昭和20年8月7日、李鍝公殿下が原爆により広島市内で亡くなった命日です。
この李鍝公殿下(りぐうこうでんか)は朝鮮第26代国王・高宗の5男・李堈(リカン)の第二男子です。
李氏朝鮮は嫡子と庶子の区別が明確で、父親である李堈も高宗の側室の子(庶子)ですし、李鍝自身も側室が生んだ子供でした。
朝鮮併合時の国王である高宗の孫であり、最後の国王・純宗の甥にあたります。
1912年生まれの李鍝公殿下は日本に渡り学習院初等科、陸軍幼年学校を経て1933年に陸軍士官学校を卒業し、更に1941年には陸軍大学校を卒業しています。つまり帝国陸軍のトップエリートだったわけです。
(この間に朝鮮貴族・朴泳孝の孫娘と結婚しています)
昭和20年8月6日、朝。広島第二総軍教育参謀中佐であった李鍝公殿下は、御付武官である吉成中佐が一足先に第二総軍司令部に出勤していたため、一人で馬に乗って出勤する途中を原爆投下に遭遇し(爆心地より700m)、本川橋のたもとでうずくまっているところを発見されました。似島の病院へ運ばれましたが、翌7日午前4時頃息を引き取ったそうです。享年32歳でした。
総軍本部で殿下を待っていたために被爆死を免れた吉成中佐は、李鍝公殿下の死を知ると、自責の念からピストル自殺を遂げました。
(病院では吉成中佐が寝ずで看病したそうです)
李鍝公殿下のご遺体は広島への原爆投下、続く長崎への投下、大混乱に陥る国内情勢にあって、関係者の努力で何とか飛べる飛行機とパイロットを探し出し、京城(ソウル)へと送り返しました。そして、終戦の日8月15日に東大門で葬儀が執り行われたそうです。
※日韓併合当時、朝鮮の王族は日本の皇族に準ずる待遇を受け、東京に居宅を構え、子女は他の皇族と同様に学習院に通いました。
また青年皇族がそうであったように、朝鮮の王族も軍人になるのが既定の路線でした。
李鍝公殿下
朝鮮の王族は高宗も純宗も、そして日本の皇族梨本宮方子様と結婚した李王・垠も大変「不細工な顔」をしていますが、
なぜか李鍝公殿下の家系は美男子が多いです。
この李鍝公殿下の事を知っている韓国人は、今はほとんどいません。
旧朝鮮王室の王族たちが、日本からどのような待遇(好待遇)を受けていたかを知ることは、現代の韓国人には大変都合の悪い事なんです。
現在、韓国で「悲劇の皇女・徳恵翁女(トッケオンジュ)」という映画が製作中です。
これは高宗の末娘で、女子学習院を卒業後に対馬の「宗伯爵」と結婚し、やがて悲劇的な最後を迎える女性の話です。
この女性の話はまた今度。 (Drop)
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非常に興味深い話、ありがとうございます。
昨日は広島の原爆投下があった日なんですよね。
世間では、オリンピックの開催で忘れている方が非常に多いかと思います。
絶対に忘れてはいけない日なんですが…
この話は、まったく知らなかったです。と言うか、知ってる方がほとんどいないと思います。
マスコミでも、まったくやらないし…
Dropさんがおっしゃる通り、中国や韓国は、自国に不利なことはまったく報道しないし…
でも、歴史は歴史として、伝え続けなければならないと思います。
いつもいつも、Dropさんの博学には頭が下がります。
これからも、いろいろと教えていただけたらと思っています。
8月6日なので特別な思いで記事をUPしましたが、まぁどなたからもコメントは無いだろうなぁと諦めていました。
それだけに格別に嬉しいです。
「日韓併合時代の実相」と言うのは私の生涯のテーマだと思っています。今までにも数多くの韓国人と話もしましたし、議論も交わしました。ただ、いつも、いつまでたっても平行線なんですけど…
李鍝公殿下、李が氏で鍝が名前です。
韓国語読みすれば「イ・ウ」です。
「公」と呼ばれる理由は、李鍝が李埈鎔(李埈公)の養子になり、その死後「公」の称号を承継したことによります。
とにかく側室の威力は凄まじく、李氏朝鮮は側室だらけ、男性王族だらけだったのです。
ちなみに有名な「李承晩」は、あの世宗大王の兄・譲寧大君の末裔です。
朝鮮王族の王子が、大日本帝国陸軍の高級将校となり、広島で原爆死した事実、そしてそのご遺体をあの状況下でソウルまで空輸し、8月15日に準国葬を執り行ったという事実。この二つはFACTです。
戦争が終わり、朝鮮は元の「大韓帝国」もしくは「李氏朝鮮」=君主国には戻らず、朝鮮の王族はそれぞれに苦労をすることになります。
実は今、韓国では大韓帝国の皇位を巡って「李 海瑗」
・97歳のおばあちゃんで高宗の娘と李堈(李鍝公殿下の父親)の孫・李源(54歳・男性)がずーと争っています。いつまでも変わらない相続争いです。
李王家の実相を探ることで、日韓併合の実相もおぼろげながら見えてくる、そんな気がします。
勉強させてもらってます。
ありがとうございます。
日韓併合の時代に、旧朝鮮王室の王族たちが、日本から好待遇を受けていたこと
現代の、日本人、韓国人、どれ程の人が
知っているのでしょう?
