-表象の森- ベジャール逝く

先週の金曜日(23日)だったか、「20世紀バレエ団」を率い前世紀後半の舞踊界に君臨してきたモーリス・ベジャールの死が報じられていた。享年80歳だったとか、つい先頃まで本拠たるスイスのベジャール・バレエ・ローザンヌにて指導していたという。
出世作となった「春の祭典」の振付には偶々見た鹿の交尾に想を得たという話があるが、成程鬼才らしい伝説かと思われる。また哲学者であった父の影響で東洋思想にシンパシィを抱いていたともいわれ、「ザ・カブキ」や三島由紀夫を題材にした「M」などの作品や、能の様式に示した並々ならぬ関心もそのあたりに伏流があるのだろう。
映画「愛と哀しみのボレロ」の振付では舞踊界のみならず世界的名声を獲たが、今世紀に入ってからの晩年は、新作の発表もあるにはあるが、若い生徒たちで創ったカンパニーで後進の育成にもっぱら精を出していたとみえる。
古典的でありつつもモダニズムに溢れたベジャールの作品は、とくに80年代以降、日本のバレエ界に鮮烈な刺激となって、ずいぶん影響を与え活況をもたらしたようであった。以後、コンテンポラリーのひろがりと相俟ってダンスとバレエの離反もかなり近接したかのようにみえる。

そういえばベジャール訃報の数日前、ピナ・バウシュに京都賞授与のニュースが報じられていた。
稲森財団による京都賞はまだ20年余りの歴史にすぎないが、古都京都人の進取性も感じられ国際的な評価も高い。先端技術や基礎科学の他に思想・芸術部門が設定され三つの部門で毎年3人が選出されている。歴代の受賞者一覧を見れば音楽家が突出しており、以下哲学や思想家たち、美術や建築、それに映画界の巨匠が居並ぶ。
ベジャールも99年に受賞しており、これで舞踊界からは2人目の受賞となり、演劇界からの選出が唯一ピーター・ブルックのみというのに比して際立つ特色ともいえそうだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-83>
 花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍おけ  源頼政

従三位頼政卿集、春、歌林苑にて人々花の歌詠み候しに。
邦雄曰く、兼ねての約束通り山守が蹄の音も高らかに罷り越した。今に「花咲き候」と、朗らかに告げることだろう。待つこと久し、馳せ参じようぞ。今宵は宴、照り白む桜花のしたで明かそうよ。白馬に金覆輪の鞍を置け。弾みに弾む四句切れの命令形止め。武者歌人の面目躍如たる雄々しい調べは比類がない。76歳で以仁王を奉じ、宇治平等院にて敗死、と。

 いざ今日は春の山べにまじりなむ暮れなばなげの花の蔭かは  素性

古今集、春下。
邦雄曰く、雲林院皇子即ち仁明帝皇子の常康親王のお供をして、北山へ花見に行った折の作。日が暮れたからとて花陰が消えてなくなるわけでもあるまいと、放言に似た、屈託のない下の句が、繊細を極めた春の歌群に交じって、かえって快く響く。「思ふどち春の山べにうち群れてそことも言はぬ旅寝してしが」も春下に見え、愉しくかつ微笑ましい、と。


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あだにのみ移ろひぞ行く‥‥

2007-11-20 15:54:18 | 文化・芸術
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-世間虚仮- インフルエンザ

