俳優の三國連太郎さんが亡くなりました。愛国者の邪論は、80年代中頃、「朝日」に連載された「息子を売った母」を読み、感動し、三國ファンになったものです。それまでは、あの迫真性故に、怖い、恐ろしい俳優ぐらいにしか、思っていませんでした。その後、川名紀美『女も戦争を担った』(冬樹社刊)の中の「息子を『売った』母」としてまとめられていたのを読み、いっそう感動したものです。
この文章を読むと、三國さんと息子さんの浩市さんとの関係も、ある程度理解できる、と言ったら、浩市さんに失礼かもしれませんが、三國さんが、浩市さんが父親である三國さんに「俳優になる」と早稲田の駅で話した時、親子の縁を切ると話したそうですが、三國さんの俳優論と生い立ちと、その後の人生を考えると、何となく判るような気がします。
ご夫婦が離婚され、お母さんに育てられ、父親と同じ職業に就くという告白の際に、いきなり縁切り宣言、相当のショックであったことは、想像できます。このことは、市川猿之助さんと香川照之(市川中車)さんのことを考えると、表れ方は逆ですが、根本的なとことでは同じような気もしてきます。
浩市さんにしてみれば、大きなお世話でしょうけれど、家族制度を否定してまで、追い込む父親、父親を乗り越えようとする息子、そうして父親を俳優としても、実際は凛としていたと語った息子、病院に見舞った最後の別れのシーンは、想像すると感動的です。
体調を崩していた三國さん、すでに90歳になっていた三國さんの死に、向き合った時の感情を、率直に語っていた浩市さんを視ていて、親子の深い絆を感じました。浩市さんがどのような家庭を築いているか、判りませんが、50台、60台、70台と、歳を重ねていくなかで、どのような俳優、人間になっていくか、これまで同様に、期待し応援していきたいと思いました。
さて、本題です。三國さんの「息子を売った母」から、読み取るべきことは何か、です。極めて現代的課題といえます。
以下の記事に掲載されています
追悼・三國連太郎さん:徴兵忌避の信念を貫いた(特集ワイド「この人と」1999年8月掲載) 2013年04月15日
http://mainichi.jp/select/news/20130415mog00m040003000c4.html
かつてNHKでも、三國さんの人生を特集した番組がありました。しかし、天皇制、軍国主義、徴兵制、靖国神社、家族制度、反戦運動、侵略戦争など、最も議論しなければならない問題について、マスコミはスルーしているのです。三國さんの考え方とま逆の日本をつくろうと必死になっている菅官房長官に、鋭い質問もしない、一般的な俳優としての感想しか述べさせないマスコミの問題意識の欠如!本当に呆れるばかりです!
ここに、現在のマスコミのジャーナリズム精神を放棄した、戦争責任問題と真摯に向き合わない「犯罪的役割」を指摘しないわけにはいきません。その点で、この川名紀美『女も戦争を担った』(冬樹社刊)の方が、三國さんの言いたいことを正確に伝えていると思います。
息子を売らねばならない母親はどのような社会システムの中でつくりだされたか。そのシステムは、戦前も、現代も、進行形です。どうすれば、克服できるか!大いに考えていかなければなりません。
以下、関係する部分を掲載しておきます。略した部分、その他のものについては冬樹社刊をお読みください。
西へ西へと貨物列車がひだ走っていた。
その貨車のひとつに、青年が身をひそめていた。荷物と荷物の谷間にうずくまり、息を殺して……。
列車が駅で止まるたびに、青年はいっそう身を縮め、祈るように目を閉じる。
再び列車が動き出し、はるか後ろに駅がかすむころになると、ようやく目をおける。
「ああ、無事だった―」
安堵の吐息とともに足を伸ばした。
青年が恐れたのは無賃乗車、という理由ではない。徴兵忌避の旅だったからである。
徴兵忌避。それは当時なによりも重い。“大罪”であった。
「国を守るために軍隊へ入るべし」と期日を指定した国家からの召集令状。それに応じないで逃亡するという行為である。「非国民」、「国賊」というレッテルが容赦なく貼られた。その多くは銃殺などの極刑に処せられた。
