あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

静岡紀行 三島市 三嶋大社 神池

2018-12-16 | 国内・静岡

 

 



  大鳥居から総門の間 参道左手に

   赤い橋と特徴ある石灯籠が見る。


  この池の中に祀られている「厳島神社」は、
  北条政子がことのほか信仰したと伝えられていて
  家門繁栄・商売繁盛のほか
  安産・裁縫などのご利益があるという。

          大鳥居側からの神池 

 

  この池は「神池」(しんち)

  資料によれば

  838(天長4)年 神池の水が渇れ 天下大旱し神官の訴えにより
  朝廷は 三嶋神殿に於いて澪祭(雨乞)を行わしめた。
   6月11日から15日まで大雨が降る。
  時の帝は 当社に圭田を寄せ神官に禄金財帛を賜った。
                  (類聚国史)

  
  1185(元暦2)年8月 源頼朝は神池に於て

  放生会(ほうじょうえ・捕えられた生き物を解き放つ)を行い
  その際に 糠田郷・長崎郷を三嶋社の料と定めた。(吾妻鏡)

 

 

 


静岡紀行 三島市 三嶋大社 金木犀

2018-12-15 | 国内・静岡

 

               「天然記念物 金木犀」


  三嶋大社の名物

  天然記念物の金木犀 樹齢1200年を超える老木。

  九月上旬から中旬にかけ薄い黄色の花をつけ 甘い芳香が漂う。

  この金木犀 なんと 年に2回満開を迎えるそうで
  今年は 8月下旬と9月中旬に満開している。
  その開花時期は 1週間程度と短い。

  訪れた時にも ほのかに匂いが漂っていた。

  また 樹霊を和め 芳香を愛でて
  「木犀の夕」が
催されている。

 

 

 


静岡紀行 三島市 三嶋大社 矢田部式部盛治

2018-12-14 | 国内・静岡

 

          矢田部式部盛治の銅像 (1954(昭29)年建立)

 
 神門手前 左脇にこの像がある。

 古代から三嶋大社の神主を務めているのが矢田部家。

 三島宿の教育文化の発展にも尽力した代々の神主の中でも

 矢田部式部盛治は 幕末・維新と三島を守った人物。


  資料には


 1824(文政7)年に掛川藩家老職橋爪家に誕生し

 20歳で矢田部家の養子となり 1850年家督を継いだ。

 1854(嘉永7)年の東海大地震で全壊した大社の建物を復興するため
 全国を行脚し勧進(募金)をつのり
 1869(明治2)年 現在に見る建物群の再建を果たす。

 明治維新の混乱時には伊豆の神官たちを集め
 伊豆伊吹隊を結成して三島を守り

 また 祇園山トンネル(水路)を開き 
 現在の加茂川町一帯に 10ha以上の新田開発を行っている。


 1871(明治4)年 惜しまれつつ48歳で亡くなった。

 

 


静岡紀行 三島市 三嶋大社2

2018-12-13 | 国内・静岡

 

            総門から大鳥居方面を見る

  総門は

 説明によれば
   
 「外構えの門
  建築中伊豆震災にあったが昭和6年30月竣功
  初めて台湾檜が使用された
  昭和の神社建築の代表的建物の一つに数えられ
  格調の高さは有名である

  当時の内務省神社局技師角南隆氏の設計監督である
  (総工費当時約7万円)
  旧総門は一部改修して芸能殿として保存 」
 
 とある。

 

 


  神門(しんもん)

 神門は 本殿等と同時期の慶応3年(1867年)8月10日の再建。
 
 御殿同様に総欅造である。
 
 舞殿とともに三島市指定文化財に指定されている。

  1867(慶応3)年 竣工の門で
  1966(昭和41)年に 市の指定文化財に指定されている。


 

 
  神門をくぐると本殿の前に「舞殿」(ぶでん)が控える。

  説明よれば 

  古くは抜殿と呼ばれ 神楽祈祷を行ったが
  後には主として舞を
奉納したので
  舞殿と呼ばれるようになった。

  現在は 舞の他 お田打ち神事(県無形文化財)
  ・豆まき神事鳴弦式などの神事の他
祈祷等も行う。

  1866(慶應2)年の再建で 1930(昭和5)年の
   伊豆震災の復旧工事で一部改修を行った。

   また「舞殿」には「二十四孝」という
  中国に伝わる親孝行のお話を題材にした彫刻が巡らされている。

  
  この二十四孝というのは 今から700年ほど前
  中国の元の時代に郭居業(カクキョギョウ)が まとめた物語で

 「欄間」と その上の「小壁」に1話ずつ。
  1面に3組6話を配し 四方で24話が彫られている。




 


