たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

来週また診察を受けることになりました

2021年07月10日 15時19分08秒 | 日記
 6月24日に変形性膝関節症と診断されてから、理学療法士によるリハビリ4回、自分の感覚では順調にいっていると思います。生まれた時すでにそうだったのか、歩き始めた頃だったのか、母はすでにこの世におらず、まだこの世の人であったとしても統合失調症で母子手帳などまだあるのかないのか、通院していた時医師から娘に将来起こりうるリスクについてなにか説明はあったのか、まだそんな症例はなかったですかね、わかりませんが知りたいと思っても最早知る術はありません。わたしが乳幼児から発症していたというエビデンスはどこにもありません。おぼろげな記憶だけです。

 いつ頃からかわかりませんんが右の股関節が正常にはまらないまま生きてきていることにより、すでに骨がすり減って右足の方が左足よりも1.5センチから2センチ短くなってしまっていることがわかりました。厚労省のチラシには三段階の最後とされえいる状態です。気持ちがはりつめていたときには痛みを痛みと感じることもないまま無理をかさねてきたことを自覚。右足からどたっと踏み出して斜めになりながら歩き続けてきました。2月か3月ごろには朝バス停まで急ぎに急ぐ時右足が動かなくなっていました。気力で歩いて時間通りバス停にたどり着いていました。そうとう体は斜めっていたはず。面接会場でも斜めっていたわけで全身みられていたわけだから、そりゃ通るはすないと納得できました。体がこうでなければ通っていたかもしれません。すでに診断を受けていて、なにか配慮することはありますかとたずねられたときに言えればよかったのかもしれません。ここまで自分がガタガタのポンコツになっているという自覚がありませんでした。

 リハビリにより右と左で足腰の感覚が違っていることを自覚、いかに無理をしてきたかを自覚、毎日やってきているストレッチに加えて筋肉をつける体操をいくつか。ここ4年ほどはマッサージや整体に行くことがなく、ヨガやピラティスも全くやっておらす、体幹を正常に戻す機会をつくっていませんでした。それで帰省したとき30年ぶりの自転車でかなり痛みがきてしまいました。それでもどこに治療にいけばいいのかわからずそのままにしてしまいました。おそらく3年前の今頃訪問でものすごい坂を1時間、2時間、3時間と歩き続けたことも相当きつかったはずです。この街に戻ってきてから通勤時間一時間越えの、夜あまり眠れず環境よくなくて心身共にきつかった7か月間もこの足腰に相当こたえたでしょう。

 それでも自分を食わせていくためにこの先も無理をしなければなりません。手術はできない、やりたくないという気持ちはもう固まっています。年齢的にまだ早い、60歳過ぎてから受けた方がいいとなっても病院が担保したい、全身麻酔から覚めなかった時の緊急連絡先がわたしにはありません。年金定期便に記載されている65歳からの見込み額は団塊の世代が後期高齢者になっていくことで、今後介護保険料の天引き見込みがさらに上がっていくでしょうから万円単位で減りづづけていくことは必須、受給開始前になくなってしまいそうです、なくならなくてもわずかなもので、それだけで生活していくことは到底できません。70歳から受給開始したら40パーセントマシマシになるという厚労省の脅しにはのらない。どのみち死ぬまで働き続けていくしかないです。だから手術はできない。

 整形外科とずっとつきあっていかなければならにということになります。気難しいおばあさんで申し訳ない気持ちですが、手術はできない自分の状況を話さなければならないのはすごくミジメでいやだなあと思います。昔父に言われたこと、お前はむずかしいからいやだって。あなたの娘なんだから仕方ないじゃんって心の中でつぶやきました。

 リハビリによって、カフェやバスの椅子から立ち上がるとき痛みが走っていたのは軽くなってきました。右足の動きが少しばかりよくなり、靴に100均で買った中底を入れることで歩くとき左右の高さが違うことは改善。体操を続けるし、筋肉が落ちては困るので外に出て歩きます。診断で今後の方向性の見立てによりまたお仕事さがしもしなければなりません。のんびりまったりスローライフ人生はありえない。リハビリと体操でどこまで日常生活を維持していくことができるのでしょうか、こんなポンコツを使ってくれるところがあるのでしょうか。

 長々と自分語りの弱音ブログでした。

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