国と国、政治、外交、自分、自国に都合の悪い事実、史実に蓋がされたり、捻じ曲げられたり…。
難しいです。
李王家は日韓併合後「王公族」という新たなカテゴリーを与えられ日本の皇族に準ずる待遇を受けています。
各王家は東京に邸宅を構え、「朝見」の権利を有し(天皇・皇后に拝謁する権利)、皇族女子と結婚する権、殿下の継承が許され、学習院・女子学習院に就学する特権が与えられました。また勲章の授与も皇族に準じ、男子は原則として陸軍・海軍に任官する、とされていました。
もちろん生活費は莫大な額が宮中より支給されました。
これを今の韓国人は驚くほどに知りません。
これが地獄のような植民地政策だったのでしょうか?
「王族だけが良い思いをして、一般庶民は地獄の苦しみだった!」と言いますが、本当でしょうか?
ここで紹介した李鍝公殿下の異母兄・李健公殿下は同じく中佐で終戦を迎えます。父・李鋼が散財したために困窮を極め、宮内庁からこっそり月額1万円の生活費を得ていたそうです。それがGHQにばれ、送金は停止されました。本人は日本国籍を取得し、桃山虔一として生き続けますが、1990年に赤坂プリンスホテルで亡くなっています。そこは元李鋼公の邸宅があった場所です。
良い、悪いは別にして、様々な人物の人生があります。
現代の韓国人はそう言った歴史を全く知りません。
今日の記事は初めて知りました。もっと知られてても良い出来事ですよね。記事にされない理由でもあったのでしょうかね。僕は満州国の溥儀に以前から関心持っております。
私の交流は伝言板とブログのコメントを中心に行っています。また、オフ会である「お遊び会」もブログで告知・参加募集を行っています。よろしくお願い致します。
沖縄の小島で終戦を知らずにガジュマルの巨木に2年間潜んでいた2名の軍人を描いた井上ひさしの「木の上の軍隊」。井上ひさしの次回作メモ帳に「原爆で死んだ朝鮮の王子」という構想が残されていました。
もしかしたら、舞台化されていればもう少し有名だったかも知れませんね。
宣統帝溥儀の弟君・溥傑のお嬢さん(もちろんお母さんは浩さん)である福永 嫮生さんは、今も甲子園に住んでおられ、知り合いの内科医のところに定期的に通ったいるそうです。本を出版されれば、必ず署名入れの初版本を献呈してくれるようです。
また西宮に居住の縁で、膨大な愛新覚羅家の資料を、関西学院大学博物館に寄贈されました。
愛新覚羅溥傑の娘さん(最後の満州国王女)が甲子園に住んでいることも、多くの人は知りません。
また私が在学中、同級生に甘粕さんがいました。
そうあの甘粕正彦のお孫さんです。
世間って案外狭いものです。
いよいよ韓国で映画「徳姫翁主」が公開され、大変な評判のようです。
ポスターには「大韓帝国 最後の皇女」と書かれていますが、徳姫が生まれたのは併合後の1912年。すでに大韓帝国は消滅し、日本国だったのでこれは「間違い=嘘」です。
またポスターには「帰りたかったです。 私の国・大韓民国」とありますが、大韓民国の成立は1948年なんですけどね。
「無理やり日本に連れていかれ、一生祖国に帰ることを望んでいた」と新聞記事にはありますが、彼女は1962年にソウルに戻り、方子様と一緒に暮らしながら1989年に昌徳宮で亡くなっています。
いったいどんな映画なんでしょうね?
異例ですがMint☆が回答いたしました。
悲しいことですが、それが現実なのでしょうね。
でも今はインターネットが普及したおかげで、様々な情報から何が真実なのかを絞り込んでいくことが出来ると思います。
様々なことに惑わされることなく、真実を見つめていける人になりたいと思います。
お二人ともに体調には注意してください!
私は歴史に興味が少しあるのですがバカなもので文章を理解するのか苦手で…お二人のblogで知ることが多くてありがたく読ませて頂いております。
バカなりに整理して考えて拝見してます
ありがたいです