    「本殿」へと進む 写真は拝殿

  神門から一番奥に、本殿を流造りとする
  複合社殿がどっしりと構えている。

 
  奥から本殿・幣殿・拝殿で
  2000(平成12)年に重要文化財に指定された。
  
 説明によれば
 
  1854(嘉永7)年11月4日の東海大地震に社殿工作物悉く倒壊し
  時の神主矢田部式部盛治が十年の歳月を費やし
  総工費 16,677両余りの巨費を以て
  1866(慶応2)年 9月9日完成させた総欅造りの豪壮なもので
  関東随一を誇り 周囲の彫刻も又比類ない傑作である。


 その他の社殿も 1868(慶応4)年に相次いで完成している。

 天皇陛下御即位30年の幟が下がるが 平成も一日一日と進む。

 


 本日はお日柄もよく 
  丁度 本殿では 結婚式が執り行われていた。

 

 

 

 


静岡紀行 三島市 三嶋大社1

2018-12-12 | 国内・静岡

 

                 三嶋大社 大鳥居

     

 

  熱海から西 三島市へ

  そのラウンドマーク「三嶋大社」へ


  三嶋大社は 伊豆国の一ノ宮

  その「三島」の呼称は伊豆諸島に対する
  尊称「御島(みしま)」に由来するという。


  因みに「大社」は格式高く
   規模の大きい神社で 出雲大社 熊野大社など

 「神宮」「宮」は 皇室の祖先神を祀っており
     伊勢神宮 熱田神宮 明治神宮がある。 

 

               

 

  「三嶋大社」の創建時期は不明だが
  奈良・平安時代の古書に記録が残っている格の高い神社。


  祭神は「大山祇命」と「積羽八重事代主神(ツミハヤエコトシロヌシノカミ)」の
  二神で 総じて「三嶋大明神」と称し 前神は山森農産の守護神
  後神は「恵比寿様」とも言われる福徳の神様で
  商・工・漁業者の信仰を集めている。


  三嶋大社の広さは 14,057坪(4.6ヘクタール)も
  ある境内では 四季折々に諸行事が催される。

   春は 参道に200本を越える桜が咲き
   夏は 8月15・16・17日に市最大のイベント「三島大まつり」
   秋は 樹齢 1,200年を超える金木犀が
    黄色い花を咲かせ 甘い香りを漂わせ

   正月には 初詣に例年60万人が訪れ
    1月7日は静岡県無形文化財指定
    「お田打ち神事」が行われている。

 

 

 

 

 

 


福岡紀行 柳川市 北原白秋生家

2018-12-11 | 国内・静岡

       

 

            白秋生家前

 

 中山晋平とのコンビで 童謡などを作詞した 

 “童謡界の三大詩人”の一人として 「北原白秋」がいる。

 その白秋の生家 記念館(1985年開館)を 

 かつて 福岡県柳川市を訪れている。


 

 

 (BSテレ東:#238「武田鉄矢の昭和は輝いていた・童謡100年」から)
 
  特に 中山晋平とで生み出された代表曲には 

  砂山 里ごころ アメフリ たあんきぼうんき 
  チュウリップ兵隊 皇太子さまが生まれた
  酒場の唄 あの頃  さすらいの唄 煙草のめのめ
  今度生まれたら 恋の鳥 雀をどり 別れの唄 
  花園の恋 汽車汽車走れ にくいあん畜生 
 
 などがある。

 

 北原白秋は 1885(明治18)年 
 柳川藩御用達の海産物問屋を営む
 旧家(現・白秋生家)に生まれた。(本名:隆吉)

 1904(明治37)年 早稲田大学に入学し 学業の傍ら詩作に励み
 1909(明治42)年 処女詩集「邪宗門」を
 2年後には、詩集「思ひ出」を発表し 
 名実ともに詩壇の第一人者となる。


