山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

けさ見ればうつろひにけり女郎花‥‥

2006-09-28 11:23:53 | 文化・芸術
Dancecafe060928posta

Information-Shihohkan Dace-Café-

今宵(9/28)は、久しぶりのダンスカフェ。
このところの杉谷君、そのピアノの即興演奏は進境著しい変容ぶりをみせ、付き合っていてとても愉しい思いをさせてもらっている。
昨年暮れ頃からだと思うが、音世界に遊ぶというか、自由度がすこぶる高まってきたのではないか。
こうなってくると、おのずから踊りと音との関わり-即く・離れる―も変わり、それぞれの遊び心を奔放なまでに解き放ってゆけるはずだ。


-表象の森- 高橋悠治的

 高橋悠治の「音の静寂・静寂の音」を読んでいる。
さすが求道者にも比しうる類なき実践の人、その達意の文は分野を超えて蒙を啓かせ胸に響く。
書中、論語第一章の「学而」を引いて、実作の手法、修練に珠玉のコトバを紡いでいる。
「子曰学而時習之不亦説乎」
子曰く、学びて時に之を習う、亦(マ)た説(ヨロコ)ばしからずや
と読み下すが、
著者は、「文字を書きながら これを身につけるとはどういうことか」と問いつつ、これを一語一語の原義的イメージへと解体していく。-以下引用抜粋-


子 生成するもの
曰 内からひらかれるもの
学 さしだす手とうけとめる手のあいだに うけわたされるものがあり ひとつの屋根の下に育つものがある
而 やわらかくつながりながら
時 太陽がすぎていく
習 羽と羽をかさね またはくりかえし羽ばたき
之 足先をすすめる
不 口をとじてふくらませる
亦 両腕を下からささえ
説 ことばのとどこおりは ほどかれる
乎 胸からのぼる息が解放される


文字によってまなぶということ、文字をならうということ
それぞれの文字にはことなる運動の型がある
文字を組み合わせてなめらかな文章を編むのではなく
文字のつながりを切り離し
孤立した文字がそれぞれ内蔵する運動をじゅうぶんに展開しながら
それらが同時に出現する場を設定する
からだの統一を一度断ち切って
多方向へ分裂する複合体としてとらえ
それらの相互作用の変化する局面を観察する
それは全身をつかっての運動であり
時間をかけた修練であり
それがからだにしみこんでいけばからだも息も 
そして心もひらかれ らくになっていく
              ―― 参照:高橋悠治「音の静寂-静寂の音」平凡社


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-62>
 展転(コイマロ)び恋は死ぬともいちしろく色には出でじ朝貌(アサガホ)の花
                                        作者未詳


万葉集、巻十、秋の相聞、花に寄す。
邦雄曰く、忍恋の極致に似て、展転反側、眠りもやらず、焦がれ死のうとも、顔色にも出すまいという。その譬えに朝顔を用いたのは、ただ一日で儚くなることを意識してのことだろうか。「言に出でて言はばゆゆしみ朝貌のほには咲き出ぬ恋もするかも」がこれに続く。恋の心は言葉にさえ出さず、朝顔のようにつつましく胸中深く慕っていると歌う、と。


 けさ見ればうつろひにけり女郎花われに任せて秋は早ゆけ  源順

源順集、あめつちの歌、四十八首、秋。
邦雄曰く、一首の冒頭と末尾が先に決まっているという制約上の非常手段が、逆に効果を齎したとも考えられるが、命令形結句が意外な諧謔を生み、第四句の稚気を隠さぬ「われに任せて」がまことに愉しい。秋草の歌では前例のない一首だ。二句切れ、三句切れと見えながら、意味上は断ちがたく連なっているところなども、この人ゆえ、計算の上の調べだろう、と。


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寝られめやわが身ふる枝の真萩原‥‥

2006-09-27 07:21:25 | 文化・芸術
Dsc_00321

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-表象の森- フロイト=ラカン:「一の線」と「対象a」
      ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


