1995年6月2日から28日まで旧東京宝塚劇場で上演されました。宝塚大劇場公演は、1月17日5時46分に発生した阪神淡路大震災により中止となった作品でした。『ハードボイルドエッグ』は作・演出、正塚晴彦先生。ショー『EXOTICA!』は作・演出、酒井澄夫先生。天海祐希さんと麻乃佳世ちゃんの手錠をかけたデュエットダンス、オンデマンド配信で視聴したまあ様(朝夏まなと)さんの番組で、れーれ(蘭乃はなちゃんの双子の妹、すみれ乃麗ちゃん)と再現している映像をみて久しぶりに思い出しました。
公演プログラムより、正塚先生のことば。25年前の先生の写真、さすがにお若いです。
「ありふれた日常?
その昔、私が演劇なるものをかじり始めた頃、芝居なんてのはたとえ世の中からなくなっても、一番人が困らないようなものなんだと聞かされた記憶があります。先ごろの、阪神大震災の折り、その言葉を思い出しました。それからはや5ヶ月あまり、この間にほんとうにいろいろなことが起こりましたね。驚きはあの地震だけに留まらなかった。現実は作家の想像力をはるかに越えたすご味と不可思議を伴って迫ってきます。今、私は街を歩いていても以前とはどこか違った感じがします。一見何も変わっていない日常の中に僅かな違和感がある。少し大げさにいえばなにか心許なく自信が持てず、なかなか己の感覚に没頭できない。この感じは多かれ少なかれみなさんもお持ちではないのでしょうか。そういう状態では劇場に出かけて行こうという気にはああまりならないかもしれない。なるほど昔私が聞いたあの言葉の真の意味はそういうことだったかと思うわけです。
さて脚本の第一稿は1月3日に書きあがりました。いつもならそのままの勢いで初日まで突っ走ってしまうのですが今回はそうもいきません。一度作品の世界から一度離れたせいなのでしょうか。どこか冷静で、作業を続けていく上で少しつらい部分があったりもします。普段のペースなら見えなかったところまで見えてしまったり、自分の書いたものが当時ほど面白く思えなかったりするのです。恐らくその理由は、私としてはこれまでとはちょっと違ったものを書いたつもりがあるからでしょう。主人公に差し迫った危機があるわけでもないし、なにかに向かって戦いを挑んでゆくといったこともありません。ありふれた人々の一見何の変哲もない日常、それが物語の背骨です。成否の鍵は何でもない会話と会話の間に、どれだけ人々の様々な思いが滲み出てくるかです。これは宝塚としては結構やりにくいことの一つかもしれません。けれどこの数カ月をみてもわかるように、日常というものはさらさら流れているようでいて、思いがけないドラマを内包しているものです。それをどう感じるかは事の大小に関わらず誰の身の上に起こるかにかかっています。こういったことを状況の設定に依りかからずに描いてみたらどうなるか、これが今回の私の興味です。そしてもしこの演し物がうまくいったら、私にとって今後書いてゆく上でまた新しいエリアができるような気がするのです。
ですから今にして思えば、ここしばらくの間に体験したり見聞きしたことやその上で少し変化した生活感情は、この作品の稽古をするにあたってプラスかも知れません。それに先ほど申し上げた一種の辛さもそうなるはずだと考えています。そして与えられた条件の中でできる限り諸々の不都合を解決しようと、思えばたかだた1リッターか2リッターしかない頭を、現在悩ませているところです。
なんとかいい結果が出てほしいと思います。勿論それを願わない作者はいないでしょうが、今はとりわけ、変わらず劇場に足を運んでくださる皆様に少しでも楽しんでいただきたいですから。」
正塚先生に新作をというのはもうきびしいかもしれませんが、今ならどんなメッセージを託した作品を送り出してくれるでしょうか。稽古場で生徒さんたちにどんな言葉をかけられるでしょうか。先生自身が永遠のロマンティストだと感じます。座付き作家はみなさんたぶんそれぞれにロマンティスト。そうでなければ夢と希望をのせた世界を創り上げることはできないですね。
オンデマンド配信で視聴している『追憶のバルセロナ』のナウオンでキキちゃん、正塚先生の演出は初めて、かねがね素敵だっていううわさはきいていた、やさしくてそれぞれを認めてくれる、やりやすい。真風さん、星組時代にけっこうある、音楽学校でならったので安心感があると。文字起こし、期限がくるまでにやれるといいかな。サパもまだもう少し残しておきたい。
公演プログラムより、正塚先生のことば。25年前の先生の写真、さすがにお若いです。
「ありふれた日常?