 その後も、「東京景物詩」「桐の花」などに代表される詩歌集
 「とんぼの眼玉」「赤い鳥」などの童謡集など
 さまざまな分野で 次々と作品を発表した。


 「雨ふり」「待ちぼうけ」「からたちの花」・・・。

 白秋の故郷柳川への思いは強く
 20年ぶりに訪問した際には感激の涙を流し

 また晩年に発表した故郷柳川を舞台にした
 写真集「水の構図」では

 「水郷柳河こそは我詩歌の母体である」と述べている。

  1942(昭和17)年11月2日死去 享年57歳だった。

 

 

 


茨城紀行 北茨城市2 野口雨情生家

2018-12-10 | 国内・茨城



  

  こちらは 野口雨情の生家

  記念館から200m 磯原駅から北に1kmのほどのところにある。

  明治10年頃に 雨情の父野口量平によって建てられ

  その後一部改築された。

              玄関口

 

 

 

  野口家は 楠木氏の流れをくむと伝えられる名家で
  水戸藩の藩士であった。


  徳川光圀からその家を「観海亭」と
  呼び名の通り磯原の海を望むように建つ。


  地元民は「磯原御殿」と呼んだ。

 

 

 

  こちらは JR常磐線・磯原駅東口前にある「からくり時計」

   雨情が作詞した  
  「シャボン玉」「七つの子」「青い目の人形」  
  の3曲を1日7回演奏している。

  時計塔は、岡倉天心が思索にふけった庵
  五浦海岸に建つ六角堂を模って。
  1992(平成4)年に建てられた。

   演奏は、9・12・14・16・17・18・19時に
  3分間演奏される。

 

 

 

 


茨城紀行 北茨城市2 野口雨情記念館2

2018-12-09 | 国内・茨城

 

 

  当ブログで 以前「赤い靴」

(1992・大正11年 雨情作詞・本居長世作曲)の話題
 2011年7月4・5日 静岡紀行(21・22)

 
 「赤い靴」は 大正11(1922)年 
   野口雨情 作詩 
本居長世 作曲で発表された。
 きみちゃんと 母・かよの 母子を 81年ぶりに 故郷の清水へ
 里帰り再会させ 母子の永遠のやすらぎを 母子像にたくした
 とのことだそうだ。
 この地に 童謡「赤い靴」が 関係していることを 初めて知った。
 定説では この地出身の未婚の母・かよ は その娘・きみ を
  育てていたが 後に北海道に渡り結婚し 平民農場に入植する。

   しかし生活苦から 娘・きみを アメリカ宣教師に養育をたくした。

   その後 宣教師が帰国することになるが 娘・きみは結核に
  冒されていて 米国に連れて行くことができず  東京の孤児院
 に預けられ 9歳で亡くなった。

  母・かよは 米国に行ったものと思い 娘・きみ が東京で
 亡くなったことは知らないまま 一生を過ごした。
 この話から 「赤い靴」が作詩されたという。

 

 と取り上げたが 
 ここ記念館にその写真像の大集成があった。

 

 
    (
BSテレ東:#238「武田鉄矢の昭和は輝いていた・童謡100年」から)
 

   更に この12月7日BS放送
 「武田鉄矢の昭和は輝いていた・童謡100年」
 が放映されていた。


 その中で 先に話題にした内容のほか 
 実の妹が 昭和48年新聞に

 後日談として投稿されていたことも明かされていた。 

 

 


茨城紀行 北茨城市1 野口雨情記念館

2018-12-08 | 国内・茨城

                        
       「野口雨情記念館」前  シャボン玉の少女と野口雨情の像

 

    中山晋平とのかかわりで 野口雨情が揚げられる。

 その 野口雨情の故郷 茨城県北茨城市を訪ねる。

 

 野口雨情(1882-1945)は
 北茨城・磯原の廻船問屋の家に生まれる。本名英吉。

 中学~東京専門学校(中退)時代を
 伯父野口勝一(代議士・東京 在住)のもとで
 過ごしながら詩作・句作に励み
 鈴木善太郎・小川未明・三木露風ら知り合う。


  1907(明治40)年~1909年まで
 北海道の新聞社勤務を転々とする間
 石川啄木 とも知る。


 一時 詩壇から離れ 生まれ故郷で
 山林管理・農業に従事したが。

 1920(大正9)
 年 再び上京
 以後、童謡・民謡の創作に活躍した。

 北原白秋、西条八十と並ぶ
 ”三大童謡詩人” といわれた。


 野口雨情と中山晋平とのコンビで生み出された代表曲には

 童謡:
鼬の嫁入り 黄金虫 シャボン玉 あの町この町
    兎のダンス 木の葉のお船
    雨ふりお月さん 雲の蔭 南京言葉
    証城寺の狸囃子 蛙の夜回り キューピーピーちゃん