青年は名前を佐藤政雄といった。一
いま個性的な演技で知られる俳優・三国連太郎さんの本名である。
大阪で召集令状を受けとったとき、最初にひらめいたのは、
「死ぬのは怖い」
ということだった。
はっきりした反戦の意志があったわけではない。ただ、こんな紙切れ一枚で戦場へ狩り出されて死なねばならないことが納得できなかった。
大それたことをしているという意識は、不思議になかった。
このまま郷里の静岡へ帰れば、死ぬほかない。とにかく正反対の西へ逃げよう。九州から朝鮮、そして大陸へと姿を消せば何とかなる―。
そんな想いだけで、すべて無我夢中のうちに選んだ道だった。
召集令状を受けたのは一九四三年(昭和十八年)十二月。
ところは、大阪市の綱島察署だった。
東淀川区の賃貸アパートにいるとき、いきなり刑事に踏みこまれ、逮捕された。
誘拐罪だという。
全く身に覚えがない。よく調べてくれといったが相手にされず、市内の警察署をタライ回しにされた。
つかまってから八十七目。
「もうこのまま出られないのじゃなかろうか」
怒りと恐怖に蒼ざめていたとき、担当の刑事に呼び出された。
「おい、喜べ。おまえのような男でも、お国の役に立つときが来たぞ」
すでに封を切った一通の手紙を、刑事は無雑作に突きつけた。
中から出てきたのは、召集令状と、母親からの手紙だった。
おまえもいろいろと親不孝をしたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ。しっかりお役にたってもらいたい。
律気そうな文字が並んだ、簡単な文面たった。
『死ぬのはいやだ』
とっさに思った。そんな内心を見すかすように、刑事が大声をかぶせてきた。
「命を捨てて、お国のために働いてくるんだぞ!」
自分のしていることを振り返るゆとりが持てるようになったのは、広島を過ぎてからだった。
大阪駅を離れてから四目目。
山口県の小郡へ着いたとき、ふと家族のことを思った。
あすは、もう九州だ。そんな気のゆるみも手伝って、佐藤青年はちょっと迷ったすえ手紙を書いた。
あて先は母親であった。
ぼくは逃げる。そちらでは、みんなから白い眼で見られて、いろいろと大変だろう。弟
や妹たちにも、先へいって苦労をかけることになると思う。しかし、これが最後の親不孝
だ。なんとしても生きたい。生きなきゃならんのだから。
こんな文面に、九州から朝鮮半島を経て中国大陸へ行くつもりと書き添えた。
数日後。佐賀県の唐津で船の段取りをつけようと走り回っていた。そのとき、尾行されているのに気づいた。
すぐそばの芝居小屋にまぎれこもうとしたが、あっけなくつかまった。たちまち故郷へ連れもどされた。
徴兵忌避という。“大罪”にもかかわらず、なぜか処罰は受けずに済んだ。みんなと同じように赤だすきをかけさせられ、静岡の連隊に入れられた。一つ星の二等兵だ。
中国大陸の東北部へ出兵が決まっていた。
以後の面会の日。姿を見せた母は、ふだんよりいっそう無口だった。どこかおどおどして、視線をそらしてばかりいた。
別れの時間が目前に迫ったとき、母は目をそらせたままで一気にいった。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんにはきついことかもしれないけどね、一家が生きていくためには涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかんのだよ」
声が、小さくふるえていた。
青年は、このときすべてを悟った。
『そうか。憲兵に知らせたのは、おふくろだったのか』
警察で読んだ、母からの短い手紙を思い出した。
天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ―。
青年は工業学校を出て以来、十代から職を転々とした。
ペンキ塗り、皿洗い、旋盤工……。家にもほとんど寄りつかない息子だった。
