元日の「朝日」の記事を見て、「またか!」と呆れました。それは13面の「社説」と39面の社会面の記事を読んでです。
一見すると、「事実」の報道記事として、また現在石原・橋下・安倍氏などの唱えているナショナリズムの横行に対して公平な、バランス感覚を強調しているかのように見えますが、トンデモない紙面と言えます。それは社会の公器として言論・思想・信条の自由を公平に伝えなければならないという最大の立脚点を忘れ、捻じ曲げ、歴史と日本国憲法「尊重擁護の義務」を放棄するものだからです。以下、その理由を述べてみます。
1.「私たちが抱える、うんざりするような問題の数々は、『日本は』と国を主語にして考えて、答えが見つかるようなものなのか、と。領土問題がみんなの心に重くのしかかっていたせいもあるだろう。年末の選挙戦には『日本』があふれていた」と言いながら、紹介しているのは、自民と公明、維新だった。そもそも政党の名前に「日本」を関して冠している政党があるのに、です。意図的です。しかも、「でも、未来の日本についてはっきりしたイメージは浮かび上がらなかった」などと、まともな政策論争をサボタージュしておきながら、よくもこういうことが言えたものです。本当に「未来の日本」について打ち出した政党がいなかったのか、「朝日」はどれだけ検証したか、です。
2.「グローバル経済に振り回され、1人では乗り切れないのは日本も同じだ」などと、「日米同盟」容認・深化派の「朝日」は、ここでも平気でウソをついています。「1人で乗り切れない」のは、日米軍事同盟に縛られている日本、そのことについて、廃棄派の主張を無視しているのは「朝日」を初めとした日本のマスコミではないのか!です。
3.さらに言えば、大阪市の橋下徹市長共著書「体制維新―大阪都」のなかの一節「世界経済がグローバル化するなかで、国全体で経済の成長戦略を策定するのはもはや難しいと僕は思っています」という言葉を引用することで橋下市長に市民権を与えているのです。彼こそが、日本維新の会の名の示すとおり、日本のナショナリズムを煽る復古政党であることは、大阪市で強行し「日の丸」「君が代」強制条例を見れば明瞭です。経済的には「カジノを大阪に」などという無謀な計画をグローバル化と成長戦略の名の下に持ち込もうとしていること、大阪財界の応援団として、旧い体質を持った政治家であることを黙殺しているのです。
4.「国家以外にプレーヤーが必要な時代に、国にこだわるナショナリズムを盛り上げても答えは出せまい。国家としての『日本』を相対化する視点を欠いたままでは、『日本』という社会の未来は見えてこない」などと批判的な装いをこらしながら、そうであるならば、石原前吐知事の尖閣買取発言などが引き起こした経済的損失について、批判を加えてこなかったことなどは不問なのです。
5.「国家が主権を独占しないで、大小の共同体と分け持つ仕組みではないかという」というのであれば、沖縄県の米軍基地問題はどうするのでしょうか?