 新民謡:
須坂小唄 中野小唄 三朝小唄 甲州音頭
    鎮西小唄 望月小唄 上州小唄 松本民謡

 流行歌:船頭小唄 旅人の唄 波浮の港 紅屋の娘

 

 

   *「野口雨情記念館」は 現在大規模改修中で
   2019年4月リニューアルオープンの予定になっている。

   追: 2019年4月 予定通りリニューアルオープンした。

 

 


信州紀行 中野市 中山晋平記念館

2018-12-07 | 国内・長野

 

       晋平が18年過ごした風景が・・・偲ばれる。


 熱海の中山晋平記念館を話題にしたので

 晋平の生まれ故郷 長野県中野市も訪れてみた。

 

 

 
 中山晋平 生誕100年を記念して
  1987(昭和62)年に「中山晋平記念館」が建てられた。

 来館を五線のゲートに吊るされたカリヨン(組鐘)が迎えて
  9時~17時の定時に中山晋平作曲の鐘の音が鳴る。

   順に 紅屋の娘 カチューシャの唄  てるてる坊主

     證城寺の狸囃子 東京行進曲  波浮の港
     東京音頭  砂山  あの町この町

 

 

      玄関脇 晋平像が来館者を迎えている。

 

 

 中山晋平は 島村抱月の書生をしながら東京音楽学校を卒業
   抱月主宰の芸術座公演「復活」の
   劇中歌「カチューシャの唄」(唄:松井須磨子)で
    名声を確立する。

  その後 北原白秋・野口雨情・西条八十らの作詞家と
    組んで童謡・流行歌を発表した。

   代表作に「てるてる坊主 ・ 天竜下れば ・ 東京音頭」などがある。

 

  晋平がその生涯で作曲した作品は
   童謡823曲、新民謡287曲、流行歌468曲
   その他学校の校歌・社歌等217曲あり
    現在判明しているだけで
     1795曲の作品にものぼる。


  館内には晋平の偉業を伝える
  資料や作品集などが展示され

  晋平の生涯と作曲作品などを紹介
  しているDVD「大衆の心に歌う」を鑑賞し

  リスニングコーナーでは
   晋平のメロディを聴くことができる。

             (館内写真撮影禁止)

 

 

             シャボン玉の像

  1991(平成3)年「中山晋平生誕祭」に合わせて建立。



 


    “證城寺の狸囃子”スイッチを押すと

      シャボン玉の音楽と共にシャボン玉が飛ぶ。


 

 

 碑には  同記念会初代会長の西條八十が
 「不朽の天才作曲家・中山晋平生誕の地」
  と揮毫した文字や

  「神に願ひをララかけませうか」と
   カチューシャの唄の楽譜が彫られている。
             
(1964年建立)

 

  ちなみに 西条八十とのコンビで316曲が作曲されている。


 

       「カチューシャ」の像

 

この他に 園内には 作曲した曲のオブジェや碑が置かれている。

 

 

              中山晋平の生家

 

 1887(明治20)年に
  長野県下高井郡新野村(現在中野市)に生まれた。

 
   当時の姿のまま記念館に隣接して保存されている。

 現在も 晋平の兄の孫の代の家族が住んでおられるそうだ。

 

 


静岡紀行 熱海18 中山晋平記念館

2018-12-06 | 国内・静岡

 

 

熱海梅園内には

大正初期から「てるてる坊主」「肩たたき」
「シャボン玉」などの童謡や「東京音頭」など

数多くの大衆音楽を作曲した、
中山晋平(1887~1952年)の別荘(1935年築)を

1991(平成3)年 移築し 一般公開している。

中山晋平は 1944(昭和19)年 
第二次世界大戦がはげしくなったのを契機に

東京都中野区から熱海市に移住し
1952(昭和27)年に亡くなるまで居住していた。

 

 

 



館内では、経歴や直筆の譜面、
当時のレコードなど貴重な物が展示されている。



 

 作曲に使用したピアノ

 

 

 

 


静岡紀行 熱海17 熱海梅園

2018-12-05 | 国内・静岡

 

 