そんなわが子にも赤紙が来た。これでやっと人並みにお国の役に立つことができる。おそらく母親は、重荷をおろしたような気持ちになっていたのではないか。
なのに、その息子が兵隊になるのはいやだ、逃げる、という。
期待を訳切られてばかりいた母親は、うちのめされた。
家の近くに左翼運動をした男がいた。その家族が近所の人だちからつまはじきに合い、息をひそめるようにして暮らしているのを長年、見てきている。
母親は、「家のために」黙って戦争に行くことを息子に迫り、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出しだのに違いない……。
万年の胸の奥で、何かが崩れた。
抽まって何のおとがめもなかったことも、合点がいった。おそらく母親が以前から顔見知りだった憲兵に頼み込んだのだろう。
短い面会のあと、帰り際に母親は初めてふりかえった。息子の目を、ひたととらえた。
『やすやすと命を落とさんでおくれ』
そう語りかけているように思えたが、青年の昂ぶりは、まだ消えなかった。
遠くなる母親の背中に声をかけようとした。だが、くちびるがこわばって、ことばにならなかった。
映画やテレビで個性的な人物を生き生きと演じている俳優、三国連太郎さんに徴兵忌避の体験があると知ったとき、しかも、ほかならぬお母さんに。“密告”されたとわかったとき、この「母と息子」から直接、話が聞けたらという気持ちをおさえることができなかった。
ごくふつうの母親にとって、息子が徴兵忌避などという、当時としては殺人にも劣らぬ大罪を犯そうとしたとは、どれほどの驚きと嘆きであったことか。
逃亡中の息子からの手紙を手にして、母親の気持ちは激しく揺れつづけたにちがいない。
このまま逃がしてやりたい、しかし、見逃がせば、家族にも厳罰がくだる。まだ一人前にならない弟や妹もいる……。
つらい、つらい選択だっただろう。
こんな手紙なんか、いっそ来なければよかったのに、黙って逃げてくれればよかったのにと、恨みのこもったまなざしで手紙をみつめたひとときもあったのではないか。
結局、母は息子を戦場へ送る道を選んだ。
その息子は生き抜いて、無事に帰ってきた。そして、戦後ずっと、母と息子は同じ屋根の下で暮らしてきた。
それぞれ胸の深いところにどんな想いを抱いて歳月を重ねてきたのか。
激動の時代をくぐりぬけてきた一人の母親の胸をたたいて、聞いてみたいことがいっぱいあった。
ひとがひっそりと胸の奥に仕舞いこんできたことをあばき出す権利は、だれにもない。何日も迷った末に、おそるおそる三国連太郎事務所の電話番号を回した。
母、はんさんは数年前、すでに世を去っておられた。七十五歳の寿命をまっとうしてのことだった。
それを知って、私はなぜかホッとした。
東京都港区西麻布にある三国連太郎事務所を訪れたのは一九八〇年十一月十一日。
「お電話をいただいてから、当時のことをいろいろと思い出してみたのですけれど……」
何枚ものメモ用紙を手にした三国さんは、画面で見るよりずっと柔和なまなざしをしていた。
生きて帰って、再び母親と共に暮らすことに、なんのためらいもなかった、と三国さんはいう。
はんさんも、無事を心から喜んでくれた。亡くなる前の何年間かは、母と息子だけの水いらずの生活。
「おふくろが私の手紙を届けたんだなとわかってからも、おふくろを責めたことは一度もないし、おふくろもあの一件については死ぬまでなにもいいませんでした」
平和な暮らしのなかで、出来事自体も、いつしか記憶の奥深くへ沈んでしまっていた。
「しかし……」
三国さんはゆっくりとソフアから上半身を起こした。
二十歳前後のとき自分は母親に裏切られたんだ。そういう気持ちが潜在意識のなかになかったとはいえないんです」
次のような三国さんの“告白”に、私は改めてごの母子の傷の深さを知らされた。
ある日、トイレで物音がした。
『あ、おふくろだ』
三国さんはあわててかけつけた。
はんさんがくずれるように隅っこにうずくまっていた。
三国さんは、はんさんを抱きあげた。寝室へ運ぶうち、寝間着を通して母親の体のねくもりが伝わってきた。
なぜか、急に三国さんの全身がとり肌立った。