その昔、私が演劇なるものをかじり始めた頃、芝居なんてのはたとえ世の中からなくなっても、一番人が困らないようなものなんだと聞かされた記憶があります。先ごろの、阪神大震災の折り、その言葉を思い出しました。それからはや5ヶ月あまり、この間にほんとうにいろいろなことが起こりましたね。驚きはあの地震だけに留まらなかった。現実は作家の想像力をはるかに越えたすご味と不可思議を伴って迫ってきます。今、私は街を歩いていても以前とはどこか違った感じがします。一見何も変わっていない日常の中に僅かな違和感がある。少し大げさにいえばなにか心許なく自信が持てず、なかなか己の感覚に没頭できない。この感じは多かれ少なかれみなさんもお持ちではないのでしょうか。そういう状態では劇場に出かけて行こうという気にはああまりならないかもしれない。なるほど昔私が聞いたあの言葉の真の意味はそういうことだったかと思うわけです。
さて脚本の第一稿は1月3日に書きあがりました。いつもならそのままの勢いで初日まで突っ走ってしまうのですが今回はそうもいきません。一度作品の世界から一度離れたせいなのでしょうか。どこか冷静で、作業を続けていく上で少しつらい部分があったりもします。普段のペースなら見えなかったところまで見えてしまったり、自分の書いたものが当時ほど面白く思えなかったりするのです。恐らくその理由は、私としてはこれまでとはちょっと違ったものを書いたつもりがあるからでしょう。主人公に差し迫った危機があるわけでもないし、なにかに向かって戦いを挑んでゆくといったこともありません。ありふれた人々の一見何の変哲もない日常、それが物語の背骨です。成否の鍵は何でもない会話と会話の間に、どれだけ人々の様々な思いが滲み出てくるかです。これは宝塚としては結構やりにくいことの一つかもしれません。けれどこの数カ月をみてもわかるように、日常というものはさらさら流れているようでいて、思いがけないドラマを内包しているものです。それをどう感じるかは事の大小に関わらず誰の身の上に起こるかにかかっています。こういったことを状況の設定に依りかからずに描いてみたらどうなるか、これが今回の私の興味です。そしてもしこの演し物がうまくいったら、私にとって今後書いてゆく上でまた新しいエリアができるような気がするのです。
ですから今にして思えば、ここしばらくの間に体験したり見聞きしたことやその上で少し変化した生活感情は、この作品の稽古をするにあたってプラスかも知れません。それに先ほど申し上げた一種の辛さもそうなるはずだと考えています。そして与えられた条件の中でできる限り諸々の不都合を解決しようと、思えばたかだた1リッターか2リッターしかない頭を、現在悩ませているところです。
なんとかいい結果が出てほしいと思います。勿論それを願わない作者はいないでしょうが、今はとりわけ、変わらず劇場に足を運んでくださる皆様に少しでも楽しんでいただきたいですから。」
正塚先生に新作をというのはもうきびしいかもしれませんが、今ならどんなメッセージを託した作品を送り出してくれるでしょうか。稽古場で生徒さんたちにどんな言葉をかけられるでしょうか。先生自身が永遠のロマンティストだと感じます。座付き作家はみなさんたぶんそれぞれにロマンティスト。そうでなければ夢と希望をのせた世界を創り上げることはできないですね。
オンデマンド配信で視聴している『追憶のバルセロナ』のナウオンでキキちゃん、正塚先生の演出は初めて、かねがね素敵だっていううわさはきいていた、やさしくてそれぞれを認めてくれる、やりやすい。真風さん、星組時代にけっこうある、音楽学校でならったので安心感があると。文字起こし、期限がくるまでにやれるといいかな。サパもまだもう少し残しておきたい。