北極振動の影響とかで強い寒冷前線が列島北部に大雪を降らせている。
足取りの遅い紅葉前線にやきもきしていたかと思えば急変の寒波到来に思わずブルッと身震いをした。
そういえばインフルエンザもすでに流行の兆しとか、例年になく早いペースで、学級閉鎖も各地で起こっているという。
インフルエンザといえば近頃読んだ池内了著「科学を読む愉しみ」に「四千万人を殺したインフルエンザ」(著者ビート・ディヴィス)なる書が紹介されていた。
俗にスペイン風邪と呼ばれた、第一次大戦の終りの頃、1918年から翌年にかけて未曾有の大流行をしたもので、感染者6億人、死者4000万~5000万人に及んだという。当時の世界人口が精々12億人までだったとされており、2人に一人が感染し、60人に一人がこれによって死んだことになるのだから、凄まじいの一語に尽きる。
スペインが発生源でもないのにそう呼ばれるようになったのは、当時のスペイン国王アルファンソ13世が罹患し、宮廷が大騒ぎとなったことからしく、実際の流行のきざはしはアメリカのシカゴ近辺だったからというから、スペイン国民にとっては迷惑このうえない濡れ衣だろう。
後に、このスペイン風邪のウィルスは鳥インフルエンザウィルスに由来するものと証明されているようである。それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、感染するようになったわけだ。
ウィルスの突然変異による新型インフルエンザが突然猛威を奮い出す危険性はつねに潜んでおり、容易に変異しうるウィルスは、決して我々人類に白旗をあげることはないのだ。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-82>
 あだにのみ移ろひぞ行くかげろふの夕花桜風にまかせて  一條實経

圓明寺関白集、春、夕花。
邦雄曰く、散る花と移ろう花の微妙な差を、もの柔らかな二句切れに暗示した。第三・四句に渡る「かげろふの夕花桜」は、枕詞の意外な復活活用に、眼を瞠るような効果あり、まことに脆美の極み、13世紀末の春の歌の中での、人に知られぬ絶唱の一つか。作者は一條家の祖、寛元4(1246)年23歳で摂政となった人。新古今の明星、良経の孫にあたる、と。

 契りおく花とならびの岡の辺にあはれ幾世の春を過さむ  兼好

兼好法師集。
邦雄曰く、仁和寺の北、雙ケ岡に墓所を作り、そこに桜を植えた時の詠。死後も共にあろうと花に約束したと歌うのも心に沁むが、死後あの世で、さていかほどの歳月をと推量するあたり、ひそかに慄然とする。「花とならびの」に、冥府での姿も浮かんでくる所為であろう。徒然草の作者で、後二條院に仕えながら、30歳前後で出家して、雙ケ岡に庵した、と。


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思ひ寝の心やゆきて尋ぬらむ‥‥

2007-11-18 11:56:32 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 出口調査のフライング

大阪市長選の投票日でもあった今日の大阪は西北の風が吹いて冬近しの感。
立候補者5人と久し振りのにぎやかさで、おまけに自・公推薦の現職に対抗馬が民主推薦と共産推薦と市民派の3人が相応の有力候補とあってか、期日前投票も前回比1.7倍の11万6000人に及んだというが、さて結果はどう出ることかと思っていたら、投票締切の午後8時を過ぎたばかりで早くも毎日放送元キャスターの「平松候補が現職を破る」とのテロップが流れた。近頃過熱気味の出口調査によるものだろうが、まだ開票にまったく着手できていない段階でのこの報道には些か首を傾げざるを得ない。
投票総数の分母に対して一定量のサンプル調査をすればほぼ100%正確な結果を統計的に確率的に導けるとしても、それはあくまでも予測に過ぎないものなのだから、出口調査によれば当選の模様とすべきところだろう。
こういった報道姿勢にも問題を感じるが、出口調査からはたんに当落の結果だけでなく、いろいろな角度からの分析も得られるから各候補者や推薦政党にとっても貴重なデータとなるのは当然至極で、それが外部に漏れるということは一切ないのかどうか。どことはいわぬが近頃のマスコミの偏向ぶりを思量すれば、そんな疑念まで起きてくるのは些か妄想癖に過ぎないのだろうか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-81>
 思ひ寝の心やゆきて尋ぬらむ夢にも見つる山桜かな  藤原清輔

続千載集、春下、題知らず。
邦雄曰く、山桜、山桜と憧れて夢に見る、「思夢」のあはれ。「心やゆきて尋ぬらむ」の第二・三句のねんごろな
修辞に、清輔独特の句風が見られる。清輔朝臣集にはこの歌に続いて、新後撰集入選の「小泊瀬の花の盛りやみなの河峯より落つる水の白波」も見える。二条院崩御により、折角選進した「続詞花集」も、勅撰集にならなかった悲運の人、と。

