現代では、労働力は人間の基本的な可能性としてみなされている。[1] かつては労働の喜びであり本質であったものが労働と対極にある余暇の中に求められるようになったことを先に記したが、そもそも労働こそが人間の本質的な活動であるというのは、近代になって作られた労働イデオロギーである。近代初期に労働の禁欲倫理が外部から強制的に注入されたが、その歴史的生成過程が忘れられると同時に、今度は歴史の結果として生まれた労働の喜びというイデオロギーを知性化された義務感情という理想的目標に仕立て上げて、それを目指して努力することになる。おそらく労働に対する取り違えはここにあるようだ、と今村仁司は述べる。[2] 現代社会においては、働きがいが生きがいと読みかえられやすいことはすでに記したとおりである。19世紀の前半に労働が人間の人間たる根拠であるとする労働思想が生まれてから、現在まで労働の本質と人間の本質とを同一視する思想が普遍的にばらまかれ、今では空気のように自明となった。労働こそが人間を人間にするという命題は近代と現代の基本になっている。しかし、労働が社会生活に「必要」であるということと、人生の意味が労働にあり、労働の意味(喜び)が人生の生きがいになるということとはおよそ別個の事態である。前者は社会が核的な事実である、後者はイデオロギー的思い込みである。それどころか、労働意味論(労働喜び論)は、管理のためのイデオロギーである。もともと労働の中に喜びなどはない、だからこそ無理にでも喜びの労働内在性を虚構しなくてはならない。本当に労働の中に喜びがあり、故に人生の意味も労働の中に求めることができるならば、労働は実在性をもち、観念や感情に左右されたり、表象のなかに雲散霧消することはないだろう。[3]
今村が述べるところによれば、古代であれ現代であれ、労働は基本的には自由な行為ではなくて、隷属的な行為である。労働の隷属性を、労働する者は、自覚するしないにかかわらず心の奥で感じている。それをなだめるのが種々のモラルであるし、特に他人による評価の媒介である。したがって労働の喜びは内発的ではなく外発的である。総じて苦痛である身体行為を何らかの形で「喜び」と感じさせるのが、他者による承認を求める欲望である。[4] 他人からの賞賛が労働の喜びの内容であることを今村は繰り返し述べているが、ここでは、基本的には隷属的な行為であり、労苦である労働が「勤労・勤勉の精神」によって、労働は人生を意味づけるもの、生きがいとして受け止められるに至る流れを、今村の記述に沿って大雑把に概観したいと思う。
古代では、手仕事という意味でのメカニックな肉体的行為は格の低い活動であると見なされていた。古代のギリシアでは、テクネー(職人的制作)やポイエーシス(芸術家の制作)といった用語で指示される活動もまた手仕事のなかに含まれていた。ひとつの活動の格が高いか低いかは、一方では、それが肉体的活動、とくに奴隷的活動に近いかどうかによって、他方では、独自の時間意識によって評価されていた。余暇の中の行為は自由であり、非余暇の中の行為は隷属的であるという時間意識が種々の行為を価値づける。奴隷が自由人の生活の必要を充たす隷属的行為を行った。奴隷が行う隷属的行為は純粋に肉体的労苦であり、メカニックな行動の極限の形態をなしていた。奴隷は自由な時間を持たない。手仕事の社会的地位が低く評価されたのは、それはどこまでも肉体的活動を伴うからである。身体の活動は、古代のギリシアでは、職人的であろうと芸術家であろうと、上級の自由市民に奉仕する隷属的性格をついに免れることはできなかった。隷属的な活動は、時間意識からも低く評価される。自由な時間を絶対的に持たない好意は奴隷の労苦であり、その存在は動物的存在に等しい。その行為は動物的であり、自然の中の事物として扱われる。物体的であろうと、単に動物的であろうと、物質的であること、あるいは単に生物的に生きていることは、人間にとっては隷属的存在であった。肉体の生命や肉体の運動は、単にそれ自体では、価値や意味をもたない。肉体をもって物質的環境に反応するだけの「生きている」ことは動物と同じであり、「よく生きる」ことこそ意味のある生き方であった。「よく生きる」の「よさ」、生活の「正しさ」は自由な時間を持つことに等しい。では労苦から開放され余暇を持つ人間が自由な時間の中で何をしていたかといえば、「語ること」をもって公共の事物の運営を行った。自由人たちが公共の事物を論議し、決定し、実行するためには、思考を制約する条件から完全に解放されていなくてはならない。余暇の中で言説を持って公共的な世界に携わり、政治的共同体にかかわる全てを考える生活を送る。労苦から開放されるという意味での「自由」ならびにそれを支える「余暇」は文明の価値基準であった。古代の文明は、余暇の文明であり、事物の制作をしないという意味での無為を理想とする文明であった。無為は物を制作しないが、公共世界を言葉による交通によって構築する。その世界の中で活動的に生きることに価値があった。
