山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

いろふかき男猫ひとつを捨かねて

2008-12-31 18:42:48 | 文化・芸術
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―世間虚仮― ‘08逝き去りし人々

本年の物故者たち一覧を見つつ。

今年の上半期は大規模な天災、5月、ミャンマーを襲った大型サイクロンと中国四川省の大地震、二つの自然災害報道が世界を駆けめぐった。下半期は地球規模の人災、9月のリーマン・ブラザーズ破綻に端を発した米国発の金融危機がEU・日本に波及、出口の見えない世界同時不況となって長期化必至の深刻な様相を呈している。

2月、独文学者で文芸評論の川村二郎-80歳-、哲学者渡邊二郎-76歳-、映画監督市川昆-92歳-、釜ケ崎詩人の東淵修-77歳-、フランスのヌーボーロマン作家A.ロブグリエ-85歳-、

3月、「一揆論」の詩人松永伍一-77歳-、石井獏の愛弟子で戦前・戦後の現代舞踊をリードした石井みどり-94歳-、’97当時大阪文化祭の審査員として私の「走れメロス」を強く推奨したと伝え聞く宝塚歌劇団の演出家渡辺武雄-93歳-、「2001年宇宙の旅」のA.C.クラーク-90歳-

4月、「ノンちゃん雲に乗る」の石井桃子-101歳-、「ベン・ハー」のチャールトン・ヘストン-84歳-、森進一との確執で騒がれた「おふくろさん」などの作詞家川内康範-88歳-、作家小川国夫-80歳-、随筆家の岡部伊都子-85歳-、

5月、ポップアートのR.ローシェンバーグ-82歳-、歌やバラエティ番組の元祖放送作家塚田茂-82歳-、

6月、ファッションのイブ・サンローラン-71歳-、少女小説作家の氷室冴子-51歳-、京都のAlti Buyoh Fesの仕掛人として長年貢献してきた照明家の船阪義一-64歳-

7月、日本語の起源を古代タミル語にあるとした国語学者大野晋-88歳-

8月、「天才バカボン」の赤塚不二夫-72歳-、戦前・戦後を通じクラシックの大衆化に努めた作曲家服部正-100歳-、ロシアの作家A.ソルジェニツィン-89歳-、松本サリン事件の被害で闘病14年、意識不明のまま逝った河野澄子-60歳-、夫の義行氏は被害者でありながら事件当初犯人扱いされた

9月、国文学者の西郷信綱-92歳-、映画俳優ポール・ニューマン-83歳-

10月、新国劇から巣立ちTV・映画の大俳優となった緒形拳-71歳-、ロス市警の留置場で自殺した三浦和義-61歳-、歌手フランク永井-76歳-、

11月、TBSニュースキャスターだったジャーナリスト筑紫哲也-73歳-、東大紛争時の総長だった民法学者加藤一郎-86歳-、奇書「家畜人ヤプー」の作者沼正三と目される天野哲夫-82歳-、

12月、「日本文学史序説」の著者加藤周一-89歳-、引退していたTVタレント飯島愛-36歳-の孤独死、英国の不条理劇作家ハロルド・ピンター-78歳-、「文明の衝突」のS.ハミルトン-81歳-、

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-33

   伏見木幡の鐘はなをうつ  

  いろふかき男猫ひとつを捨かねて  杜国

次男曰く、「いろふかき男猫-オネコ-」即季語というわけにはゆかぬが、例によって季の句続の約束を利用して「猫の恋」-春-と読ませた作りだ。恋猫は、江戸時代も安永頃になると初春からの季としているが、古くは仲春に扱っている。

「鐘はなをうつ」の余韻を探って思付いた趣向らしく、鐘の音色から「いろふかき」を、鐘を撞き捨てるから「捨かねて」を引出した呼吸に俳がある。

一巻も余すところ三句となって恋句を出すなど、危険なわざである。充分その辺を承知したうえで、作っているらしい。かりに初五を「恋ふかき」「妻を恋ふ」などとしても意味は変りはないが、捨不捨、恋悲恋の狭間をくぐり抜けることにした、告げているように読める。花と無常を表裏に裁った、艶なる句だろう、と。


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伏見木幡の鐘はなをうつ

2008-12-30 23:03:37 | 文化・芸術
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―四方のたより― 一年の垢落し