 幾年の春に心をつくしきぬあはれと思へみ吉野の花  藤原俊成

新古今集、春下、千五百番歌合に、春歌。
邦雄曰く、山家集の「梢の花を見し日より」と呼応するかの切々たる真情の吐露。千五百番歌合、時に俊成87歳、初句「幾年の」も重みを持ち、第四句「あはれと思へ」の念押しも、むしろ頷かせる。本歌は金葉集・行尊の同趣の山桜歌だが、縷々たる調べは遙かに勝る。歌合の番は具親の梅花に鶯をあしらった凡作であるにも拘わらず、忠良の判は持、と。


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春はなほわれにて知りぬ‥‥

2007-11-16 13:24:20 | 文化・芸術
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-世間虚仮- SUDOKU

このところ暇つぶしにSUDOKU=数独に嵌っていた。
もう20年も昔のことだが、ふとしたことからやはり暇つぶしに囲碁を覚えてみようと思い立ち、いくつかの本を買い込んでは我流で手習いをしたことがあるが、これはあまりに奥が深すぎるというか、19×19の盤面上に数限りないほどの手を読むことなど実践も積まない独り遊びではとても上達するものではない。
駆け出しの素人に何度か実践の相手をしてくれた人も居るにはいたが勿論歯が立つ訳もない。そうこうしているうちに暇を持て余し気味だった身分にも大きな変化が起き、やたらと忙しくなってしまって、いつしかその独り遊びも沙汰止みとなってしまい、久しく今日まで遠のいたままだ。
賭け事やゲームなどには向かない気質や性向というものはあるだろうし、自分はそういう類なのだと決めつけて何かに凝ったり嵌ったりなどはまったくといっていいほど縁のない人生だ。だって昔なら河原乞食と他人からは白い眼で見られてきた芝居や踊りの道楽に預けたきたこの身だもの、日々のリズムも思考の関心もその道楽事がどこまでも中心にめぐっていては、たとえ暇つぶしとて凝り型になることはまずあり得ない。
そんな我が身がこの2ヶ月近く、新聞で見かけた数独にひょいと手を出してみたのがきっかけで嵌ってしまったのは、別なことからくるストレスが些か溜まっていた所為なのかもしれない。
お誂え向きにネットでそのものズバリ「SUDOKU数度句」なる無料サイトを見つけたものだから、これがいけなかった。難易度も初級から中・上、さらには上+まであって問題量も豊富で至れり尽くせり。単純なゲームだがやってみると難易度があがると意外に苦闘する。苦闘するほどに意地ともなる。まあ悪循環のようなものでとうとう凝り型になってしまった次第。
こんなことを臆面もなく記しているのは、大概やり尽くしたようだし、そろそろ退き時と見えるからなのだが‥‥。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-80>
 春はなほわれにて知りぬ花ざかり心のどけき人はあらじな  壬生忠岑

拾遺集、春、平貞文が家の歌合に。
邦雄曰く、拾遺集は忠岑の立春歌を巻首に置く。この桜花詠は、古今・業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば」と同趣の、逆説的な頌歌である。心のどかなるべき春を、花に憧れ、思い煩い、却って愉しまぬ。他ならぬ自らが思い知った、世の人も同じかろうと、殊更に深刻な詠歌を試み、春花の歓びを強調する。類想はあるが意表を衝く歌、と。

 見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり  素性

古今集、春上、花ざかりに京を見やりてよめる。
邦雄曰く、紅葉を秋の錦繍に見立てるのは最早常道、和漢朗詠集の「花飛んで錦の如し幾許の濃粧ぞ」に見るように、桃李も錦、柳桜もまたその光輝と精彩を誇ると感じたのだ。新しい美の発見につながる。詞書の通り「京を見やりて」、即ち都から離れて、高見から見渡し見下ろす、パノラミックな大景である点も、この歌のめでたさ。作者は遍昭在俗時代の子、と。


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花のうへはなほ色添ひて‥‥

2007-11-13 12:20:50 | 文化・芸術
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―表象の森― マルチチュード