6.「国家」は「国民主権」を基礎にして成り立つという常識を踏み外した「ナショナリズム」が横行しているのは、マスコミの報道の仕方に問題があることは、この間ずっと指摘してきましたが、健全な「ナショナリズム」としての「ものさし」は日本国憲法にちりばめられていますが、憲法より日米同盟重視の「朝日」は、憲法の原則を忘れてしまっているようです。
このことは、39面の記事にも言えます。その理由は、
1.「国家を相対化」する主張を言いながら、真逆の事実を「相対化」して報道しているかのように装いながら、実は国家主義の先導的役割を果たしているのです。
2.「日の丸」「君が代」の歴史を曖昧にしていることです。幕末薩摩藩が「日の丸」を使用したのは事実です。しかし、当時の戊辰戦争では幕府方が日の丸を使用し、天皇方は「錦の御旗」=菊の紋章を使用しました。日の丸は賊軍の象徴でしたが、そのような事実は黙殺しているのです。しかも「終戦時2歳。戦争の記憶はない。日の丸とも結びつかない」という言葉の背景をということもなく、です。
3.「近所同士、人同士がつながっていたあのころ、大切にされていた礼儀や感謝の気持ちも日の丸に感じるんですわ」「繊維製品の生産地は中国や韓国に移り、町はさびれた」などの「事実」を紹介し、「感情」論に訴えていますが、そもそも、こうした「町はさびれた」事実は、日の丸を推進してきた勢力が跋扈してきたからではないのでしょうか?そうした事実を抜きに、「町おこし」の象徴として「日の丸」を利用している事実を「利用する」意図は何か、です。
4.「日本国民として国を大切に思い」とありますが、それが「日の丸」掲揚にあるというは、あまりに感傷・感情的で、「教育基本法は『国と郷土を愛する』を目標に掲げている。公教育は法律に従ってなされるべきだ。イデオロギーの問題ではない」などと「日の丸」「君が代」を批判する「考え方」を「イデオロギー」として片付け、排除する側に立った記事と言えます。そもそも「旧教育基本法」が存在していた時には、「公教育は法律に従って」などと言わなかったはずです。極めて意図的です。
5.「国家主義・軍国主義の復活につながる」と学校への日の丸持ち込みに反対してきた県教職員組合は大きな反対運動を起こさなかった」のは、連合が結成されたことによって、連合に加盟した日教組と文部省が手を握ったからに他なりません。日教組大会に文部大臣が参加するとか、各県の教組の役員が管理職に登用されているなどということは教育界では常識中の常識です。大分県の教員採用試験は、その象徴的事件でした。
6.そのような事実を抜きに、反対運動が起こらなかったことをもって「日の丸」「君が代」が国民の中に認知されているなどということは、はなはだ疑問ですし、斉唱掲揚が数字的には100%であるという「事実」のウラには、どれだけの「強制」が横行し、そのことが、現在の教育現場の「劣化」を生させてきたことを検証すべきです。
7.「感情」論が横行する社会にあって反対意見を「少数」であるかのように描き、沈黙させる「社会」「国家」こそ、相対化されなければなりません。しかし「朝日」の記事は、そのような視点からかけ離れた、欠落した記事といわなければなりません。
8.「社説」と「記事」は違うということを以前対談で述べていましたが、この記事を見る限り、同一線上に位置すると言えます。これでは中国の「反日教育」を批判することはできないでしょう。
それでは、ネットに掲載されていないようですので、記事を掲載しておきます。写真はカットします。
39面の記事
日の丸を揚げたい街
「人がつながっていたあのころ感じる」「地元の財産。子らに誇りを持たせたい」「教育基本法にある目標に従うべきだ」
日の丸。官民を挙げて掲揚に乗り出した市や町がある。かつての繁栄への郷愁、どうにもならない行き詰まり感。旗への素朴な思いが、街を染めていく。
石川県中能登町は掲揚率日本一を目標に掲げている。能登半島の真ん中にある米作と繊維の町。31日夕、全約6600世帯に町内放送が流れた。
「年の初めをお祝いするため各家庭での日章旗の掲揚について、ご協力をお願いします」
町は昨年9月、日の丸購入者に千円の商品券を配る制度を始めた。提案したのは町議の作間七郎さん(69)。2005年に3町合併でできた町の初代議長だ。
