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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

少しずつ、秋の足音が・・・

2016年10月02日 22時42分15秒 | 日記
 今日は久しぶりの青空。暑くなりましたね。ずっと洗いたかったクッションと敷物を一枚洗濯&ベランダの鉢植えの残骸をひとつようやくごみに出して少しすっきり。まだまだ断捨離は続いていきます。少しずつ、少しずつ・・・。

 二連休は相変わらずのひきこもりでした。先週があまりにも長くてようやく休んだ気になりました。今週また土曜出勤。幸いなことに来週の月曜が祝日なのでまた二連休になります。ほっとしていますが、今週をクリアできたとしても土曜出勤はまだ5回も残ることになります。今週のお昼休憩は13時30分からが4回もあるし、ぞっとします。長い、あー長い、ほんとに長い。やれるところまでやれればそれでいいです。いろいろと勉強にはなりますが、そこまで無理してやるほどのことでもない・・・。明日は正直ベースで話せる女性が土曜休みで不在。オバチャンたちがひしめきあうせまいところにきついなあ。心の底から行きたくない。前職のカイシャにもこうやって心の底から行きたくたいと思う夜を過ごしながら何年も行き続けてしまいました。こんな夜がどれほどあったのか。働くとはなんなのか・・・。

 昨夜夢の中に、前職のカイシャで一緒だったY君が登場してしまいました。たぶん明け方にかけてわりと長く夢をみていたような気がします。わたしのなかに区切りのついていないものが残っているっていうことなのか・・・。10年余り前彼が某有名私立大学の大学院を卒業して新入社員でカイシャに入って来た頃席がお隣どおしでした。当時のK部長を背中にするような席割で彼が海外出張で何か月も不在になると精神的にかなり辛い席割でした。彼が一か月、三か月と海外出張が決まってしまうとなんともさみしいような心細いような気持ちになりました。海外出張から帰国して出社してきても、K部長のストレスのはけ口となり、またわけのわからないアルバイトと二人だけで留守番しなければならなかったわたしは疲れ果ててしまっていて笑顔で「おかえりなさい」と言うことができませんでした。なにも言わないわたしの隣の席に、出社してくると静かに座ってくれて、わたしから声をかけるまでなにもいいませんでした。彼はわたしが二人分の仕事量をこなしていて大変だということもわかっていました。彼だけではなく部署の中でわかっている人はみんなわかっていたんですけどね、とにかく3年ぐらいかな、席がお隣さんだったので苦労を分かち合っているというような思いがわたしのなかにはありました。彼はわたしをモノ扱いしたM部長といつの間にか仲良しで、3年前の4月、部長に昇進したばかりのM氏がわたしをやめさせるために社員の募集をかけていたこと、でも応募はほとんどなかったこと、結局ハケンを探し続けていることを知っていました。わたしがモノ扱いの使い捨てにされようとしていると認識できていたかどうかはわかりませんがM氏がわたしをやめさせようとしていることを知っていました。
でも同時にいろいろと業務上の困ったことで相談すると、「たんぽぽさんがわかっていればいいことなんですから・・・」と、相変わらずわたしを頼りに、わたしがその後もカイシャに勤め続けることを前提としなければ成り立たないようなことも言っていました。ちょっとずれたところのある変わった人なのでよくわかりませんが、M氏がわたしの交替を探していることを知りながら、わたしをあてにし続けようとしていたということになります。彼はいつM氏がわたしの交替を探していることを知ったのか・・・。もう二度と会うことはありませんが、もし会うことがあればきいてみたいものです。いつ、なにを知ったのか。さんざんわたしをあてにして頼りにしながら使い捨てにされようとしていることをどの程度知っていたのか。哀しいもんですね、カイシャって。個人の人生を踏みつけにしなければ生き残っていけないようなカイシャなんて要らないと思います。組合と相談して和解内容にメールでみなさんに挨拶することを認めてほしいという内容も入れようとしましたが弱い者いじめにかけては腕利きの弁護士が出てきて踏みつけにされました。13年働いたカイシャ、仲間にお別れの挨拶をする機会も何もかも弁護士に踏みつけにされたまた、カイシャになんの責任もないよって放り出されたわたしは、自分を責めなんどもなんども涙を流し、今もまだこうしてきっちりと区切りをつけることができないままひきずっています。アホじゃね、全く。彼もそろそろ30代後半、40歳の頃が聞こえてくるころ。結婚したじゃろうかね。どうでもいいですが・・・。


 先週平方さんのツィッターに清史郎君が久しぶりに登場したのをみて2012年エリザが懐かしくなり、平方さんのブログを読み返していました。2012年6月26日付の記事に、ハニカミスーパースマイルの清史郎君と平方さんのツーショットのお写真。懐かしい。

http://ameblo.jp/hirakata-genki/


 この頃大野さんと岡田さんのブログにもたびたび清史郎君が登場していました。また別の日にたどってみよっと!!