アントニオ・ネグリとマイケル・ハートによる「帝国」の最終章は「帝国に抗するマルチチュード」と題されていた。
グローバル化した世界の新秩序たる<帝国>に対抗しうるデモクラシー運動を根底的に捉えるために、彼らが導入したのは17世紀の哲学者スピノザに由来する「マルチチュード」という概念であった。
ネグリとハートのコンビによる「帝国」に続く書「マルチチュード」はNHKブックスの上下本として05年10月に出版され、私の書棚にも2年近く積まれたままにあったのだが、このほど走り読みながら上巻をやっと読了。

マルチチュードとは<多>なるものである。
人民・大衆・労働者階級といった社会的主体を表すその他の概念から区別されなければならない。
人民=Peopleは、伝統的に統一的な概念として構成されてきたものである。人々の集まりはあらゆる種類の差違を特徴とするが、人民という概念はそうした多様性を統一性へと縮減し、人々の集まりを単一の同一性とみなす。
これとは対照的に、マルチチュードは、単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差違から成る。その差異は、異なる文化・人種・民族性・ジェンダー・性的指向性、異なる労働形態、異なる生活様式、異なる世界観、異なる欲望など多岐にわたる。マルチチュードとは、これらすべての特異な差違から成る多数多様性にほかならない。
大衆=Massという概念もまた、単一の同一性に縮減できないという点で人民とは対照をなす。たしかに大衆はあらゆるタイプや種類から成るものだが、互に異なる社会的主体が大衆を構成するという言い方は本来すべきではない。大衆の本質は差違の欠如にこそあるのだから。すべての差違は大衆のなかで覆い隠され、かき消されてしまう。大衆が一斉に動くことができるのは、彼らが均一的で識別不可能な塊となっているからにすぎない。これに対してマルチチュードでは、さまざまな社会的差違はそのまま差違として存在しつづける―鮮やかな色彩はそのままで。したがってマルチチュードという概念が提起する仮題は、いかにして社会的な多数多様性が、内的に異なるものでありながら、互にコミュニケートしつつともに行動することができるのか、ということである。


―今月の購入本-
広河隆一編集「DAYS JAPAN -食べ物と人間-2007/11」ディズジャパン
宮本常一・山本周五郎他監修「日本残酷物語-5-近代の暗黒」平凡社ライブラリー
加藤郁乎「江戸俳諧歳時記-下-」平凡社ライブラリー
西原克成「内蔵が生みだす心」NHKブックス
氏家幹人「サムライとヤクザ -「男」の来た道」ちくま新書
沖浦和光「日本民衆文化の原郷 -被差別の民族と芸能」文春文庫
池内了「科学を読む愉しみ -現代科学を知るためのブックガイド」洋泉社新書
他、ARTISTS JAPAN38-梅原龍三郎/39-速水御舟/40-鈴木春信/41-川合玉堂/42-池大雅/43-横山操

―図書館からの借本―
小田実「大阪シンフォニー」中央公論社
小田実「玉砕/Gyokysai」中央公論社
松下貢編「非線形・非平衡現象の数理-2- 生物にみられるパターンとその起源」東京大学出版会

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-79>
 あはれしばしこの時過ぎてながめばや花の軒端のにほふ曙  藤原為子

玉葉集、春下、曙の花を。
邦雄曰く、桜花さまざまの中に、これは軒近く咲く眺め、「この時過ぎて」の躊躇に、曰く言い難い風趣と、屈折した余情が見え、それもまた玉葉時代の歌風の一典型だ。玉葉集選者京極為兼の姉、伏見院・永福門院の女房として、殊に新風樹立に精彩を加えた歌人。藤大納言典侍歌集にも「はなもいざただうち霞む遠山の夕べに盡す春の眺めを」がある、と。

 花のうへはなほ色添ひて夕暮の梢の空ぞふかく霞める  伏見院

伏見院御集、春歌中に。
邦雄曰く、桜を眺めながら花を歌わず、梢を歌おうとして実はその彼方に霞む夕空を、まことに瀟洒に、淡々と描く。交響楽中に、一瞬諸楽器が音を絶ち、木管楽器のピアニシモを聴かせる、あの張り満ちた弱の強さを感じる。「四方山に白雲満てり昨日今日花の盛りに匂ふなるべし」も同題中の一首、鋭い二句切れが見事に効いて、二首は佳き照応をなす、と。


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