たんぽぽの心の旅のアルバム

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三好春樹『関係障害論』より‐「アヴェロンの野生児」を読んでみる

2024年07月18日 00時41分46秒 | 本あれこれ

三好春樹『関係障害論』より‐もし呆け老人だったら

「そんなことがあり得るのかと思われるでしょうね。まず理論的にそんなことがありうるのか、ということになりますが、これに関係論的に仮説を立ててみます。そして、もしその仮説が正しいのであれば、関係によって感覚は戻ってくるはずだということになります。そういうことはあり得るみたいです。人間というのは不思議なものですね。

『アヴェロンの野生児』という本が福村出版という、こういう本の専門の出版社から出ています。かなり昔ですが、フランスのアヴェロンの森で、野生児が発見されます。野生児といっても、青年です。推定年齢17歳か18歳だろうといわれています。小さいころ、森に捨てられたか、迷い込んだかとして、人間とは何の接触もなく森の中で過ごしてきて、17~18歳になったようです。これが、村人によって捕まえられます。噂を聞いたパリの国立病院のイタールという医者が、さっそく駆けつけまして、これを保護して教育を始めます。

 この野生児は人間ですから、解剖学的にはふつうの人間と全く一緒なのですが、森の中にいるともんそうごく違うのです。感覚機能がぜんぜん違います。いくら大声で呼びかけても何も反応をしません。だから、耳が聞こえないのだろうと思っていたのですが、実はそうではなかったのです。

 クルミとクルミが触れ合う音がすると、そちらをパッと見るというのです。どういうことかというと、それまで人間の世界にはいませんから、人間の声というのは、自分が生きていく上で全く必要ではなかったのです。でも、クルミは生きていく上で必要なものだからなんです。

 耳が聞こえる範囲があるとしますと、その部分はすごく発達して、ふつうの人間だったら発達しているはずの人間の声に反応する部分が、全く退化しているという状況だということがわかってきました。寒い日に、夜、裸で外に寝ても風邪もひかない。あるいは、栗を与えると、栗を暖炉の中にぽっと投げ入れて、そしてそれを手で出してつかんでも熱くない。そういう不思議な行動を克明に記録しています。

 当時は、社会契約論のルソーの思想が支配的だったのです。彼の主張というのは、人間というのは生まれたときはすごく素朴で、善人なんだけど、社会に入ることによってだんだんと悪いことを覚えていくのだという、社会が悪いという説でした。この説が本当かどうか、格好の材料ではないですか。生まれたまま社会と触れ合っていない人間が、初めて見つかったわけですから。それでいろいろなことを調べます。いま考えるとおかしいのですが、本人の目の前でいきなり十字架をパッと見せて、どんな反応をするかなんて実験をしています。自然児に神という観念があるかどうか調べているんですね。

 先ほどのお年寄りの話です。トイレに行けなくなったらすぐオムツ、という二者択一しか排泄の方法がないというところに入り込んでしまった人というのは、ちょうどアヴェロンの森に迷い込んでしまった子どものようです。その環境に適応するために、自分の感覚を変化させた、あるいは喪失させてしまったということです。老人は適応力が弱いとはいえないですね。ものすごい適応力です。いじらしいほどの適応力です。つまり、老人が介護のレベルに合わせて、自分の身体を変えてしまうということが起っているのです。」

 

(三好春樹『関係障害論』1997年4月7日初版第1刷発行、2001年5月1日初版第6刷発行、㈱雲母書房、42-44頁より)

 

 

 

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