始まりは新しい町の「日本一」探し。合併前の旧鳥屋町が10年余り前、町制60周年を記念して全世帯に日の丸を無料配布したことがあっだ。「日本で一番祝日を祝う町だ。予算もかからない」。終戦時2歳。戦争の記憶はない。日の丸とも結びつかない。
50~70年代、一帯の企業集積率は「東洋一」と言われた。繊維製品の工場がひしめき、東北から集団就職者が押し寄せた。カシャン、ガシャンと機織りの音が24時間響いた。年の瀬には子どもが家々を回り、大人に見守られ餅をついた。
旗日には、家々の軒先に日の丸がはためいていた。
「近所同士、人同士がつながっていたあのころ、大切にされていた礼儀や感謝の気持ちも日の丸に感じるんですわ」
繊維製品の生産地は中国や韓国に移り、町はさびれた。工場数は往時の1割以下。3世代同居の大家族はめっきり減った。
議会では異論もなく、町は全世帯の半数近い3千世帯分の予算を組んだ。ポール付きセットで3700~4800円の日の丸を紹介するチラシも配った。だが、昨年末までの申請は約70件。杉本栄蔵町長(71)は「まだ少ないね。私としても、日本国民として国を大切に思い、掲げるべきだと考えている」と言う。町は日の丸購入の呼びかけを強める方針だ。
日の丸を掲げていない家の主婦(52)は周囲に目をやって声を潜めた。「わざわざ買うつもりはないけど、旗を揚げている家を見ると負い目みたいなものを感じますよ。感じること自体おかしいんですけどね」
●=一 一
桜島と鹿児島湾を望む鹿児島県垂水市。12月中旬、「国旗日の丸のふるさと」と刻んだ碑が道の駅にでききた。幕末の薩摩藩主、島津斉彬が外国船と区別するために、初めて日の丸を掲げた船を造った地だ。
町の人口は約1万7千人で、50年代の半分以下。4校あった中学校は3年近く前に1校に統合された。商店街にはシャッターが下りた店が目立つ。
九州新幹線が11年春に全線開通してからも、一向に波及効果が出ない。若手経営者らの話し合いで上がったのが日の丸だった。
「記念碑を建て、桜島を背に写真が撮れるスポットにすれば人が集まる」。約20入が昨年2月、建立費を集め始めた。日の丸を観光に使うことに、企業からは「不謹慎だ」との声が返ってきた。市も「右翼の街宣車が来ても困る」と乗り気ではなかったが、運動が広がるうちに後援に入り、職員がカンパを出した。約800万円が集まった。
中心メンバーで市議の堀内貴志さん(52)は言う。
「日の丸は地元の財産。『俺のふるさとは日本のシンボルのふるさとでもあるんだ』と、子どもたちに誇りを持たせたい」
●=一 一
大分県津久見市教委は昨年1月、国旗を毎日掲げる「常時掲揚」を市内の全小中学校12校に指導した。掲揚台がない学校には約100万円で新設した。
推し進めたのは、県商工労働部の次長級幹部から市教育長に登用された蒲原学・副市長(60)。きっかけは一昨年の春、教育長として臨んだ2度目の卒業式。君が代斉唱になっても、数十人の卒業生の視線は宙を泳ぎ、口を開かなかった。
「教育基本法は『国と郷土を愛する』を目標に掲げている。公教育は法律に従ってなされるべきだ。イデオロギーの問題ではない」
毎月の校長会で、教育基本法と学習指導要領の徹底を繰り返した。音楽の授業で君が代を練習するように、とも言った。昨春の卒業式で子どもたちは皆、声を上げて君が代を歌った。
「国家主義・軍国主義の復活につながる」と学校への日の丸持ち込みに反対してきた県教職員組合は大きな反対運動を起こさなかった。「地域に行動を展開する力が残っていなかった。このままだと異論を言いにくい世の中になってしまう」。岡部勝也書記長(47)は苦渋の表情を浮かべた。
12月の終業式の朝。新しく掲揚台ができた津久見小学校で平川英治教頭(54)が日の丸を掲げた。「2月からの日課ですよ。苦情はありません」
散歩で通りかかった60代の男性が1人、日の丸の前で足を止め、ぐっと頭を下げて去っていった。(泗水康信、山本亮介)
「社説」 混迷の時代の年頭に―「日本を考える」を考える2013年1月1日(火)付
http://www.asahi.com/paper/editorial.htm