昨日今日と、竹野海岸の民宿へと一年の垢落しとばかり蟹三昧に舌鼓の、一泊二日の小さな旅。

昼前に家を発って、帰省の渋滞もなく順調すぎるほどの走行に、途中ゆったりと休憩もはさんで、午後4時には目的の宿に着いた。
北前館の湯は、ぬるま湯好きのこの身には熱すぎて、温泉気分満喫とはほど遠く、ちょっぴり不満を残したが、宿での蟹三昧の晩餐は、2時間あまりもかけて、これ以上の満腹はなかろうというほどに堪能。部屋の戻って窓を開ければ、冷たい風が心地よく肌を刺す。

冬の日本海、それも波の音ばかりの黒々とした夜の海となると、束の間の小旅行といえど、一瞬のうちに底なしの旅情に誘われる。ふと、親父がこの世に生きた生の分だけ、いつのまにか私自身もまた、すでに生きてしまっていたのだ、と思い至る。

2008年の印象は、8月の信州方面への旅以降、9月から歳末にかけてのこの4ケ月にすべてが集約されているかのごとく感じられ、それ以前の出来事が遙か遠く薄靄のなかに霞んでしまっているかのよう。ことほど左様に、この4ヶ月に起こった出来事は、一つ一つはそれぞれ別事である筈なのに、縒り合さるようにして一塊の特別な重量感をもって、私の背後にへばりついているような、そんな感さえするのだ。

翌朝、帰路には廻り道となるが、余部鉄橋の下を通って、湯村温泉をめざした。7年前、生後6ヶ月くらいであったろうKAORUKOを抱いて3人で湯元の足湯に浸かったのが懐かしく想い出されて、再びの推参と相成ったのだった。

それからは、竹野行の帰りにはもう定番となった出石へと一目散だ。いつもの店でいつものように出石そばを食したあと、45年ぶりに復館なって今夏柿落しをしたという芝居小屋の永楽館を参観した。

出石から福知山へ、舞鶴自動車道には上がらず、国道9号線をひた走り、それから173号線へと走り継いで、阪神高速空港線へ。午後5時45分帰宅。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-32

  元政の草の袂も破ぬべし  

   伏見木幡の鐘はなをうつ  荷兮

次男曰く、花の定座を引上げた心は元政に寄せた挨拶と見てよいが、じつは「冬の日」興行は第四の巻まで、4人の名古屋衆のうち野水・杜国・重五がそれぞれ二度の花を務めている。荷兮のみ一度だ-霽の巻-というところに、挙句前を殆どきまりとする名残花の座を野水が譲ったわけがある。

加えて、五歌仙の締括りの花が荷兮-正客、発句-という趣向は尤もだろう。一同この巻にきて急に気付いたわけでもなさそうだ。

伏見も木幡も上人ゆかりの深草に近く、句は、元政の開いた瑞光寺の鐘がここまで聞こえてきて折からの花を散らせる、と云っているのだろう。尤も、このあたり寺は多い。どこかの寺鐘を瑞光寺のそれと、と連想したと考えてもよい。

天和・貞享頃と推定される芭蕉の句に、「鐘消て花の香は撞く夕哉」。荷兮の「鐘はなをうつ」は、「草の袂も破ぬべし」のうつりと読めば、この蕉句までゆきつく。そう解釈してよいだろう、と。


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元政の草の袂も破ぬべし

2008-12-29 02:55:31 | 文化・芸術
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―四方のたより― 転位-関係のフォルムから空間のフォルムへ

26日付の項で、即興において「場面の創出」こそめざされなければならぬ、と記した。
だが、この課題は並大抵のことで実現=肉化=するものではない。いわば我々四方館にとっては超課題にもひとしく、その道程には峻険な階梯が立ち塞がっていよう。
そこで私の作業仮説だが、ある一つの転位=関係のフォルムから空間のフォルムへ=、が大きな手がかりになる筈だ、と考えてきた。

関係的表象、そのフォルムは、かりにAとB、1対1の表象世界なら、その変容はだれでも容易に把握できるだろう。瞬間的になら、逐次的におもしろいこと、意外性に満ちたことをも、さまざま生み出していくことはそれほど難しいことではない。短い時間の即興なら、お互いがある程度の発想の柔軟さ、自在さを持ち合わせてさえいれば、かなり洒脱な表象世界をものすることができる。

