モノと心の独り言

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エネルギーは、エコモードで、気力は、ヨイトマケの歌でチャージして!

2011-03-31 07:22:45 | 暮らし・街・環境
エネルギーは、エコモードで、気力は、ヨイトマケの歌でチャージして!

アメ車、ファミリーカーの時代は、終わっていた。
トヨタ・日産の工場停止と、スズキ・ホンダの動向は?
復興で、新たな都市と地域交通モデルができるのか?

テレワークではない、現場ワーク!
現場ワークは、モバイルとクラウドで。
モバイルは、スマートフォンへ、
ブラックボックスのアップルか、オープンなアンドロイドか?
クラウドはデータのスタンダード化が!対極に、RSS・・・
マスメディアは、マス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションの複合へ

心付け、お捻りは、演歌の舞台だけのものじゃない!
人の仕事ぶり、質を評価し、その現場で相手に上乗せして払うことで、
資源小国・高齢社会・モノ+サービスの質の見える現場の仕事ぶりを評価できる。


平等とは、スキルや誠意まで平等・並列にしたのか?
医療費、介護費、なぜ均質な保険点数で評価されているのか?????
最低医療保障というながら、数をこなさないと成り立たない、医療・介護制度。
いつのまにか人のスキル・サービス・気持ちが、資格制度の枠にはまっていた?

なぜ、質を見抜く生活感覚を失ったのか?
そりゃ、太平洋戦争の後遺症。大学入試・大企業入社・終身雇用・退職金・年金レールは、資格該当者だけだから。
生き残ること、食べること、住むこと、労働することに集中した、昭和二桁世代は、
戦前の生活文化を引き継げなかった。
アメリカのハンバーガーは、旨いのに、なぜ、日本の大チェーン’ハンバーガー’は、旨くないのか?アメリカのフロンティア・スピリットは、自己防衛を放棄した日本人には、根付かなかった?

「民主主義」「平等」「平和」は、相対的な言葉だったはずなのに、なぜ、内容を問わない、信仰となったのか?
地盤・カンバン・金庫番が、量の選挙を支えてきた。何故、名前を連呼し、当選すれば、三番を守るだけの政治屋にしてしまうのか?
質を問わない選挙は、内容を問えない選挙民の責任か。そうだ、戦後’人間喪失’を自らに認め、’貝になりたかった’人にとって、高度成長は、欲望を形に表すシアワセの時期だった。利権選挙、私国家へと望んだ結果だったのだ。時間にゆとりのあるのは高齢者の利権だけを守る国になっていいのか?

今、大人は、自身の老後の安寧を願うのか、次の世代に何を残せるのか?
自らが、過去から引き継いでいるものがワカラナイ限り、残すどころじゃやなのかも?
今、立ち止まり、社会を見ようとしないで居場所を譲らないのは、次世代が育つ場を塞いでいるのだ。子どもと一緒に引きこもるのは、幼児化ではないの? 会社から町会まで、職位は社会的地位ではない。社会的責任の大きさだ。
マズローの欲求の五段階説の最上位は、名誉。神の子を自認するキリスト教新教の、自己実現の信仰に裏付けられている。全てを焼き尽くす太陽の絶対神は、ただ神に従うしかない。人間本能をむき出しにするギリシャの神々は、奴隷制度の上、他の都市市民と闘う義務がある市民の人間の性だ。
では、私たちは?アジアモンスーンの農耕、辺境列島の南北海流の漁業に支えられた日本人は、自然の変化、地理地形、山林からの栄養と土、崇める相手は、いくらでもある畏敬の信仰。
その風土・文化を、明治からの近代化の過程の果ての国民戦争に負けて、放棄したのではないか?

今回の震災で、平成の「安定した日常」という閉塞感は、壊れたと東浩紀は言う。
「無常」という、その自然の変化と多様性を、伴に汗をかき利用する直感が、
さらなる時代の先端を紡いでゆく。

やれやれ、ドイツのようなターボ・チャージャーではなく、
しなやかな日本の産業、働き方、学び方、目標・・・全ては関連して、個別に語れない・・・(週刊新潮・文春のタイトルみたいになってきた)

ハア~クション!花粉が飛び出した。

大体、針葉樹の育ちが早く木材として売りやすいと、どんどん植えた結果がこれだ。
葉が落ちにくいから土が深くできず、川下に土を流さず、海を潤しにくい。大規模ダムは、海を殺すよ!東北の広葉樹林からの水が、三陸海岸にでて、日本海流とオホーツク海流が、魚を回遊させてきた。神々は、春、雪解け水とともに、山々からの豊穣を、野に、海に届けてきてくれた。梅・桜、春の花見は、その歓びの表現なのだ。

米国は、広葉樹の植林も進んで、農林業を合理化した、大一次産業国なんだ。
冷戦を溶かしたのは、小麦の輸出だったし、万里の長城で砂漠化した中国に、
自然循環型の産業とかした米国林産物は、大量な輸出を続けている。
広い国土があればこその戦略だ。

世界は複雑すぎて、だれもワカラナイからといって、
小さなケータイ・スマートフォンの、限られた文字・画面で、
廻りの気の合う人とやりとりを続ける大衆社会モデルに、私たちは、嵌っている。
ネットでは、どんどん分かれる小さなコミュニティーと、アクセス・人気投票でのマス・コミュニティーがマス・メディアと繋がりかけている。ケータイ・スマホからデジタル大画面TV画面で、視野が被われる環境だ。

住み・働き・訪れている自身の足下から、さわり、関われる範囲で、
この複雑すぎるという世界という神話を、大モニター画面で鑑賞するよりは、
小さなモニター画面とともに、外を歩き・関わることが、エコであり安寧であるのでは。

ではでは, エネルギーは、エコモードで、気力は、ヨイトマケの歌でチャージして、
       今日も、仕事だ!週末は、花見だ!いや、東北行か? エッジの効かない、独り言だった。

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