新年、日本が向き合う課題は何か、日本はどんな道を選ぶべきか――。というのは、正月のテレビの討論番組や新聞の社説でよく取り上げるテーマだ。
でも、正月のたびにそうやって議論してるけど、展望は開けてないよ。なんかピントずれてない? そう感じる人は少なくないだろう。そこで、この正月は、そんな問い自体をこう問うてみたい。
私たちが抱える、うんざりするような問題の数々は、「日本は」と国を主語にして考えて、答えが見つかるようなものなのか、と。
領土問題がみんなの心に重くのしかかっていたせいもあるだろう。年末の選挙戦には「日本」があふれていた。
「日本を、取り戻す。」(自民党)、「日本再建」(公明党)、「したたかな日本」(日本維新の会)……。
でも、未来の日本についてはっきりしたイメージは浮かび上がらなかった。
■グローバル化の中で
ちょっと寄り道して欧州に目を向けてみる。去年は財政危機で散々だった。ギリシャを皮切りにほかの国々も綱渡りを強いられた。ユーロ圏崩壊という観測まで出た。
ようやく年末、一番ひどかったギリシャの長期国債の信用格付けが引き上げられた。楽観はできないけれど、最悪の事態が少しだけ遠ざかった。
一息つけたのは「欧州人が深く関わった」から、と欧州連合(EU)のファンロンパイ首脳会議常任議長はいう。実際、EUと仲間の国々が総がかりだった。助ける国も助けられる国もエゴに引きずられはしたが、結局、国境のない危機の打開に国境はじゃま。主語を「ギリシャ」ではなく「欧州」としたからなんとかなった、ということだろう。
統合を進めるEUに固有の話ではない。グローバル経済に振り回され、1人では乗り切れないのは日本も同じだ。
成長は欧米やほかのアジアの景気頼み。雇用をつくるのは、日本の企業や政府だけでは限界がある。金融危機についても取引規制のような根本的な対策は、ほかの国々や国際機関との連携抜きにはできない。
昨年9月末には、日本の国債発行残高のうち外国人が持っている率が9.1%に増えた。世界一の借金大国の命運もまた、その小さくない部分を国の外の投資家たちが握り始めている。
■高まる自治拡大の声
一つになろうとしているはずの欧州には逆行と見える流れも根強い。最近もスペインのカタルーニャや英国のスコットランドで独立や自治権拡大を求める機運が盛り上がっている。いったい欧州の人たちは国境を減らしたいのか、増やしたいのか。
実は出発点は同じだ。なんでもかんでも国に任せてもうまくはいかないという思いだ。
経済危機に取り組むには国の枠にこだわってはいられない。でも、産業育成や福祉、教育など身近なことは国よりも事情をよく知る自分たちで決めた方がうまくいく――。自信のある地域はそんな風に感じている。
同じような考え方は、日本にも登場している。
たとえば大阪市の橋下徹市長は共著書「体制維新―大阪都」でこういう。
「世界経済がグローバル化するなかで、国全体で経済の成長戦略を策定するのはもはや難しいと僕は思っています」
問題意識は海外の流れとかさなる。国家の「相対化」である。国家がグローバル市場に力負けして、地方にも負担を引き受けろというのなら、そのかわりに自分たちで道を選ぶ権限も渡してほしいというわけだ。
■国家を相対化する
「(国境を越える資本や情報の移動などによって)国家主権は上から浸食され、同時に(国より小さな共同体からの自治権要求によって)下からも挑戦を受ける」
白熱教室で知られる米ハーバード大学のマイケル・サンデル教授は17年前の著書「民主政の不満」でそう指摘していた。これから期待できそうなのは、国家が主権を独占しないで、大小の共同体と分け持つ仕組みではないかという。
時代はゆっくりと、しかし着実にその方向に向かっているように見える。「日本」を主語にした問いが的はずれに感じられるときがあるとすれば、そのためではないか。
もちろん、そうはいっても国家はまだまだ強くて大きな政治の枠組みだ。それを主語に議論しなければならないことは多い。私たち論説委員だってこれからもしばしば国を主語に立てて社説を書くだろう。
ただ、国家以外にプレーヤーが必要な時代に、国にこだわるナショナリズムを盛り上げても答えは出せまい。国家としての「日本」を相対化する視点を欠いたままでは、「日本」という社会の未来は見えてこない。