しかし、そのおもしろさを、意外性を、いくら積み重ねていっても、関係的な表象がどこまでもそこにとどまっているかぎり、「場面の創出」には至らない。いやむしろ重ねられるにしたがい、おもしろさや意外性の効果は減殺されるもので、初発の斬新さはどんどん色褪せていく。

関係的なフォルム、その表象は、あるとき、どこかで、空間のフォルムへと転位されなければならない。架橋されなければならない。その転位が起こったとき、その架橋がなされたとき、はじめて「場面の創出」を孕む契機となりうるのではないか、ということだ。

この作業仮説、さしあたりはAとB、1対1ではじめていくのが、なんといってもわかりやすい。二人のあいだでこの転位が肉化されるとすれば、次にSoloへと、そしてさらにTrioへと、困難さは増すばかりだが、道はひらけてきうる筈だ。

私が神澤師から学んだことは、この一点に集約しうる、といっていい。

先夜のDance Caféを経てほっと一息、昨日-28日-は今年最後の稽古だったが、些か強引に過ぎようかとの思いを抱きつつ、この作業を課していくことにした。
みじかい時間だったが、次への、たしかな一歩を踏み出した。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-31

   豆腐つくりて母の喪に入  

  元政の草の袂も破ぬべし  芭蕉

破-ヤレ-ぬ

次男曰く、名残ノ裏入。芭蕉も、前句を母と子の二人暮しと読取ったらしい。
元政-ゲンセイ-は深草の上人。俗名石井源八郎元政、元和9年に京都で生れ、幼少の頃から彦根藩主井伊直孝に仕えた。詩文を好み、生来多病だったといわれるが、その後、日蓮宗に帰依して25歳の時致仕、妙顕寺の日豊に就いて出家した。深草に称心庵を結び、石川丈山・陣源贇・熊沢蕃山らとの親交が知られる。また、元政の長姉は井伊直孝の側室春光院となって、藩主直澄を生んだ人。元政は寛文8年の没、享年46歳。父母はいずれも長寿だったが、母親の死は息子の死より僅かに早く、後を追うようにして元政も死んでいる。

その元政の親思いは有名な話である。とりわけ、父の死後、母尼に仕えた孝養ぶりはその遺された詩文や和歌の随所に見られる。五男二女の末子として生れたが、晩年の元政と老母とのあいだは、事実上母ひとり子ひとりの信風月だった。そういう男の服喪の心を、芭蕉は付けている、と。


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豆腐つくりて母の喪に入

2008-12-28 02:51:10 | 文化・芸術
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Information-四方館DanceCafé「五大皆有響」-
08年を締括るeventも恙なく終え
わざわざお運びいただいた方々及び関係者のみなさんに感謝。

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -8-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・島崎藤村と「春」
「春」には藤村自身が岸本捨吉という名前で登場する。北村透谷をはじめ、平田禿木・戸川秋骨・馬場孤蝶など文芸雑誌「文学界」の主だった同人たちをモデルに描かれている。
このグループにおける日本の文芸の近代化とは、キリスト教的な教育実践と先駆的な女子教育だった。生活様式も西欧的なスタイルをとることであり、また恋愛至上主義でもあった。なかでもその近代化の理念にあまりに急進的だった透谷が、この小説の中心人物となっている。
藤村の小節の中で「春」は登場人物がもっとも生き生きとしている。漱石をはじめ「破戒」を評価する声は高かったが、ではなぜ藤村はその後、「破戒」のような社会思想的な意味を含んだ小説を書かなかったか。本来的には藤村自身がそうした社会思想や差別問題に一貫した関心を持っていたわけではなかったからだ。その後、自分の書きたいものを初めて書いたのが「春」であり、一番主要な作品だと思える。

・二葉亭四迷と「平凡」
二葉亭四迷は日本のおけるロシア文学受容の最初の人といってもいい。英文学の夏目漱石、独文学の森鴎外に匹敵する大知識人だといえる。
自伝的作品の「平凡」において、彼は文学に対して大鉈を振るう。さまざまな角度から、文学者や文芸作品を全面的に否定する論議が展開されている。その弾劾は徹底して恐ろしい感さえ受けるほどだ。重要なのは、彼が自分自身への批判、否定とともに、他の文学者たちへの弾劾を深めている点だ。
「平凡」を論じるためには、二葉亭だけでなく、日本の近代文学全体を視野に入れた研究や批評が必要だと思う。彼の文学への弾劾をどう受け止めるかは、なお今後の課題となるだろう。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-30