「一の線」⇔「唯一特徴」
・「私を見ている目がどこかに在る」という、「私を見ている目」の在り場所は、
神の不在となった現代において、それはもはや「目」ではありえなく、「線」となった。
人は自分を「一人の人」として自覚する。
自覚と、「数えるという行為」とは切っても切れない関係にある。
・「一の線」-エディプスコンプレクスにおける「同一化」の問題。
人がエディプスコンプレクスを乗り越えて得る超自我の導きも、そもそも無媒介的に想定される人間の絆も、実は一つの「症状」である。
「症状」の地位は、突然、高められる。人は症状から逃げて生きるのではなく、症状を純化して生きるべきなのである。


「対象a」⇔「失われた対象」
・対象aに向けられる欲望が、欲望の原基である。
この対象に向けられている欲望は、己の欲望のようでありながら、実は他者から、自己の不在に対して向けられている欲望である。
・「人間の欲望は大文字の他者の欲望」なのである。
「一の線」と「対象a」とは、このように普遍の他者と個別の自己の間を繋ぐ。
その繋がりが実現しているとき、人は生きる喜びを感じる。
・対象aには「失われたもの」という性格が備わっている。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-61>
 朝まだき折れ伏しにけり夜もすがら露おきあかす撫子の花  藤原顕輔
左京大夫顕輔卿集、長承元(1132)年十二月、崇徳院内裏和歌題十五首、瞿麦(なでしこ)
邦雄曰く、終夜露の重みに耐え続けていた撫子が、朝になるのを待ちあえず折れてしまった。誇張ではあるが、あの昆虫の脚を思わせる撫子の茎は、あるいはと頷かせるものがある。この歌は河原撫子をよんだものであろう。表記は万葉以来、石竹・瞿麦その他混用され、秋の七草の一つに数えられている。常夏もその一種だが、これは夏季の代表花、と。


 寝られめやわが身ふる枝の真萩原月と花との秋の夜すがら  下冷泉政為
碧玉集、秋、月前萩、侍従大納言家当座。
邦雄曰く、冷泉家の末裔、定家から既に三世紀近くを経て、歌も連歌風の彩りを加え、濃厚な美意識は眼を瞠らせる。初句切れの反語表現、懸詞の第二句、第三句に遙かに靡く萩原を描き、第四句は扇をかざして立ち上がったかの謳い文句、各句の入り乱れ、寄せては返すかの呼吸は間然するところがない。しかも何かが過剰で快い飽和感・倦怠感を覚えさせる、と。


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夏の日の燃ゆるわが身のわびしさに‥‥

2006-09-25 21:24:20 | 文化・芸術
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Information-Shihohkan Dace-Café-

-表象の森- フロイト=ラカン:「他者の語らい」⇔「無意識」
   ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


・「人の欲望は他者の欲望である」
人間の欲望は、内部から自然と湧き上がってくるようなものではなく、常に他者からやってきて、いわば外側から人間を捉える。
フロイトの発見した「無意識」とは、そうした主体的決定の過程において、すなわち、他者から受け取った欲望を自分のものに作り替える過程において、形成されるものにほかならない。
一つのシニフィアン-というのも、他者の欲望は常に一つのシニフィアンのもとに出会われるだろうから-をもう一つ他のシニフィアンに取り換えること、
ラカンは、フロイトの「抑圧」をこのようなシニフィアンの「置き換え」のメカニズムとして捉え直す。


・「無意識は他者の語らいである」
無意識は一つの言語として構造化されている。
それは、主体の内部に入り込んできた大文字の他者そのものである、と言ってよい。
ラカンは無意識を「超個人的なもの」と呼ぶことをためらわない。
クロス・キャップと呼ばれている構造体(メビウスの帯の縁に沿って、それと同じ長さの縁をもつ円盤を縫いつけたもの)においては、一つの面が自分自身を通過するために、閉ざされた空間の内部と外部のように見える部分とが完全に連続している。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-50>
 軽の池の内廻(ウチミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに独り宿(ネ)なくに
                                         紀皇女


万葉集、巻三、譬喩歌。
邦雄曰く、巻三冒頭に見える作。紀皇女は穂積皇子と同じく、母を蘇我赤兄の女とする天武帝皇女である。独り寝の寂しさを訴えるにも鴨の雌雄の共に浮かぶさまを一方に置き、間接表現で暗示する。「軽の池」と「玉藻」の文学の上の閑麗な照応も、玉藻は人の上ならば玉の牀となることも、一首に皇女らしい趣をもたらした。縷々とした趣の、実に愛すべき作品、と。