ところが、近代世界が最初に登場した西欧では、商品経済の発展と初期資本主義の興隆のなかで、久しく社会の下位に価値的に格下げされてきた手仕事の重要度が増してくる。メカニックな活動なしには近代経済は立ちゆかない。絶対主義国家がこの歴史的課題を背負った。手仕事または労働の必要が高まるにつれて、それまで隷属的とみなされてきた「労働」への感受性が変動し始める。労働は徐々に否定的なものから肯定的なものへ、格下げ状態から格上げ状態へと移行しはじめたのである。同時に、これまで文明の価値基準として通用してきた余暇と無為への感受性も変動し、余暇と無為は労働と反比例して、格下げをこうむることになる。この転換期において、無為が怠惰に変質するという事実は、注目に値する。自動的に変質したのではなくて、社会構造の変動とともに、人々は無為を怠惰とみなすようになる。無為は怠惰としての罪になった。文明の価値基準が根本から変動したのである。余暇(オティウム)から多忙(ネゴティウム、ビジネス)へ、無為(デズーヴルマン)から勤勉(インダストリー)へ、社会の精神的軸心が移動したのである。18世紀の後半にフランス革命が起きると、初期近代において開始していた機軸的変動は一層明白になる。古い価値は解体し、新しい価値が上昇する。余暇と怠惰は徹底的に非難され、多忙な生活としての産業的生産活動と勤勉倫理が圧倒的になる。そのとき「産業者」は時代の合言葉になる。絶対主義時代にまだ古い文明の価値意識で生きてきた王侯貴族たちは、怠惰的無為の代表として指弾され、代わりに多くの労働し生産する者が賞賛される。19世紀は産業者の時代になる。多忙と勤勉が到来したのである。ブルジョワも労働者も、同じ勤勉倫理を共有するようになる。労働者に味方するイデオローグも、労働者の勤勉を価値的にもちあげ、労働のなかに人間的なものがあり、労働の本質は人間の本質であると宣伝するようになる。人間的になるには労働する権利を獲得することだという。人生の意味が労働の喜びの中に求められるようになった。多忙と勤勉の勝利であった。[5] 多忙と勤勉は一見能動的なようだが、内面的な働きかけがない単なる多忙は「疎外された能動性」である。
現代社会において全てが価値生産的でなければならないという強迫的な心性に迫られることは、今村の言葉に沿えば、一切の活動が労働になってしまった、のである。全ての活動は労働とは無縁な活動すら、勤勉なインダストリーの企て行為に近似していくし、未来を先取りし、目的を設定し、目的を実現するべく決断する、そういう産業的労働になってしまった。必然の労働が生活の全てを包摂する。全てが労働であることの基礎には、「時は金なり」で記したような「勤労・勤勉の精神」がある。「勤労・勤勉の精神」が物も人もたえず増殖させる。全ての領域の増殖力の究極の源泉は近代的な勤勉労働であり、人間の生活は全て勤勉労働を軸にして動いている。人々は労働とその条件のみを重視し、それ以外のことを考える自由な時間を喪失していく。このような労働文明、労働の忙しさゆえに消費行動すら多忙な労働に等しい現在の状態では、生きることの意味を考え、公共世界と歴史的世界の意味を思考することは不可能になる。この世に生を受けたものが自分の人生を充実して生きることを配慮し、「よく生きる」あるいは「正しく生きる」ことに多くの時間をさくことができないような状態は、おそろしく不自然なことである。日常の人生のなかで、一見したところ抽象的にみえる「よさと正しさ」を考える自由な時間を創造するためには、多忙と増殖の原理である勤勉労働の時間を可能な限り縮小する必要がある、と今村は述べている。[6]今村が述べる「よさと正しさ」を考える自由な時間の創造もまた、フロムに沿えば「あること」、生産的能動性の状態であろう。
***********
引用文献
[1] 鷲田清一『だれのための仕事』56頁、岩波書店、1996年。
[2] 今村仁司『近代の労働観』110頁、岩波新書、1998年。
[3] 今村、前掲書、149頁。
[4] 今村、前掲書、123-124頁。
[5] 今村、前掲書、158-164頁。
[6] 今村、前掲書、190-192頁。