  釣柿に屋根ふかれたる片庇  

   豆腐つくりて母の喪に入  野水

次男曰く、雑、豆腐つくるという季はない。「片庇」を見込んだ付には違いなさそうだが、さて「片庇」をどう読んだのかということがわからない。

闌更-ランコウ-の「冬の日句解」に、「片庇の家を喪屋に見替たるか、喪屋古代は殯-もがり-といへり、極て片庇に造るもの也」とあり、「片庇」を服喪に結びつける考はその後も受入れられているが、古代の喪屋-荒城、殯-を片廂に設けたという記録はない。その後、喪屋の意味が墓守ふうに変ってからもそういう文献はないようだ。

野水は、「片庇」つまり片割れと見込んだのではないか。豆腐作りを生業としてささやかに世を渡る、母子二人暮しの一人が欠けた、と読めばよくわかる。豆腐屋が、母親に死なれてみると今更のように豆腐のよさがよくわかった、という孝養心がおのずと現れていればそれでよいと思うが、そういう解はどこにもないようだ。母と子の二人暮しだったのだと気付けば、「豆腐つくりて」はなかなか芸のある素材になる、と。


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露おくきつね風やかなしき

2008-12-26 13:00:51 | 文化・芸術
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Information-四方館 Dance Café 「五大皆有響」-

―表象の森― 即興における場面の創出

Contemporary DanceとともにImprovisation Danceは、いまやPerformanceやDance Sceneとしては何処でも見られる世にありふれたものとなっているのだろうが、我が四方館の即興- Improvisation Dance –は場面の創出にその力点を置いている点において、世にさまざまあるそれらとは趣を異にするものと私は考えている。

ならば、即興における場面の創出とはどのようにして起こりうるか、と問うてみたところで、そこに明瞭な答えを引き出すことはむずかしく、とても言葉になるものではない。

ただ言いうることは、5分であれ10分であれ、あるいは15分であれ30分であれ、またそれ以上に長い時間を費やす場合においても、Dancerがおのずと動きを紡ぎ出していく流れのなかで、その長短に関わりなく、かならずや新しい場面が生まれ出づる瞬間がやってくるものだ。それがDancerのあらかじめ意図したもの、計算の内にあったものだとしたら、その即興はたいして面白くもないもの、意外性を孕むものではない。

じつは、意外性に満ちた新しい場面が生まれ出づる瞬間が訪れた時、初めてそれまでなにほどもなく経過してきた流れが、Dancerにおいてもそれを観てきた者たちにおいても、共時的に遡行されて、あるまとまりをもった形象世界が、一定の相貌をもったもの世界が、立ち上がってくるのである。

ようするに、新しい場面へと転なる一歩が踏み出された瞬間に、即興世界は全体として初めて、それ以前とそれ以後に分かたれ、対照的であったり対比的であったりする二つの場面が一挙に生まれ出づるのだ。

即興- Improvisation Dance –が表現行為としてなされるかぎりは、この場面の創出がめざされなければならないとするのが、終始一貫私の立つところであり、四方館の即興世界であるが、さて、今宵のDance Café、いかなることになろうか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-29

  しづかさに飯台のぞく月の前

   露おくきつね風やかなしき  杜国

次男曰く、「のぞく」の含みを見咎めた付である。人も月も飯台をのぞくよりは月だけにのぞかせ-人は寝にやって-、のぞきの新しい仲間は別に求める、という所作は芸になる。

句は、のぞいた狐の貌が、射し入る月のほかには気配もない食堂-じきどう-から、いっそう念入りに人間の影を消してくれる。何句がいいと前句もよく見える。評家は前句の姿も玄、この句の作も妙と眺めているが、そうではあるまい。

「前句に荒廃の大寺の風情無きにしもあらず。此句はそこへ付けて、覗くの一語を狐に奪ひたり。巣居は風を憂ひ、穴居は雨を悲しむことなるに、風やかなしき例の俳諧にして、老狐の月下に立つは云古したる談なり」-露伴-。「荒廃の大寺」とはかぎらぬがこれは良い、と。


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