 夏の日の燃ゆるわが身のわびしさに水恋鳥の音をのみぞ鳴く 詠人知らず

伊勢集、夏、いと暑き日盛りに、男のよみたりける。
邦雄曰く、水恋鳥は赤翡翠(アカショウビン)の異名、翡翠(カワセミ)もさることながら、古歌にも滅多に現れない鳥である。この歌の作者、伊勢の数多の愛人のなかの一人で、誰々と想定も可能だが、「ある男」としておいた方が面白かろう。案外、伊勢自身の創作かも知れず、まことに鮮麗で情を盡した美しい恋歌である。「夏=燃ゆる」、「水恋=見ず恋ひ」の縁語・懸詞もうるさくない、と。


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ゐても恋ひ臥しても恋ふるかひもなみ‥‥

2006-09-24 21:07:20 | 文化・芸術
Mainichi0609241

Information-Shihohkan Dace-Café-

-世間虚仮- 紙面トップに「求む住職」

 イヤハヤ、今朝の毎日新聞の紙面トップには驚かされた。
記事はご覧のとおり、禅僧の求人?
僧侶の後継者難に業を煮やした臨済宗妙心寺派が、従前必須の修業期間を格段にコンパクトに改め、ハードルを低くしてひろく人材を集めたいと、大胆な制度改革に打って出ようというもの。
臨済宗最大宗派を誇る妙心寺派は全国に末寺3400を有するが、住職のいないいわゆる無住寺が900にも及び、また、寺の住職資格を得る修行過程にある僧らには、教師や公務員などの兼職者も多く、近頃は民間企業の営業マンと兼職するケースも増えており、厳しい従来制度ではとても住職が育たず、このままでは無住寺ばかりが増え先細る一方というわけだ。
妙心寺派にかぎらず、寺の住職不足や後継者難は今に始まったことではなく、もう長年、どの宗派でも決め手に欠け、イタチごっこの如く対策に苦慮してきていることだろう。


 この話題、バブル崩壊以降の十数年、改革の嵐が荒れ狂うこの国の世相を映して、厳しい修行もってなる禅僧の世界にまで<改革>の風が吹き、大幅な<緩和>策が採られるというその構図に、改革と規制緩和ばかりで格差社会を増幅させてきた小泉政治の、まさに幕を閉じようとしているこの時、時代を映す鏡としてのニュース性があるとして紙面トップを飾ることになったのだろうが、そのアイロニーたっぷりな紙面づくりへの評価は分かれるとしても、意表を衝いたものではある。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-49>
 ゐても恋ひ臥しても恋ふるかひもなみ影あさましく見ゆる山の井  源順

源順集、あめつちの歌、四十八首、恋。
邦雄曰く、沓冠同音歌の「ゐ」、恋い祈ればその面影が水鏡に顕つという山の井にもいっかな映らぬ君、身を揉むような訴えは、言語遊戯の産物とは思えぬほど情が通っている。四十八首、趣向さまざま、「恋」にはまた「猟師にもあらぬわれこそ逢ふことを照射(トモシ)の松の燃え焦れぬれ」等、技巧を盡した歌を見る。これは天地を「れ」で揃えた歌。機知縦横の才人、と。


 面影は見し夜のままのうつつにて契りは絶ゆる夢の浮橋  後崇光院

抄玉和歌集、永享四年二月八幡社参して心経一巻書写してその奥に、絶恋。
邦雄曰く、その夜以来、人の面影は鮮やかに心に焼きついて、いつでも現実そのままに蘇るが、逢瀬はふっつりと途絶えて、夢の浮橋さながら消え果てた。複雑な恋愛心理の一端を、含みの多い暈(ボカ)しの手法で連綿と綴った。「形見とて見るも涙の玉匣(クシゲ)明くる別れの有明の月」は、翌年9月の「寄匣恋」。「夢の浮橋」とともに、家集恋歌群中の白眉であろう、と。