それは、思いがけない肉体の反応だった。寝床に寝かせ、ふとんをかけながら、三国さんはとまどっていた。
『いったい、これはどういうことなんだ』
晩年になって老母が脳軟化症で倒れてから、かいがいしくめんどうをみてきたつもりだ。もちろん、下の世話もした。ときには部屋や寝床を便で汚す。それを始末することを苦痛だと感じたことは、ただの一度もなかったのに……。
『どうして、あんなにゾッとしたのだろう』
自問自答している三国さんの頭に、なんの前ぶれもなく「あのこと」がよみがえった。
すっかり忘れたつもりでいた。なのに、戦後三十年余りたってもなお、心のどこかにひっかかっていたのだろうか。
自分を戦場へ“売った”のは、この母親なんだ、という思いが―。
そう気付いて、三国さんはハッとした。
もし、おふくろがあのとき手紙を焼き捨ててくれていたら―。
ことによると、大陸へ逃げきれたかもしれない。その後、どういう生き方をしたかはわからないが、少なくともいまの自分とは違う自分になっていたはずだ。
「ぼくのどこかにウラミめいたものがこびりついていたからこそ、おふくろを抱きあげたとき、理屈ぬきにゾッとしたんでしょう。それに……」
口ごもりながら、きちんとそろえた両膝を大きな二つの手で包んだ。視線をその手の甲にあてたままで、三国さんの口から意外なことばがもれた。
「親父のいのちが危いという知らせをもらったときは、仕事を全部投げてしまって飛んで帰りました。息をひきとるまで三日間、ずっとそばにいたのですけれどね……」
「おふくろのときは……仕事先から帰ろうとしなかったんです」
どんな相槌をうったらいいのか、わからなかった。
息苦しくなって、窓の外に目を向げた。
秋の短い陽がいつの間にかすっかり落ちて、ネオンが空を染めていた。
では、はんさんはどうだったのだろう。
いつもやさしい息子が、心の奥底にどうしても捨てきれずにいた。“わだかまり”。それに気づいていなかったとはいいきれない。
「そういわれてみれば、ずいぶん遠慮してたなあと思い当たる節々がありますねえ」
「おふくろは、まるでぼくを亭主のようにしていました」
(略)
「おふくろは、ほんとうにかわいそうな女だったと思います」
「こどもを生む能力は、女性にしかないのですもの。女性というのは、もともと平和を愛し、命をはぐくむことに喜びを見いだすはずのものだと思うんです。その感覚を徐々に狂わせていったのは、明治以来の軍国主義の政治や教育です」
はんさんは、かつては網元だった没落漁師の家に生まれた。
十四、五歳のとき、広島県呉市に女中奉公に出た。
小学校は三年生までしか行っていない。字もあまり読めないまま、十八のとき結婚した。
網元としての誇りを捨てきれずにいた実家では、財を失ってからも父親は絶対の存在だった。
女中奉公に出て身につけたのは、あるじのいいつけに逆らうことは許されないということ。
主人にはどんなことがあっても従う。これを女の美徳として生きたはんさんに、徴兵忌避を黙って見逃すなど、思いもよらなかったのではないか。
はんさんは近所で反戦活動をした“非国民”の家族が村人だちからいじめられるのを見ていた。
息子がうまく逃げおおせるとは考えられない。万一、徴兵忌避者として発見されればで死罪は決まっている。むしろ、黙って戦争に行っても、必ず死ぬとは限らないのだから―。
こんな結論に達したとしても、当然かもしれない。
「時代が、ぼくのおふくろのような女性の生き方を強いたのです。おふくろだけではなく、日本中の女性が、本来もっているすばらしい感覚をマヒさせられていたのです」
自分の母親に対する複雑な感情に、ようやく結着をつけたのだろうか。三国さんの口調は穏やかだった。
はんさんは、非情の母でも何でもない。むしろ息子思いのやさしい人だった。つまり、ごくふつうのお母さんだったのだ。
召集令状がきたとき、ほとんどの息子たちは逃げないで戦地に赴いた。
だから母親たちもまた、自分の手でつらい選択をせずにすんだだけなのだ。
意地悪な質問だとわかっていても、はんさんに代わってぜひ聞いてみなげればならないことがあった。
