モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

身体がメディア?

2004-10-05 08:05:41 | コミュニケーション-メディア
身体の周りの光も水も、
その場の存在すべてが関わりあって、
互いに変化してゆけるなんて・・・・
素晴らしいメディアじゃない!

んんん・・・

「それって、会うってことでしょう?」
「そう、 会うことよりも、
 モニターに写されたり、録音されたり、
書かれたりしたもののほうが
 実在感があるように感じ始めてきてしまっていない?」

「・・・・  」
「自身が直接感じたことよりも、
 映されたことのほうが、はっきりしていたり・・・」


「そう、大画面でハイビジョンのTVを見ていると、
 自分の目で見るより、きれいだったりする・・・」
「それは、切り取られ、編集され、表現された
 フレームのなかのメッセージだからだよ。
 でも、会えば互いにがもっと深く関わってゆけるのに。」
「そんなに、深い間になりたくない・・」


「相手に合わせたところだけ、相手に見せていると、
 結局自分を演じわけている疲れが溜まるんだ。」

「じゃ、一人でいればいいじゃん。」
「いや、いのちって、 じっとして居られなくって、
 外に向かうか、内に向かうか、
 その薄皮一枚の中の、内圧と外圧のバランスのようなものなんだ。
 一方通行では、
 自分の中に閉じこもった安定へ、つまり死へ、
 あるいは、外へ向かいっぱなしで、拡散していってしまう。」

「拡散して、皆と一緒になれないの?」
「いや、互いに違いがあるからこそ、いろんなことが起こるんだ。
 みんな一緒になれば、元の海の中のタンパク質に帰ってしまう。
 DNAもバラバラになって、
 エネルギーの安定状態へと向かって行くんじゃないかな。

 大きな違いから小さな違いまで、楽しめるには、
 自分の周りの変化の少ない世界と、
 メディアで関われり行き来ができる広い世界が必要さ。

 まず、自分の領域の変わりにくいもの、
 繰り返されることとの長い周期があって、
 そのうえで変わりやすいモノ・コトが感じられる。
 成り立ちが違う相手と場を伴にするとき、
 大きな違いから小さな違いまで、お互いの差異のきめの細かさが、
 関わりの深さと感じるのではないかな?

 生まれる時、動くものと動かないもの、
 動くものの中で、繰り返し関わってくるもの、
 それは、自分の命の環境だった母親だと、
 自分に反応しあってくれる相手だと気づく時に
 自身という意識が生まれるのじゃないのかな?

 胎内では、体温を伴にし、心臓が打つ鼓動とともに体液が還流し、
 五感が少しづつ形成されるまえから、多様な刺激の中にいたみたい。
 それが、個体となり、距離をとり、
 皮を重ね、部屋わけ、空調で定常化して、
 身体への刺激が、どんどん少なくなってきたのかもしれないよ。

 そのかわり、道具をどんどん増やして情報化なんて進めてきている。
 つまり身体が求めている豊穣な外圧を減らすと、
 どんどん身体の感性も鈍くなって、
 大きな刺激に飢えてしまっているかもしれないね。
 昨日も明日にもない、今だけのスキャンダルが関心事。

 自分の身体がいるローカルな所から始めれば、
 小さな違いがどんどん見えてきて、
 同じような感性をもつ人と、過去も未来も
 分かち合えるんじゃないのかな?

 いのちを繋ぐメディアは、まずこの身体

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