JR伊東線来宮駅から徒歩10分 
急勾配の坂道を600mほど登ったところに
「熱海梅園」がある。


 

 


44,000m2もの敷地を誇る広い園内には
59品種・472本もの梅の木が植えられ

白、桃、紅色の梅の花が咲き誇る。


 


梅の花は 毎年11月下旬~12月上旬に
第1号の花が咲き始め

見ごろは、1~2月中旬。
毎年 この時期には「梅まつり」が開催されている。

 

 

 

 

 

 

熱海梅園ができたのは1886(明治19)年。


当時の内務省の長与専斎が

「温泉がよく病気に効くのは
ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず
適当な運動をするからである。
もし一日中室にいて
温泉に浸かっていたら倦きもし、疲れもして、
養生にならない……」
(『熱海風土記』梅園記より)

と提唱したことがきっかけで
横浜の豪商たちの手により完成している。

 

 

 


静岡紀行 熱海16 来宮神社

2018-12-04 | 国内・静岡

 

 

 

 

JR伊東線来宮駅から徒歩で約3分の場所にある
来福・縁起の神として古くから信仰されている
「來宮神社」へ。

 

 

本殿に向かって左奥にある
国の天然記念物にも指定された樹齢約2000年以上
幹の周りは23.9m 高さは約26mもあり
ビル8~9階の高さもある大楠
パワースポットとしても有名になっており 
幹を一回りすると一年寿命がのびると伝えられて
この木の生命力にあやかろうと
長寿・病気平癒・健康祈願の参拝者が多く訪れている。


また 願い事のある人は
思うことを誰にもいわず一回りすると
願い事がまとまる とも言われている。


例大祭は 毎年7/14~16に開催されている。

 


静岡紀行 熱海15 金色夜叉

2018-12-03 | 国内・静岡

 

 

1897(明治30)年から1902年まで
読売新聞に連載された明治の文豪
 尾崎紅葉の「金色夜叉」により

熱海は一躍脚光を浴びた。

「お宮の松」と呼ばれるようになったのは
1934(昭和9)年頃と言われている。


金色夜叉といえば「熱海海岸の場」
 間貫一が お宮を足蹴にして立ち去るシーン

「いいか宮さん。
来年の今月今夜…再来年の今月今夜…、
10年後の今月今夜…、
一生を通して僕は今月今夜を忘れん、
僕の涙で必ずこの月を曇らして見せる。」


1986(昭和61)年
に 熱海ロータリークラブにより
2代目松の隣に貫一・お宮の像が建立された。

当初はこの像に対し「女性蔑視」の声もあったようだ。
また「物語を忠実に再現したもので
決して暴力を肯定したり助長するものではありません」と
書かれたプレートもあるとのこと。

 

 

 

貫一お宮の像の脇に「金色夜叉と熱海」という解説板がある。
小説のあらすじと「金色夜叉の歌」の歌詞の一節が刻まれている。

 

 

紅葉山人記念 金色夜叉の碑


「宮に似た うしろ姿や 春の月 風葉」

この句は 紅葉の門人小栗風葉作で
「後の金色夜叉」という小説を執筆している。

この句も名句として
「お宮の松」とともに広く熱海の名を知らしめた。


 


静岡紀行 熱海14 お宮の松

2018-12-02 | 国内・静岡

 

 

尾崎紅葉の小説「金色夜叉」にちなむ「お宮の松」と
「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる歌謡が一体となり

爆発的に流布し 主人公「貫一・お宮」は
あたかも実在の人物かのようになった。


そして「貫一・お宮の像」「お宮の松」は
海岸の国道135号沿いにあり
観光写真スポットとして多くの人が訪れている。

 

 

初代の松は 道路の中央にあり
「羽衣の松」と 呼ばれていたが
1919年に 紅葉の弟子の 小栗風葉により
金色夜叉の句碑が建立されたことから
お宮の松と呼ばれるようになった。


1949(昭和24)年のキティ台風の被害や
 道路拡張また自動車の普及により
排ガスや舗装の影響で衰えたため

1966(昭和41)年 
地元の熱海ホテル(当時は国際興業の傘下)の
寄贈により2代目の松が植えられた。


2代目の松も 枝枯れなどの症状が見られたため
1998年から3年間 樹勢活性化作業が行われている。

 

 

先ほど訪れた「起雲閣」の尾崎紅葉のコーナーでは
 その初代お宮の松の写真があった。