たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

第六章OLを取り巻く現代社会-⑤働きがいは生きがい

2024年09月05日 14時31分39秒 | 卒業論文

  現代社会においては、人間の論理とは無関係に、システムの論理が自己展開を遂げていく。そのために惹き起こされた「意味喪失」という事態が労働においてもおきている。ここで先ず、働きがいはイコール生きがいと読み換えられることが多い点について考察してみたい。

 「生きがい」という言葉について、15年間のサラリーマン生活の後、作家になった黒井千次の記述から引用したみたい。「生きがい」という言葉の輪郭を明瞭にするために『広辞苑』を引いてみると、[生甲斐]生きていけるだけの値打ち、生きている幸福・利益、とある。もっともな説明だが、何か物足りない。この言葉が「生きがい論」等として使われている、その使われ方そのものへの不満を感じないではいられない。つまり、「生きがい」が「生きているだけの値打ち」であるとするならば、生きがいがない、ということは、生きているだけの値打ちがないということに他ならない。「生きがい論」の氾濫は、人々が「生きがい」を見失い、しかもそれを諦めきれずに捜し求めてさまよい続けていることの反映である。あるものが、ある人間にとって価値なしと判定されるならば、それは直ちに破棄されてしかるべきだろう。それならば、生きるに値しない生は破棄されなければならない。生きがい論が、いわば生の根底を支えるものとして常に論じられ、その出発点は明らかに生きがいの喪失でありながら、生きがいがなくても人は生きている。ということは、人の生は生きがいがあるから存続するのではなく、生きがいの有無に関係なく存続するものだということを意味すると思われる。つまり、価値を前提として存在し始めるものではなく、その存在そのものが価値を内包して始まるのが人間の生というものであるに違いない。そうであるならば、常に問題の中心にあるのは「生きがい」ではなく、「生」そのものであると言える。[1]

  さらに、重要な論点として、「生きがい」という言葉が多くの場合「働きがい」という言葉を伴って現われ、この両者がほとんどイコールで結ばれていることを、黒井は指摘している。本来働きがいは生きがいの中に含まれているものであろうが、「生きがい」が「働きがい」として論じられるのは、「労働」が人間の生そのものに迫る問題だからである。「労働」が「生きがい」の中核をなす。今日特徴的に問題にされているのは、「生きがい」一般なのではなく、「働きがい」という名の「生きがい」なのだ。少なくとも、人間にとって労働とはなにか、という問いにかかわることなしに「生きがい」が論じられても、それは底の抜けた桶で水を汲むことでしかないようなところに僕らは立たされている。[2] 

  黒井の記述から、30年が経過しているが、「労働」が「生きがい論」の中核をなすことに変わりはないように思われる。労働それ自体にも、また企業への帰属によっても、労働の「意味」が見出せないならば、労働はあくまでも手段とし、個性や創造性といった「自己実現」は、他の領域に求めるほかない、といった考え方に私たちは導かれる。こうした傾向は、近年さらに強くなっているようだ。『現代日本人の意識構造[第五版]』によれば、仕事よりも余暇のなかに生きがいを求める、または仕事はさっさと片づけて、できるだけ余暇を楽しむ「余暇志向」は石油ショック後の78年の調査でいったん減少するが、その後は増加傾向にあり、平成不況が深刻化した98年調査でも、減少には至っていない。仕事にも余暇にも同じくらい力を入れる「仕事・余暇両立」は、93年調査まで毎回増加してきたが、こちらもこの5年間では現状維持といったところである。一方「仕事志向」は、93年調査までは減少していたが、98年調査ではその動きも止まっている。不況時には、「余暇志向」や「仕事・余暇両立」に減少や小休止が見られるが、それも大幅なものではないことから、余暇を重視する意識は人々の中にこの25年で浸透したといえるだろう。また、73年から83年調査では「仕事志向」が多数を占め、88年から98年調査では「余暇志向」と「仕事・余暇両立」が多数を占め、不況の影響を受けつつも、仕事重視から余暇も楽しむ考え方へ、または余暇に重点を置く考え方へと移っている。[3] 黒井は、こうした余暇と労働の関係について、自らの労働のなかに生きがいを見出すことができないから、無意識のうちに生きることについての興味と関心を労働の場から私的生活の場へとけだるい身振りで振り向けたいわば病床の寝返りにすぎないのではないか、と述べている。視線は白い壁から、小さな窓に移ったかもしれない。窓の外には緑の葉と四角く区切られた空さえ見えるかもしれない。しかし視点はベッドの上から決して動くことはできない。これは、悲劇のエネルギーさえ失った非・劇的なシーンなのかもしれない。しかし、「余暇志向」、黒井が言うところの「労働無関心層」(私的生活重点層)が増加している傾向の中に、「働きがい論」が出発せざるを得ない必然性を読み取ることができる。奇妙な表現になるが、「働きがい」の喪失に無意識のうちに最も深刻に困惑しているのは、この半数近くを占めるベッドの上の無関心層そのものであるだろう。無関心層自身にとって「働きがい」の喪失は、まさに自己の運命そのものにほかならぬ形でしか存在しない。逆に言えば「働きがい」の消滅に対する無意識的、本能的な自己防衛の姿勢が、労働に対する無関心という形で表現されていると見るべきなのかもしれない。私たちは働きがいがあろうがなかろうが基本的生活を維持し、さらに欲望を満たし楽しいことを享受して存続するためには働かざるを得ない。「働きがい」論議が意味あるものだとすれば労働無関心層そのものの内部から出発する以外に有効な道はないだろう、と黒井は述べている。[4] 

   この黒井が述べる、「働きがい」の喪失に困惑する層としては、企業定着率が低い若年層を捉えたい。近年はフリーターと呼ばれる定職に就かない人たちが増加している。フリーターについては、モラトリアムという視点で後述したいと思う。

 

***********

引用文献

[1] 黒井千次『仮構と日常』142-143頁、河出書房新社、1971年。

[2] 黒井、前掲書、143頁。

[3] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第五版]』148-149頁、日本放送出版協会、2000年。

[4] 黒井、前掲書、146-147頁。

 

この記事についてブログを書く
« 鎌倉のワクチン接種後死亡(50... | トップ | 根拠のない病院の面会制限は... »

卒業論文」カテゴリの最新記事