第三章_日本的経営と女性労働_①戦前の家制度と女性労働

2016年10月02日 16時42分45秒 | 卒業論文
第三章日本的経営と女性労働 その歴史の概観

 第2章でみたような「日本的経営システム」といわれる企業と従業員との関係は、戦後に形成された。企業と従業員との関係は、歴史と共に変化していく。歴史的視点なくして現在の女性労働者の置かれている状況を説明することはできない。

 1955年から60年頃にかけて、戦後の大企業体制が確立する。この頃に、終身雇用、年功序列賃金、企業別組合が確立していったのは、第2章でみたとおりである。「日本的経営システム」といわれる企業と従業員との関係が、その後の日本経済を支えた。
大企業体制は、1970年代の二度にわたる石油危機を会社本位主義で克服した。労使協調路線を維持し強化したのである。その後会社本位主義はますます強まった。その結果が80年代のバブル経済を生み、その中で過労死や単身赴任、サービス残業などが社会問題になり、「会社人間」への批判も強まっていった。そして90年代初めに始まった平成不況は事情が異なる。さらに会社本位主義は揺らぎ、「日本的経営」は内外から批判にさらされ、もはやそれを維持することが難しくなってきているのである。

 こうした流れの中で、女性雇用労働者と企業との関係はどのように変化してきているのだろうか。この章では、法の制定を軸にその歴史的変化を概観したい。


①戦前の家制度と女性労働

 まず、日本に資本主義が確立した時期の女性労働者の位置づけをざっと概観したい。

 周知のように日本は約260年の徳川幕府の鎖国政策の後の外圧によって開国を強要され、明治維新(1867年)を迎えることになった。長い鎖国の太平の眠りの中にあった日本にとってまずやらなければならないことは近代国家の体制をつくることであった。産業革命を経てすでに工業化の道を歩んでいた欧米に遅れをとった日本の明治政府のスタートは日本に資本主義を根づかせることであった。技術も人材も欧米から借用して、日本の資本主義経済はスタートした。すぐに造船や鉄道といった重工業化政策をとるには、熟練工という人材も、また資金も資本設備もなかった。そこでまず軽工業として製糸・紡績工業から殖産興業を手がけた。明治政府の殖産興業政策によって、日本は農業国から軽工業国へと脱皮したが、それは紡織産業の発展に負うところが大きかった。この資本主義のスタート時期に大きく貢献したのは、女工である。日本の女性の本格的な賃労働者化は、紡織産業の勃興に伴う製糸・紡績女工の出現に始まった。若年未婚の女工は昭和初期まで紡織産業の中核的労働力であった。

 当時の紡織産業はマニュファクチュア(器械製糸)か問屋制家内工業(織物業)が中心であった。このような機械化の遅れが工場規模の零細と労働者の少数分散をもたらし、また労働者の階級としての組織的抵抗を困難にした。機械化の遅れはさらに、生産の拡大や品質の向上を女性労働者の手工的熟練に依存することになり、女工の強権的労務管理ももたらす要因ともなった。

 当時の女性労務管理の特質として、低賃金と劣悪な労働条件があげられる。女工は、当時の中核的労働力であったにもかかわらず、賃金は男性に比して著しく低く、たとえば、紡績の場合、1891年で、男性100:女性38である。1901年でも100:37に過ぎない。この低賃金を可能にしたのが、「女工の出身階層であった農民の生活水準がそもそも低かった」ことであり、この農民の生活水準が農業日雇い賃金額を規制し、それがさらに、職工の賃金水準をも規制していったのである。1)  紡織産業の急速な発展は女工の需要を急増させた。その結果、明治20年代(1880年代)を境に、地元の農家子女よりなる通勤工から、「募集人」を通じて遠隔地より集められる寄宿女工中心に変化していった。熟練女工の大量確保のために、例えば諏訪地方の有力製糸家の例では「手付金」と称する前借金を媒介に、雇用契約を父親と工場主との間で結ばせた。この大金が当時の寄生地主制の下で高率小作料にあえぎ貧しい生活を強いられていた農家にとっては無視できない大きな収入であったことが推測される。大金の前借金を積まれて、家計の補助のために農家の若い女性たちは出稼ぎにいったのである。

 労働時間は、紡績業の場合、1883年(明治16年)から昼夜二交替の深夜業が開始され、昼業部が午前6時から午後6時、夜業部が午後6時から午前6時までが一般的である。その間の休憩時間は、わずかな食事時間と休憩時間があるのみで、しかも、2-3時間の居残り就業は通常のことであった。さらに、繁忙期には6時間の居残りや早出が行われ、また、もし夜業職工が欠勤すれば昼業職工がそのまま居残らされるなど、労働時間は延長されることが多かった。製糸業では深夜業はなかったが、労働時間は日の出から夜間に及び、長野、山梨、岐阜、群馬等の諸地方では、13-4時間は下らず、長い時は17-8時間に達した。 2)