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かつ見つつ影離れゆく水の面に‥‥

2006-09-23 18:01:54 | 文化・芸術
Freudlacan

Information-Shihohkan Dace-Café-

-表象の森- ラカンからフロイトへ遡る

・近代の頂点で「神は死んだ」と語った人がいた。
代わって人間の理性が、神の不在の場所を覆うはずだった。
しかし、理性は必ずしもその任に堪えないことが判明しはじめた。
その一方で、神そのものではなく、神の場所が「無意識」として存続していることが発見された。
神を亡くし、その代わりにフロイトによって発見された「無意識」を認めて、
不完全な自らの思考と言語で生に耐えること、
これがラカン言うところの「フロイト以来の理性」となった。


・夢から醒めた人が、現実のなかで逢着するのは、
以前の「出会いそこない」に覆い被さる、もう一つの「出会いそこない」である。
夢というものは、過去の「現実」の「出会いそこない」を埋め合わせるべく、
現在の「現実」を単なる「象徴」として使ってしまうよう、
夢見る人に要求してくることをその役目としているのである。
この要求に従うとき、
現在の「現実」は、夢と同じく「象徴」としての資格しか有さないものになってしまう。
しかも繰り返しそのようにされてゆく。
そして、夢のなかに記憶として存在している「出会いそこない」だけが、
真の「現実」として残され、いつまでも私たちの心をせき立て続けることになる。


・「言語活動」は「現実」を全能的に支配することをその本質とする。
「夢」が「現実」を無視した展開を見せるのは、
まさに夢がこの言語活動の本質を最も徹底的に実践するからである。
夢が私たちに運んでくる真の「現実」は、
「言語活動との出会い」によって、「現実」が失われてしまったという「事件」、
とくに「ありのままの生の現実」が消去されてしまったという、起源に刻まれた「事件」である。


・「言うことができない」という不可能と、「出会いそこない」というその痕跡が残されており、
それが身体の「傷」と同じ仕方で、私たちが生きているかぎり私たちを苦しめる。


・フロイトは、ヘーゲルに途中まで添いながら、そこから決定的に別れ、
自己意識と主体が「出会いそこない」という関係にあるという必然を、切羽詰った人間理性の法則として提出している。


・ラカンがソシュールの構造言語学を引き寄せつつ答えようとしたのは、
人間と現実の間の関係は、言語という記号と外的現実の間の関係の問題ではなく、
独立した言語そのものと人間の思考の間の問題であること、
言語の中に囲い込まれてしまった、あるいは自らを言語で囲い込んでしまった人間の現実喪失を、
もっとも純粋に形式化することのできる可能性をもった装置、だったからである。


・無意識は一つの言語活動として構造化されている。

・「言語」でもって「現実」に対処してゆく人間の生の、
そもそもの出発点に「死」が含まれるようになること。


  ――― 引用抜粋:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-48>
 かつ見つつ影離れゆく水の面に書く数ならぬ身をいかにせむ  斎宮女御徽子

拾遺集、恋四。
邦雄曰く、詞書は「天暦の御時、承香殿の前を渡らせ給ひて、異御方に渡らせ給ひければ」とある。村上帝への怨みを婉曲にみずからに向けて歎く。本歌は古今・恋一の「行く水に数書くよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」。二句切れの「影離れゆく」が、切れつつ水に続く趣も、歌の心を映して微妙だ。承香殿は作者の住む処、数ならぬ身あはれ、と。


 侘びつつもおなじ都はなぐさめき旅寝ぞ恋のかぎりなりける  隆縁

詞花集、恋上。
生没年未詳、醍醐帝の子・源高明(延喜14(914)年-天元6(983)年)の孫にあたる。勅撰集に2首。
邦雄曰く、詞書には「左衛門督家成が津の国の山荘にて、旅宿恋といふことを詠める」とあり、藤原顕季の孫家成が左督に転じたのは久安6(1150)年、その頃の作であろう。たとへつれない人でも、都の中ならまだわずかに報いられることもあったが、遠い旅の空で恋い焦れる夜々は悲しみの限り。下句の縷々と痛切な調べは涙を誘う、と。


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