野分日記  ~Mint★Drop!のブログ~

日々の出来事、楽しんでいること、感じたこと・・・色々綴っていきます。
  

いよいよ出発です。

2016年08月15日 | 野分日記


艱難辛苦と言うか、七転八倒というか、ようやく出発の時を迎えました。
今度こそ大丈夫だと思います。
元気になったら「お遊び会・復活スペシャル」を企画するようです。
その節はよろしくお願い致します。

                       Mint★


原爆死した朝鮮の王子

2016年08月06日 | 野分日記


昭和20年8月7日、李鍝公殿下が原爆により広島市内で亡くなった命日です。

この李鍝公殿下(りぐうこうでんか)は朝鮮第26代国王・高宗の5男・李堈(リカン)の第二男子です。
李氏朝鮮は嫡子と庶子の区別が明確で、父親である李堈も高宗の側室の子(庶子)ですし、李鍝自身も側室が生んだ子供でした。

朝鮮併合時の国王である高宗の孫であり、最後の国王・純宗の甥にあたります。

1912年生まれの李鍝公殿下は日本に渡り学習院初等科、陸軍幼年学校を経て1933年に陸軍士官学校を卒業し、更に1941年には陸軍大学校を卒業しています。つまり帝国陸軍のトップエリートだったわけです。
(この間に朝鮮貴族・朴泳孝の孫娘と結婚しています)

昭和20年8月6日、朝。広島第二総軍教育参謀中佐であった李鍝公殿下は、御付武官である吉成中佐が一足先に第二総軍司令部に出勤していたため、一人で馬に乗って出勤する途中を原爆投下に遭遇し(爆心地より700m)、本川橋のたもとでうずくまっているところを発見されました。似島の病院へ運ばれましたが、翌7日午前4時頃息を引き取ったそうです。享年32歳でした。

総軍本部で殿下を待っていたために被爆死を免れた吉成中佐は、李鍝公殿下の死を知ると、自責の念からピストル自殺を遂げました。
(病院では吉成中佐が寝ずで看病したそうです)

李鍝公殿下のご遺体は広島への原爆投下、続く長崎への投下、大混乱に陥る国内情勢にあって、関係者の努力で何とか飛べる飛行機とパイロットを探し出し、京城(ソウル)へと送り返しました。そして、終戦の日8月15日に東大門で葬儀が執り行われたそうです。

※日韓併合当時、朝鮮の王族は日本の皇族に準ずる待遇を受け、東京に居宅を構え、子女は他の皇族と同様に学習院に通いました。
また青年皇族がそうであったように、朝鮮の王族も軍人になるのが既定の路線でした。



李鍝公殿下

朝鮮の王族は高宗も純宗も、そして日本の皇族梨本宮方子様と結婚した李王・垠も大変「不細工な顔」をしていますが、
なぜか李鍝公殿下の家系は美男子が多いです。

この李鍝公殿下の事を知っている韓国人は、今はほとんどいません。
旧朝鮮王室の王族たちが、日本からどのような待遇(好待遇)を受けていたかを知ることは、現代の韓国人には大変都合の悪い事なんです。

現在、韓国で「悲劇の皇女・徳恵翁女(トッケオンジュ)」という映画が製作中です。
これは高宗の末娘で、女子学習院を卒業後に対馬の「宗伯爵」と結婚し、やがて悲劇的な最後を迎える女性の話です。
この女性の話はまた今度。              (Drop)
               




七月歌舞伎の諸々… 台詞を楽しむ与三郎!

2016年08月04日 | 野分日記

歌舞伎に関してちょくちょく問い合わせを頂きます。
興味はあるけど見たことない、という方がほとんどです。

歌舞伎の楽しみ方って別に決まったものはありません。
ただ「劇団四季とは違い」 (←ここ強調!)役者を観に行くと言う面はあると思います。
いわゆる「ご贔屓」というやつです。

先日楽しんだ「七月歌舞伎」の演目を例にとり、歌舞伎の演目と役者について纏めておきたいと思います。

「与話情浮名横櫛」
通称「切られ与三郎」とか「切られ与三」とか呼ばれる演目です。「よはなさけ うきなのよこぐし」と読みますよ。
主人公は与三郎とお富の二人です。

春日八郎の大ヒット懐メロ「お富さん」、あの歌の元になった芝居です。

♪ 粋な黒塀 見越しの松に あだな姿の 洗い髪 
 死んだはずだよお富さん 生きていたとはお釈迦様でも 知らぬ仏のお富さん えーさほー 源氏店(げんやだな)

この歌詞はこの狂言の三幕目「源氏店の場」の中で出てくる与三郎の名台詞を下敷きにしています。
その名台詞とは、

しがねぇ恋の情けが仇(あだ)
命の綱の切れたのをどう取り留めてか 
木更津からめぐる月日も三年(みとせ)越し
江戸の親にやぁ勘当うけ
拠所(よんどころ)なく
鎌倉の谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
面(つら)に受けたる看板の
疵(きず)が物怪(もっけ)の幸いに
切られ与三と異名を取り
押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより
慣れた時代の源氏店(げんじだな)
その白化(しらば)けか黒塀に
格子造りの囲いもの
死んだと思ったお富たぁ
お釈迦さまでも気がつくめぇ
よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ
安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。

このお芝居の一番の聞かせどころです。

今回は人間国宝・片岡仁左衛門が抜群の口跡でこの名台詞を歌い上げてくれました。

と、言うかこのお芝居はこの「源氏店の場」だけを上演することも多く、ほとんどこの台詞を聞きにいくようなもんですよ。

歌舞伎の中には「この台詞」という演目があります。

例えば有名なのは「白波五人男」の弁天小僧…「知らざぁ言って聞かせやしょー」
「河内山」の河内山…「まぁ聞いてくれよ…」
「三人吉三」のお嬢吉三…「こいつぁ春から縁起がいいわえ」

まだまだたくさんあります。そして役者によってそれぞれに、それぞれの味わいがありそれもまた楽しいものです。
七月の大阪は当代きっての与三郎役者と呼ばれる十五代・片岡仁左衛門の名調子を堪能しました。(Mint)