たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法」_人の価値を何で測るか・安全基地があるから、人は冒険に出かけられる

2016年09月22日 12時58分27秒 | 本あれこれ
「-人の価値を何で測るかー

 さてここで、もうひとり重要な人物が登場します。ブリューエット夫人です。彼女は、リンド夫人とはまた違うタイプの実際的な人として、二つ目の種類の人たちに分類されます。リンド夫人は現実的で常識的、実際的な手段で周囲を切り盛りしていくタイプの女性ですが、ブリューエット夫人はそれをさらに徹底したような人物です。リンド夫人はまだ、家族や友人、アンに対する愛情もちゃんと持っていますが、ブリューエット夫人にはそういう温かみはほとんどありません。彼女は手違いで孤児院から来てしまったアンを、マシュー、マリラ兄妹の代わりに 受け入れようと申し出る人です。余分な肉など一グラムもついておらず、小さくて意地悪そうな感じの女性で、自分じゃろくに働かずに人のことはこき使うのだという噂がたっている。

 ブリューエットのおくさんは、頭のてっぺんから爪先まで、じろじろアンを眺めまわした。
「年はいくつ? 名前は?」( 中略)
「へえ、あんまり肉づきがいいようには見えないね。だけど、体つきはしっかりしている。やせてしっかりしているのが、一番だそうだけどね。もしうちに来ることになったら、いい子でいてもらうよ。いい子で、機転がきいて、行儀よく。自分の食べる分はしっかり働いてもらうから、そのつもりで。

 そうですね、カスバートさん、この子をもらいうけましようか。赤ん坊が気難しくて 、その世話でくたくたなんです。そちらさえよろしければ、すぐにでも連れて帰りますよ」

 この場面からも分かるように、ブリューエット夫人は、人の価値というものを、自分の 役に立つかどうかということで 測ろうとする人物です。経済原理主義者と言ってもいいかもしれません。アンのことも自分にとって何の役に立つかということでしか見ていない。

 しかし、これは彼女に限った話ではありません。世の中というのはそういう価値判断で動いている部分があります。今の社会は、まさに人間の価値基準というものを、経済的、
あるいは仕事の上で役に立つかかどうか、ということでしか測らないようになってきている。ハウツー本が売れているという現象も同じ要因から来ていると言えるかもしれません。
何が何でも、社会にとって役に立つ人間でなければならない 、という脅迫観念みたいなものからみんなが買っていく。そのような社会は、ざまざまな弊害を生み出しています。

 たとえば、ひきこもりやワーキン グブアなどの若者は、社会の役に立つかどうかという価値基準によって評価され、その基準に合わないということで苦しい思いをしているのです。このように、人を役に立つかどうかという価値基準でのみ測ろうとする社会や個人のあり様は、幸福な生き方からは遠いと言わざるをえないでしょう。

  幸福とは、個人の主観の問題です。たとえば、たくさんの子どもに囲まれて幸せだと感じるか、それともやっかいだと感じるか。これは、まさに主観の問題です。先ほどのブューエット夫人は、子どもがたくさんいることをやっかいだと思うだけで、幸せなことだとは思っていなかった。こういう人は、幸福からどんどん遠ざかっていきます。幸せであることと、自分が人をどのような基準で評価するかという問題は、大いに関係のあることです。では、幸福になるための人への評価基準とはどのようなものでしょうか。

 それは、「人の価値を何で測るか」ということを考えた時に登場する、三人目の人物を見ることで分かります。つまり、マシューです。マシューとマリラのアンに対する価値の測り方そのものと言えます。つまり、人を手段として使うのではなく、その人自体を目的とするということです。最初、孤児院から子どもをもらい受けようと思ったのは、自分たちの農場を手伝ってくれる男の子を求めてのことでした。これは、人を手段として見るということです。ところが、アンという子どもの魅力に感化されて「あの子が私たちに何かしてくれるのではなく、私たちがあの子に何かしてあげられるんじゃないか」というふうに、考え方が変わっていった。これは、アンという存在自体を目的としているからこそ出てくる発想です。

 これは、幸福になるための人事なテーマです。これを、仕事に当てはめても同じことが言えるのではないでしょうか。仕事を、生活費を稼ぐための手段として仕方なくやっているんだと思っているうちは自分自身もつらい。けれども、仕事をすることそのものを目的とすると、それ自体が喜びの泉となる。言い換えれば、働くことの中にどんな小さなことでもいいから喜びを発見し、働くこと自体を楽しむことができれば、その人の人生は幸福なものとなっていくのではないでしょうか。




ー安全基地があるから、人は冒険に出かけられるー

 アンは、グリーン・ゲーブルズに受け入れられて、自分の家を持ちます。そこで、はじめて 安心できる場所を得ました。これは、とても大切なことです。人は、安心できる場所が確保されないと、不安につきまとわれてしまう生き物だからです。そして、その不安は徐々に、ネガティブな感情を呼び寄せてしまうこともあります。ネガティブな感情に支配されると、新しいことにチャレンジしようという意欲が湧かなくなる。どうせ、新しいことにチャレンジしても失敗してしまうだろう、という負の回路が脳の中で出来がってしまうからで す。そして 次第に、何をするにも引っ込み思案になっていってしまう。それが積み重なっていくと、他人とのコミュニケーションがうまくいかず、さらにストレスや不安が増していく、という悪循環に陥ります。