逃亡の途中で、なぜ手紙を出したのか。
「そうなんてすねえ。逃げ出したら、家族はどうなるんだろうと、ふとねえ。で、判断が狂ってしまったんです」
「若いころから家を出て、八割がたは抜け切ったと自分では思っていたんだけど、結局は〈家〉
という意識に足をとられたんですねえ」
「そういえば、最近、とても気になることがあるのです。日本の家族制度ですね。あれを讃美
するような空気がまた出てきましたね。先日もテレビを見ていたら、タケノコ族にインクビュ一一をしていまして、話が親のことに及んだとき、なかの一人が将来、親をみたくない、といったんですね。すると番組は、嘆かわしい風潮だ、みたいに締めくくるわけです」
三国さんは、平和を守り抜く条件として、日本の家族制度というものを考え直さないといけない、と力をこめた。
「日本の家族制度がもっている危険性は、祖先崇拝はあっても、現在や未来に対する祈りがまったくないということではないでしょうか」
魂は生き残る―。
こう強調することは、未来の庶民の犠牲を強いることになりはしませんか。
ものやおらかな、淡々とした話しぶりとは裏腹に、視線は鋭かった。
「靖国神社なんか見てますとね、戦争の犠牲者の魂はこんなふうに祀られ、生き残るんだと。
そういう考え方のなかに、とっても危ないものを感じるんですねえ」
そこで、いきなり「天皇制」ということばが三国さんの口から出た。
二人の間で、さっきからもう何時間も、テープレコーダーが回っていた。
こんなことまで話してもらっていいのかしら、と戸惑っているのにかまわず、
「天皇制にしてもですね、頂点から見てうんぬんするのではなく、核となっている家、ぼくならぼくの家のあり方から見直していくことが、これからの歴史をつくっていくことにつながるのではないか、なんて考えているんですよ」
三国流のやり方では、〈家〉を持たないということになるらしい。つまり、女性と共に暮らしても、入籍という形をとらないことなのだ。
「AとBが結婚した、ということであればいいのですが、結婚したとたん、どちらか一方の名前が変わっていくということが、すごく気になるのです。入籍のシステムそのものが、多くの場合、男性が女性を所有するという構造をもっているのですよね。ほら、オレのものだ、というような……」
「ぼくなんかもね、いま一緒に棲んでいる女性に対してですが、前夜、遅くなって疲れているということを知っていても、仕事に行くんだからと、朝つい起こしてしまうんです。で、あわてて反省する。もう、毎日そうなんですね。だから、入籍という制度に守られるようになったら、自分がどういうふるまいをするか、全然、自信が持てない。いまは、一緒に生きているし、支え合ってるんだ、という実感があります。こういう感じ、大切にしたいんです」
驚いた。
三国さんは女性解放論者でもあったのだ。
それを裏付けるように、こういった。
「だからですね、女性の側も自分の夫や恋人との関係でおかしいと思うことがあれば、どんどん相手にいっていかなければ」
現在は俳優としてめきめき頭角を現している息子さんに対しても、従来の枠組の中で、親であるということを主張することだけはやめたい、といい切る。
自分の家族から、そして役者という職業を通じて交わった人たち、演じた人物たちのすべてから得た、これが一つの到達点なのであろう。
「三国連太郎さんは徴兵忌避をしようとしたことがあるんですって」
こういうと、周囲の人たちは一様に驚く。
とくに、おとなとして敗戦を迎えた人たちは、
「あの時代に、よくもまあそんなことが……」
と信じられないといった顔をする。
(略)
同じ時代を生きていた三国さんが、徴兵忌避をすればどんな目にあうか、まるっきり知らなかったはずはない。
にもかかわらずやってのけたのは、父親、正さんの生き方に影響されたからだという。
「オヤジは腕一本、スネー本で生きた職人でしてね。いまから考えれば自由人でした」
正さんは代々の職業が棺柚づくり、という家に生まれた。
