たんぽぽの心の旅のアルバム

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通信教育レポート-西洋史特殊Ⅲ-近代イギリス国家の成立(中世から近世へ)

2022年06月22日 15時35分06秒 | 日記
 結果的に18年間かけてどうにか卒業することができた大学の通信教育。実利をもとめたわけではなく、高校を卒業したあとやたらと勉強したくなって始めました。苦痛に感じる科目もいくつかありましたが、勉強することが楽しいと思いました。手書きのレポートの数々、作文のようなものばかりですが一本一本、愛着があってなかなか捨てられません。身を切るような思いですが、あの世に持っていくことはできないのでここに書いてお別れしていこうと思います。参考にした本からの抜き書きもすべて手書きしていたという、今となっては考えられないことをやっていました。

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課題:マグナ・カルタのイングランド史上の意義(平成13年)。

 1066年、イングランドはノルマンディ公ウィリアムに征服された。ノルマン人によるイングランド征服とは、何にもましてフランスに本拠地をもつ封建貴族や騎士のイングランド征服だった。ノルマンディばかりでなく、北フランス各地から集まったウィリアム一世の兵士たちがイングランドを征服したということは、北西部フランスの騎乗する武士たち、つまり貴族や騎士たちの社会が海をこえて大ブリテン島にまで拡大したことを意味した。彼らはまずイングランドに落ち着いたが、その後ほどなく西方のウェールズ、アイルランド東南部、北方のスコットランドにも征服・植民・婚姻を通じてひろがってゆき、北西部フランスとブリテン諸島をつなぐ単一の貴族社会を成立させた。こうしてブリテン諸島は北フランス文化圏のうちに組み入れられることになったのである。ウィリアム征服王は、王権の強い集権的封建国家体制をつくりあげた。

 征服前のアングロ・サクソン社会でも封建化は着実に進んでいたが、そこでは従士の奉仕の内容は軍役奉仕に単一化されておらず、また封建制が全国土をおおうに至ってもいなかった。これに対し征服後ウィリアムが全国土を分割し知行として家臣たちに与えたことによって封建制はイングランド全土に広まり、また彼が授封に対する奉仕の条件を軍役としたことによって、軍役が封建関係における基本的な奉仕の形態となった。ノルマン人のイングランド征服は、イングランドの封建化の画期と位置づけられる。しかし、王から征服地を封として直接与えられた家臣たちが、さらに彼らの知行地を陪臣たちに最下封し、この過程が繰り返されることで封建制が全イングランドに体制的に成立するにはかなりの時日を要した。また主君と家臣との間の権利義務関係が全国的にほぼ斎一に確定した内容をもつに至るのも長い年月が必要であった。マグナ・カルタは、イングランド史上こうした過程の到達点として位置づけられる。

 1215年、封建的な慣習法を無視し、貴族・教会・市民などの権利を踏みにじり、大きな負担をかけたジョン王に対し、多数の封建的反対派貴族たちは、様々な要求事項を王に突きつけて、強制的に勅許状を承認させた。これが、マグナ・カルタである。前文と63条の具体的な事例に関する具体的規定により成るマグナ・カルタは、古来の国王・国民間のありうべき姿を復活するために、諸侯の要求と国王の利害との妥協の産物として生まれた。国王と当時の支配者層たる封建階級との間に衝突の生じた具体的な点を列挙した規定であり、古来のあるべき慣例に照らして国王の正しい行為基準が示されている。それを国王に確認させた文書なのである。諸侯側の因って立つ所は、国王も、法と慣習の制約下にあり、自己の意志に従って恣意的に統治することは許されないというイングランドの伝統にある。

  注目されるのは、国王に対する封建的反対派の運動が、過去にあったような反乱や王位継承に伴う紛争とは異なる、国王の強力な政治的権力に対して抑制的に作用するイングランド史上最初の政治原則を掲げる運動だったことである。マグナ・カルタを巡る政治危機と内乱は、特定の指導者のために殉ずる人々が引き起こした内乱でもなく、私人あるいは一党派の利害を巡るものでもなかった。国王と諸侯は、国王の在り方と運営方針を巡って激しく対立したのである。こうした意味で、マグナ・カルタによる国政改革は、イングランド史に新しい一頁を開いたと言える。

 国王と諸侯との間に対立が生じ、国王がマグナ・カルタを認証するに至る要因の中で、最も重大なのは国王が慣習法に従わず、恣意的に重税を課し、財政的搾取を行ったことである。上述したように、イングランドには、国王が法に従うべきであるとする伝統があるが、12世紀のイングランドは、なお、今日の立憲国家ではなく、国王は容易に自ら遵守を約した規範を破って恣意的に統治した。すなわち、国王は封建的諸権利に基づいて統治したが、封臣に要求するその義務内容の理解は、国王の恣意に委ねられることが多く、封建諸階層の伝統的諸権利の侵害が盛んに行われた。特に、前々王であるヘンリー2世の治世依頼、王権の伸長が著しく、国王と諸侯の利害の衝突はそれだけ激しくなってきていた。両者の衝突が最も尖鋭に表れたのが、財政の分野である。経済的危機に直面していた国王は、自らの封主としての権利を最大限に活用し、中でも封臣の封建的義務を極めて恣意的に解釈して適用した。例えば戦争を理由に、本来租税ではなかった軍役代納金を毎年のように徴収し、軍役代納金は租税と違わぬものとなった。ジョン王は、封建君主としての諸権利を濫用して収入の増大に努めたのである。

