たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

安住の地を求めて・・・

2020年06月01日 20時59分08秒 | 日記
 ちょうど一か月前、5月1日付採用の「不合格通知」を受けとりました。緊急事態宣言が出されたことにより、面接試験にかわる小論文の課題を提出したとき、コロナの先が見えない今は辞退するけれど課題は提出しますとお手紙をつけて送ったのだから当然といえば当然。自分の論文がどう評価されたのか、5月1日以降採用された人がいたのか、実際のところはわかりません。遠すぎて身動きとれないもどかしさに涙がにじました。

 不安と闘いながら過ごしたこの一か月が長かったのか短かったのかわかりません。郷里近郊では居場所を見つけることができなかった自分は社会にとって不要不急の人間なのだと、30年間暮らしたところならコロナ禍でも求人は出ているので、車を運転しない自分はここではあまりにも無力すぎてどうしようもない、なぜ全部引き払って戻ってきてしまったのかと自分を責めはじめると、不安と絶望がつきあげてきてなんどもなんども声をあげて泣きました。これから訪れる未来への不安にとりつかれた状態では、これから先どうすればいいのか冷静に考えることはできませんでした。首都圏の巨大都市に比して人口200倍少ない郷里、みんなが車で乗り付けるイオンモールの中だけ、給付金早かったし、地震が起きているし、コロナのリスクは巨大都市に比してはるかに低いので今はここにとどまってもう少し成り行きを見守るのが安全なのかなという迷いがありましたが、とどまることは許されない、近々に安住の地を求めて旅立っていかなければならないのだとわかりました。

 郷里県下の緊張事態宣言が解除されてから、戻りたいと思っている県下の公営住宅への申し込み資格を調べたり、メモ帳を整理しながら棚卸しなどしていました。ハロワにいかねばと登録だけようやくしたり、はじめて誕生日月の3月に届いた年金定期便なるものをまともに見たりしていました。保証人と勤務先がなくても借りられる部屋はあるのかと今日問い合わせの電話をしていました。そしたら弟から今月中に引っ越すようとのライン。締切が早すぎるよ~と悲鳴が出ますがタイミングなのかもしれません。これ以上ここにいてはいけないのだというプレッシャーの中での自粛生活は昨晩気がつけば胃の痛みがとまらなくなっていました。遺品と自分の荷物がもう少し気になるので秋までには思いながら問い合わせしましたが、ここで生きていくことはできないという確信にかわりはないので早い方がよさそうです。昔の公団住宅から一年分の家賃を前払いすれば保証人も勤務先もなしに借りることができるとわかりました。30年間暮らした沿線沿いは高いといわれているとおりやっぱり高いのですが少し路線をそれると便利で家賃は自分が払ってきたぐらいの物件あり。かつて暮らしたことのある場所に近くて駅から坂を歩きますがターミナル駅までバスがたくさん走っているので不便はありません。懐かしい場所に近いところ。戻る住所地が決まれば対人援助職に応募することができます。今は遠すぎて、募集開始から就労開始までの期間が短すぎてどうにもなりません。自分の1年半の実績がどうなのかわかりませんが人口密度が高い分、選択肢はあります。車を運転しない自分には公共交通機関が整備されている所で歩いて暮らす生活があっています。郷里は無理すぎる、家が建っているところは場所が悪すぎます。宝塚大劇場には遠くなってしまいます。それだけが心残り。大好きな日比谷にはまた近くなります。新幹線に乗らずともチケットさえ手に入ればまた帝国劇場で観劇できます。いろいろな意味で馴染めなさすぎて苦しみ抜くこととなった帰省。妹が亡くなる前医者から家を出ることを勧められていた事実を昨年2月同級生からきいて知りました。その事実をどう自分の中に落としこめばいいのかわからないです。ただこれ以上家にいてはいけないという事実、肉親との距離は大切だという事実、親がいなくなれば兄弟は他人なのだとわかった事実、これから第三の人生を生きていく、このままではなにも動かないので安住の地を求めてそろそろと動きだしていかなければならないという事実。生きていくことはきびしいですが命さえあれば楽しいこともたくさんある未来が待っていると信じるしかないです。自分はなにものなのか、切羽詰まったまま考えこんでしまうとつらくなってしまいます。考えることは大切なのかもしれませんが考えないこともまた大切な時もあるのかもしれません。
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