監督 イム・グォンテク
出演 キム・ミョンゴン(ユボン) オ・ジョンヘ(ソンファ)
キム・ギュチョル(ドンホ) 1993年
思ってたより重い題材の映画でした。
1960年代初頭、パンソリ芸人ユボンは師匠から女性問題で破門され旅回りに身を落としている。彼の望みは育てている孤児ソンファに自分の持てる限りのパンソリの心と唄を教え込むこと。
また、旅の途中、孤児となったドンホも連れてゆくことにする。
40年前の韓国の村や町の様子が珍しい。
パンソリとはいったい何なのだろう。
日本の浄瑠璃に似ているが、物語を語って聞かせる唄のようだ。
名作と言われるだけに、胸にズシリとくる映画だったが。
移り変わる美しい四季の中で、父親と成長した養子二人がパンソリ(アリラン)を唄い踊る場面がちょっと忘れられない。
楽しげに、幸せそうに、物語が辛いものであるだけにこの場面はよけいに美しく輝くのだろう。
貧しさの中で、芸だけに凝り固まったかのごとく厳しい父親。
パンソリの王道から外れた彼には彼なりに意地があったのか、ソンファと同じく唄うことが好きだったのだろうか。
そんな育ての父を嫌ってドンホは去って行く。
父親はソンファのパンソリが澄んで美しいことから彼女に言う。
「西便制の声は、人の心を刃物で削ぐように恨(ハン)が染みこむものだ。」
「人の恨(ハン)とは、生きることだ。心に欝積する感情のしこりだ。生きることは恨(ハン)を積むことだ。恨(ハン)を積むことが生きることなのだ」
そして、この父親は(養父ではあるが)よくもまあ娘にあんなことができたなと思う。
芸術至上主義か。まるで芥川龍之介「地獄変」の地獄絵図じゃないの。
けれど、自分を決して恨もうとしないソンファに父は言う。。
「これからは、恨(ハン)に埋もれずに、恨(ハン)を越える声を出してみろ。西便制は悲哀と愛憎に満ちている。しかし恨(ハン)を越えれば、西便制も東便制(パンソリの二大流派)もなく、ただ唄の境地があるのみだ」
そして、父親は死に、ドンホは何も知らないまま姉を探してやって来る。
探し当てた時、ある理由から姉にはドンホは分からない。
ドンホはソンファにパンソリを所望し、太鼓を叩く。
聞き覚えのある太鼓の音、次第に二人の頬から流れる涙。
二人の気持ちは交わり、美しく浄化されていくように見える。凄い場面です。
姉と弟と言っても血の繋がらない二人に姉弟以上の感情があったのかは私にははっきりとは分からなかった。
何となく、男女の愛に近いものであるとほのめかしてあるのですが。
オ・ジョンヘは吹き替えなしで本人がパンソリを唄っていると聞いたが、本当だろうか。
ソンファはあれほど待っていた弟と別れてしまう。
なぜと問う人に彼女は言う。
「私たちの過去はあまりにも重過ぎて触れたくないから。。
昨日、私たちは唄うことでもう恨(ハン)を超えました。」
愛と憎しみ?この映画を見て、私は人間の深い業という言葉を思い浮かべた。
時たま感じる韓国映画の底に流れている何やらほの暗いもの。
その正体が少し分かったような気がした。