 さらに、不従順な家臣には自己の意志を強制するために、ヘンリー2世の時代に築き上げられた強力な行政機構を用いて正規の裁判を経ずに彼らの所領を差し押さえた。こうした処理は諸侯に圧制と受け取られた。こうした国王の強力な行政的権力に対して、抑制的に作用する制度的機構が全く欠けているということが、諸侯によって明確に認識されるに至ったことが、マグナ・カルタへと至る。こうした考え方は、12世紀の後半から徐々に現れてきていた。この時代には法制の整備が進み、イングランド独自の法学が成立するにつれて、法は普遍的にかつ正確に適用されるべきもので、そこに恣意が介入してはならないという考え方が広まった。また他方では封建制およびゲルマン系諸部族国家の国制の内に潜在していた制限王政的要素が法書の中に強調されるようになっていた。こうした思想が諸侯の間にも浸透していたことはほぼ確実である。

 マグナ・カルタの中で、国制の基本に関わる内容のある条項としては、第12条の軍役代納金または御用金は封臣会議の議を経なければ課せられることがないという条項が重要である。これは、17世紀になると、課税一般は監視議会の同意を経ないで課税しないという意味に解され、イギリス憲政の基本原理に成長してゆく。また、御用金と軍役代納金に関する一般評議会の構成及び召集方法を規定した第14条は、後の議会の二院構成ならびに召集方法が示されている。次いで、第40条の「いかなる自由人も同輩の合法的な判決または国土の法によるに非ざれば、捕らえられ、拘禁され、国外追放され、あるいはなんらかの方法により身を滅ぼされることはない。また朕は彼の上に赴かず、また何人をも彼の上に遣わさない」と、第40条の「何人に対しても正義と司法を売らず、また拒否または遅延せしめない」ことが重要である。ここに、自由人の生命、財産が国王の一方的意志により自由にすることができず、法に服さなければならないとの原則が定められた。その他に教会の自由・封建的負担の制限・裁判・都市・商業・商人・地方官の職権乱用防止・猟林などに関する諸規定を含む。

 強化に向かう王権と封建階級の利害が衝突し、国王の敗戦を機に、その不満を体現した文書の確認を国王が強いられる事態は、13世紀の初め頃に幾つかの国々で生じている。しかし、マグナ・カルタのように、全国統一の諸階層に関するものを一つの文書にまとめたものはない。マグナ・カルタに示された、諸侯から下層の自由農民までを含む「全自由人」という包括的集合概念は農奴を含んではいないが、政治共同体としてのイングランド王国をあらわしていたということができる。全土に共通の法をもつ自主的で自己完結的な法共同体として成長してきたイングランドは、いまや政治的共同体に転化しつつあり、自由人の政治的共同体としてのイングランド王国という概念が生成しつつあった。

 マグナ・カルタは、いったんジョン王によって破棄された後、ジョンの子ヘンリー3世の治世に三度にわたって修正公布され、1225年に四度目の公布で文言が確定し法となった。その後も、国王と臣民との間に重大な危機があるごとに、国王はマグナ・カルタの確認を約さざるを得なかった。ジョンが内戦の危機を逃れるためにやむを得ず承認したマグナ・カルタが中世イングランド国家の基本法となったのは、その後の偶然的な経過に負うところが多い。

 次第に封建的支配関係が弛緩しつつあったこの時期に、国王の封臣であると同時に自ら封主として封臣を擁した諸侯にとっては、マグナ・カルタは、自己の封主としての権利を国家によって保証させるものであった。つまり、彼らは、自立性を失い、従来以上に王権のもとに組み込まれていったのである。こういう封建的君臣関係は相互契約の性質が強く、家臣が主君に一定の奉仕の義務を負うのに対し主君は家臣を保護し、生活条件を保証する義務を負っている。マグナ・カルタを基本として、イングランドは全国的に共通の法をもつ封建国家となったのである。


参考文献-

 青山吉信編『世界歴史体系-イギリス史Ⅰ』(山川出版社)

 村川堅太郎・江上波夫他編『世界史小辞典』(山川出版社)

 評価はA、「中世以降のマグナ・カルタの意味についても触れておく必要がありました。その点の欠けていることがおしまれます」という講評でした。

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 こうしてミュージカル、絵画とつながると楽しさ倍増。もっと一つ一つ深めたいという気持ちになります。


チューダー朝最後の君主、エリザベス1世(レディ・ベス)は1558年11月17日 - 1603年3月24日、
お父さんはヘンリー8世。

シェイクスピアは1564年4月26日-1616年4月23日。


あらためて、2017年『レディ・べス』思い出し日記
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/e12fb32f9a165bdd834cc4a4883ab870





『ロンドン・ナショナルポートギャラリー所蔵KING&QUEEN展』at上野の森美術館
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/d/20201213


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