 こうした低賃金と劣悪な労働条件に対し、女工たちの抵抗は、逃亡や散発的なストなど個人的かつ消極的なものにとどまった。少数分散の小規模工場間では、組織的な抵抗は不可能だったのである。強権的労務管理に対し、女工たちは改善する術をもたなかった。その要因として考えられるのが、当時の女性観とそれに規制された女工の意識である。明治維新以来欧米の近代思想が流入し、明治の前半期は、開明的欧化主義時代であったが、1898年(明治31年)に公布された明治民法典が流れを逆転させた。庶民の慣習を切り捨てた旧武士出身の官僚は天皇制を支える基盤としての家庭を、かつて支配階級であった旧武士階級の家庭秩序に従ってつくったので、伝統的な家父長制家族制度が再編された。戸主の家族統率支配権や男尊女卑思想・男女不同権が近代化をめざす明治政府により法的に容認されたのである。それまでは、当時日本の80%を占めていた農民層では女性は家業と家事の両方を負担し、一人前の働き手として家業における決定権や家の財布権を握った女性も少なくなかった。女性の労働は欠くことのできない役割、そして男性の労働と同等の役割を担っていた。家族の成員それぞれが相互に置き換えることのできない持分をもっていた。女性が相続権を受け継ぐ「姉家督」の習慣もあったほどである。ところが、明治民法によって家父長制の下で、女性の役割は嫁として家に入り、男の子を産み育て、その家を存続させることが重要な仕事とされ、農民層においては、若年未婚期には家計補助的出稼ぎ労働者となった。当時の貧農出身の女工は義務教育を欠くなど無教育の者が多く、欧米の近代思想に触れる機会もなく、こうした女性の位置づけに何の疑問もさしはさまなかったとしても不思議ではなかったと考えられる。さらに当時労働運動は黎明期にあり、一部の男子熟練労働者の間で職業別組合が結成されたに留まり、女工にとって労働組合は縁遠いものであった。

 以上のような要因から、明治期を通して女性労働者の存在形態は、低賃金と長時間労働、人権無視の労務管理と、非衛生的な労働環境など、1911年に工場法が成立するまで企業はほとんど何の規制も受けず、女性労働力を駆使して利潤の追求を続けることができた。日本の産業社会は、若年、未婚で、貧農の家計を補助しなければならない女性労働者を、家父長制、地主制の下にからめとり、実に巧みに活用することに成功したのである。

 紡織産業は、生糸を中心とした繊維製品をアメリカや中国に輸出し、その拡大をてこに発展した。そして、この輸出が綿花・鉄・機械類の生産手段と砂糖・米などの食料の輸入をまかなうという貿易構造を形成していた。紡織産業は、外貨獲得のための産業だったのである。獲得した外貨で重工業化のための資材を購入し、国内に重工業化をもたらすという明治政府の殖産興業政策によって、やがて重化学工業化が進展していく。この過程で、労働者の主役は資本主義のスタート時に活躍した女性労働者から、重工業で特に熟練を要求される男性労働者に移っていった。日本の産業社会は、熟練の男工を企業内に定着させる必要があり、第2章で見たような日本的労使関係が成立していった。では、この重工業化の時代に女性労働者は不要であったかといえばそうではない。篠塚英子が当時の新聞記者横山源之助(1871-1915年)の『日本の下層社会』(1898年)から引用して述べているところによれば、女子向き工業として紡績工場には女工が7割を超えていた(1891年)のは当然として、男子向きの鉄鋼業においても女工の割合が6割を占めていた。鉄工場においても女工の方が男工よりも多かったのは、男工が熟練工であるのに対し、女工は補助的な未熟練工として大量に求められたからである。 3)

 第一次世界大戦がもたらした経済の高度成長により日本の大企業体制は確立した。労働市場において男性労働力が主流となる一方で、女性労働者の出身階層は多様化し、1921年(大正10) には女学校出身者でも5%が就職している。 4) ごく一部ではあるが、新たに自由な意識と選択の可能性をもった職業婦人グループが進出し始めたのである。中・高学歴を身につけ専門職者として登場した彼女たちは、初めて自らの選択によって働く権利を自覚しつつある女性でもあった。しかし、こうしたごく一部の女性をも含めて、女性労働者は戦争体制の中に組み入れられていく。

 戦時国家独占資本主義のもとでは、女性に対しては、大量の男性労働力の戦時動員と日本経済の破綻を「銃後」で支え、「家族制度の強化」の基盤としての家庭を守り、人的資源供給者として早婚と多産が求められた。一方で徴兵による男性の労働力不足と、軍需産業の急激な発展による男性労働力需要の拡大の落差を埋める代替労働力として、女性労働力への需要が増加していった。こうした二つの相矛盾する政策の中で日本政府は揺れ動き、300万人を越える女性労働市場を形成せざるを得なかった。 5) そして、戦争体制下で家庭の主婦や20歳以下でも結婚していれば徴用を免れていたのが、敗戦間際の1944年には女性労働者が未既婚にかかわらず根こそぎ動員されたのである。



引用文献

1) 藤井治枝『日本型企業社会と女性労働』5頁、ミネルヴァ書房、1995年。

2)竹中恵美子編『新女子労働論』39-40頁、有斐閣選書、1991年。

3)篠塚英子『女性が働く社会』30頁、勁草書房、1995年。

4)竹中恵美子、前掲書、52頁。

5)藤井治枝、前掲書、319頁。