「一寸先は間」という言葉があります。この格言が示すように、人が生きていくということは、何も見えないということなのです。先のことは、全くわからない 。人生、何が起こるか予想できない。だから人は、誰もが失敗を恐れ、生きていくことすら恐れるようになる。しかし、生きていくことが不安なのは、誰だって一緒です。

 そうで あるならば、いきいきと生きていくためには、新しいことにチャレンジし続けるしかないのです。歴史を振り返ってみても、不確実性の中に身を置くことで、新たな発見や発明はなされてきました。

 では、どうすればネガティブな感情から抜け出すことができるのでしょうか。それは、子どものころを思い出せば分かると思います。子どもの頃は、見るもの、触れるもの、そのすべてが初めてのことばかり。まさに、不確実性の中を生きている状況です。けれど、その 状況に対して不安は抱かなかった。むしろ、初めての経験に目を輝かせ、好奇心とチャレンジ精神でいっぱいだったことでしょう。 どうして、子どもの頃は、不確実性の中にいても不安を感じなかったのでしょうか。どうして、失敗しても果敢に次ヘチャレンジできたのでしょうか。それは、多くの場合、父親や母親という保護者が作ってくれていた心理的な「 安全基地(secure base」があったからです。

「安全基地」とは、何かがあったときに、いつでも逃げ込める場所のことです。外の世界でどんなにつらいことがあっても、新しいことにチャレンジしてうまくいかなくても、安全基地に帰ってくれば、そこにはいつも自分を守ってくれる親がいる。その安心感が子どもの心の支えとなって、子どもたちはまた、新たな冒険に出かけて、自分の世界を広げて行くことができるのです。

 この安全基地は、ネガティブな不安から解放されるため、そして、新たなことにチャレンジするためには、大人にとっても必要なものです。ただ、大人にとっての安全基地は、年老いていく親とい うわけにはいきません。確かに、恋人や夫や妻は心の支えではありますが、全面的に頼ることはできません。子どものときのように 自分のことを絶対的に守ってくれる人はもはや存在しないのです。 では、どこに安全基地をつくるのか。それは、今まで 生きてきた経験や知識、スキルをもとにして、自分自身が新たな安全基地になるしかないのです。しかし、子供のころの安全基地と違うところは、そこが逃げ込む場所ではなく、自分の経験やスキル、知識を武器に社会の中で戦っていく場所としての基地だということです。」

(茂木健一郎著『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』、2008年12月12日第一刷発行、講談社文庫、95-114頁より抜粋して引用しています。)


 モンゴメリさんは、シャーロットタウンのクリーン学院へと旅立っていくアンを汽車で見送ったあとのマシューにこう語らせています。

I don,t believe it was any such thing.
It was Providence,because the Almighty saw we needed her,I reckon.’

「しかし、これは運の良し悪しなんてものじゃない。神様の思召しだ。思うに、全能の神は、わしらにはあの子が必要だとご覧になったんだよ」

(松本侑子訳『赤毛のアン』講談社文庫、401頁より。)


 幼いころは両親がわたしにとっての安全基地でした。両親がわたしという存在を必要として大切に育ててくれたから今わたしはこうしてどうにかこうにか自分の足で立っていることができるのかもしれません。同じ両親のもとで育った妹はなぜいなくなってしまったのか。その答えはどこにもないことを抱きしめながら、これからわたしは自分自身を安全基地として生き延びていきます。とってもしんどいことですが、自分を信じる気持ちを大切にしていきたいです。父も母もふいにいなくなってしまった今、茂木さんの著書を読み返しながら、こんなことを思いました。

 社会から孤立したまま労働紛争で闘いズタズタにすり切れてどうにもならなかった二年間。ややこしい状況を人に話してもなかなか理解されず、やめなかった自分が悪いと言われ、社会のどこからも必要とされず、自分は社会の中で何の役にも立たない人間なんだと思わされざるを得なかった二年間。本当に苦しかった。それらは茂木さんが書かれているように、経済的合理性という物差しで社会から測られ、わたし自身もまた自分をそういう物差しでしか測ることができなかったということだと思います。(ハケンなんていう人を商品化した仕組みは、人を経済的価値のみで判断する最たる仕組みでわたしには合っていませんでした。ほんとに)。人の心の営みは、物差しできっちりと測ることができない、もやもやとヴェールに包まれたようなもの。生きていくということはもやもやとしたヴェールの中を手探りしながら歩き続けていくということ。それを許さない社会はわたしには息苦しくてなりません。

『赤毛のアン』は現代を生きるわたしたちに、本当にそれでいいんですかと問いかけてくれている深い作品なんだということもあらためて感じました。目の前の利権にしがみつくことしか考えていない人たちにこそ読んでほしいです。残念ですがそんな人世の中にいっぱいいます。ブリューエット夫人が社会の中にはたくさんうごめいています。


「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法 (講談社文庫)
茂木健一郎
講談社

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