一九一八年(大正七年)のシベリア出兵に応じたのも、ほかの職業に就く手段を求めてのことだった。
(略)
正さんも数年間のシベリア滞在中に、電気の技術を身につけた。
帰ってからは電気工事人として一本立ちし、何人かの工夫をひきつれ、仕事を請負っては工事現場から現場へ、渡り歩いた。
そのうち恋人をつくり、家を棄てた。
「家を棄てても、こどもの教育には神経を使っていましてねえ」
なぜか父親への反感は、わかなかった、と三国さんはいう。
無学で、無口な父親。その人が、上からの押しつけには純粋に抵抗しつづけた。
満州事変から日中戦争へと戦火がひろまり、配下の若い工夫たちが次々と出征するときも、一度も送りに行こうとはしなかった。
階級制度のきびしい軍隊のなかで、正さんはその出身ゆえに普通の兵士が味わう以上の辛苦をなめたはずだ。それはシベリアの大自然以上の苛酷さだったかもしれない。
正当な理由もないのに他国へ押しかけて、数年間も居すわり続けている日本の軍隊、その一員であることは、いくら新しい仕事を手にするためとはいえ内心、紐促たるものがあったのではなかろうか。
「シベリア出兵という体験が、おやじに戦争の本質を見抜かせたんだと思います。戦後たまに上京して東京見物なんかしましてもね、靖国神社には見向きもしませんでした」
父、正さんのことを語るとき、三国さんは懐かしさを隠そうとはしない。
正さんも、はんさんと前後して亡くなった。八十五歳。差別をはねかえし、自由を求めつづけた一生だった。
そんな父親のもとで、軍国少年は育だなかったのである。
三国さんは一九二三年(大正十二年)生まれ。
時代は戦争へ向かって、少しずつ、しかし確実に傾斜しつづけていた。この世代の多くはピカピカの軍国少年、あるいは少女に仕立てられていった人が多い。
佐藤政雄少年(三国さんの本名)は、少しちがっていた。
なぜ『教育勅語』を暗記しなければならないんだろう。
校庭の入口から、ずっと向こうの御真影に向かって深々と頭を下げねばならないのはどうしてか。
写真の人、天皇陛下にだけ苗字というものがないのはなぜだろう―。
理屈はわからないが、押しつぶされるような圧迫感のなかで、毎日をすごしていた。
こんなところでは生きられない。
小学校六年になったとき、思いつめて中国大陸をめざして家出を企てたこともある。
やがて仲の良かった友人の何人かは陸軍士官学校や海軍兵学校へ進んだ。
とくに海兵の学生はモダンな制服だったせいか、女学生にもてはやされた。
が、ふつうの中学校へ進学した政雄少年は、陸士や海兵組と親しくする気になれなかった。
つき合いの悪いやつ、と変人扱いもされた。
しだにいに無口になっていった。
一枚の、茶色くなった写真がある。
二十三人の兵隊が並んでいる。手前には一面に野の花が咲いて、後ろには屋根の低い、土で造った中国の民家。
一九四四年(昭和十九年)、応山というところで撮ったもの。
中国大陸前線の兵士たちにもひとときの平和が許されたのだろうか。
が、どの兵士もむっつりと黙りこくった表情だ。
後列右端に、ひときわ体の大きい美青年がいる。それが三国さんだ。
「私か戦争というものに決定的な疑問をもったのは、一緒に中国へ行った仲間が千数百人もいたのに、たった二、三十人しか帰れなかったということです。これは、大変なショックだった…。
文字通り、九死に一生を得ての復員だった。
俳優という職業に就き、さまざまな人物を演じた。戦争に関するものも、少なくなかった。
あるテレビのドキュメンタリー番組のため、半年間にわたって戦争体験者の話を聞いたり、資料を読む機会があった。
そのときに、自分が参加したのは目本の侵略戦争のゆきつくところだったのだと、はっきり認識した。
「私はこれまでの人生にいろんな汚点を残しましたがね、あの戦争に加担したことがしちばん大きな汚点だったというふうに感じているんです」
そして、三国さんはこうつけ加えた。
「もっとも、戦場にいた一年八ヵ月の間、一発も鉄砲を撃てなかったいちばんダメな兵隊でしたけれど」
長い長いインタビューのなかで、初めてのほほえみがゆっくりとひろがった。(引用ここまで)