たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『たんぽぽのお酒』より

2022年07月04日 20時11分36秒 | 本あれこれ


「トムはその慄(ふる)えを感じた・・・なぜだろう?だってお母さんはぼくなんかより大きくて、強くて、もっと利口ではないのか? お母さんもまた、あの不可解な脅威、あの暗闇の模索、あの底にうずくまる悪意を感じているのだろうか? それでは、成長することのなかに強さはないのであろうか? おとなになることに慰めは求められないのであろうか? 人生に安全な聖域はないのか? 真夜中が引っかくように襲ってくるとき、それに耐えうる強い肉体の砦はないのか? 疑いが彼を興奮させた。アイスクリームの感覚が咽喉、胃、背骨、手足にまたまたよみがえった。過ぎ去った12月のときの風のように、彼はたちまち冷たくなった。

 彼はすべての人間がこのようなものであることを悟った。ひとりひとりの人間は彼自身にたいしたとき孤立した一個のものであること。一つのまとまり、社会の構成単位、しかしたえずおそれている。ここでこうしているように、つったって。もし悲鳴をあげれば、もし助けを求めて叫べば、それがなにかになるであろうか。

 暗黒はあっというまに訪れて、のみつくすかもしれないのだ。ものすごい凍りつくような一瞬ののちには、すべてが終わっていることだろう。夜明けの訪れるはるかまえに、懐中電灯をもって警察が闇をさぐるはるか以前に、人びとが頭を心配でびくつかせながらもガサガサと小石を踏んで救助に降りていけるようになるずっと以前に。たとえ人びとがいま500ヤード以内にいたとしても、そして救援が確実であったとしても、三秒後には黒い潮が高まって、彼から10年の歳月を残らず奪いさり、そしてー

 人生の孤独の本質的な衝撃が、いまおののきはじめた彼のからだを押しつぶした。お母さんもまた孤立していた。結婚の侵すべからざる尊厳も、家族の愛情という保護も当てにできず、合衆国憲法や、市警察も頼れず、まさにいまこの瞬間にあっては、むかうべきものは、ただおのがこころをのぞきこむだけ。そしてそこに見いだすものはどうにもならない矛盾であり、不安への意志にほかならないのだ。この瞬間にあっては、それは個人個人で解決をはかるべき個人個人の問題なのである。孤独であることを受けいれ、そこから先に進まなければならないのだ。

 彼は大きく息を吸って、母にしがみついた。ああ、神さま、お母さんを死なせないでください、お願いします、と彼はこころに念じた。ぼくたちになにもなさらないでください。一時間もすればお父さんが支部の集まりから帰ってくるでしょうし、家がからっぽになっていたりしたらー

 お母さんは小径(こみち)を下って太古の密林のなかへと歩みだした。彼の声は慄(ふる)えていた。「ママ、ダグはだいじょうぶだよ。ダグはだいじょうぶだよ。だいじょうぶさ。ダグはだいじょうぶだったら!」

 お母さんの声は緊張していて、鋭かった。「あの子はいつもここを通ってくる。いけないといっているのに、あのしょうもない子どもたちったら、あの子たちはどうしてもここを通るんだわ。いつかの夜にあの子がここを通って、二度と姿を見せないことがー」

 二度と見せない。これからはどんなことでも考えられるのだ。渡り者。犯罪者。暗闇。事故。なかでも-死!

 宇宙のなかにたったひとりだ。

 世界じゅうにここと同じような小さな町が無数に存在している。その一つ一つがどれも同じように暗く、同じように孤独で、どれも同じように疎遠で、同じようにおののきと驚異に満ちているのだ。短調のヴァイオリンのか細い調べが小さな町の音楽であり、光はなくて、影が多い。ああ、これらの町々にみなぎり盛りあがる寂寥(せきりょう)感。これらの町々にある秘密の湿っぽい峡谷。人生とはそれらの峡谷で夜に過ごされる恐怖のことであり、このときあらゆるところで、正気、結婚、子どもたち、幸福などは、〈死〉と呼ばれる人喰い鬼におびやかされるのだ。」

(レイ・ブラッドベリ著、北山克彦訳、『たんぽぽのお酒』晶文社、1997年8月5日初版、1999年1月10日二刷、67-70頁より)
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