医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

司馬江漢の美挙5

2007年04月10日 08時02分31秒 | Weblog
 本来芸術においては、大切なことはオリジナリティ、いかに他人と違って、個性をキワ立たせるかが大切です。

 そのキワ立った「かぶき者」の個性に対し、僕たち平凡な庶民はお金を払ってでも鑑賞したい、という欲求が生まれるからです。

 どんなにきれいで正統派の絵を描いても、しょせんだれかの真似で、もし作者の個性がなければ、プロとはいえないものです。

 このことは音楽でも言え、以前から申しているように、例えばヴォーカリストやギタリストなら、僕たちが街角で流れるBGMを耳にしただけでも、すぐに、あ、これはだれそれのサウンドだ、と識別できる個性が大切です。

 したがって、芸術家なんてものは(といったら芸術家に失礼は承知の上)、当たり前じゃ困るわけで、聞き分けのよい、庶民的で優等生ではまったくつまらなく、生き方も性格も破廉恥で破天荒で奇人・変人であってしかるべき、だからこその芸術家のわけというのが持論です。

 カラヴァッジョもゴッホも、アマデウス・モーツァルトも岡本太郎も、ジョン・ライドンもしかりなわけです。

 ところが一見、西洋のモノマネの司馬江漢という人物の場合・・・。



 時代はなんと言っても「鎖国中の江戸時代」だったわけですから。

 実は司馬江漢は、あまり日本では有名ではないかもしれません。

 僕は美術の専門家ではありませんから、玄人の評価がどうなのかも分かりません・・・。

 でも美術芸術ってやつは、好きか嫌いかで評価が分かれ、どれだけそれを他人が欲するかで価値が変わるものであり、本来作品に順列がつくのもおかしな話しだし、批評家よりも案外大衆のほうが審美眼を持っているものかもしれません。

司馬江漢の美挙4

2007年04月09日 10時41分35秒 | Weblog
 ゴルフの最大のイベント、マスターズが終わりました。

 途中タイガーがパー5でイーグルを奪ったときには、タイガーの新たなる伝説の序章かと思いましたが、あのタイガーでも負けるものなのですね。

 グーセンとサバティーニも、途中流れがかなり来てましたけどね・・・



 さてエッチングというのは、版画のうちの凹版画(浮世絵などの木版画は凸版画)のことです。

 中学生のときに、銅板にニードルでぎーぎー描きましたでしょ?

 あれは直説法。

 エッチングは蝋などでコーティングした銅版に、ニードルなどで傷をつけ、コーティングの取れた部分を酸などの薬剤で腐食させて凹部とする、いわば間接法を指し、あの巨匠レンブラントが好んで用いたとされております。

 「銅版天狗」には、杉田玄白の解体新書についてだとか、どうして江漢が銅版画の道に没入したかが詳しく載っております。

 結局のところ、江漢は何か人がやっていないことでという、功名心からエッチングにこだわったようです。

 「銅版天狗」では、江漢は杉田玄白と前野良沢の弟子、大槻玄沢(おおつきげんたく)に手伝ってもらって、ついに桂川家の森島中良宅の蔵書からフランス語の辞典を探し、腐食銅版画を作ることに成功したと書いてあります。

 エッチングをはじめ、江漢は一般には日本における洋風画の先駆者という位置づけです。

 めがね絵っていう、西洋風の見せ方にもにこだわっていたようです。

 先駆者ではありますが、「洋風」画ということは、オリジナルではなく、しょせんモノマネです。

司馬江漢の美挙3

2007年04月08日 09時45分09秒 | Weblog
 ただし源内の有名なエレキテルは、残念なことに源内のオリジナルの発明ではなく、オランダ製のものを復元しただけのようですし、電球開発の一歩手前までいったとのうわさもありますが眉唾だし、源内が電気学を理解していたのかな??

 「銅版天狗」によれば、江漢の師、源内も江漢同様に大言壮語の山師であったようです。

 やはり弟子は師を見て育つので、似てしまうか、反面教師とするか、どちらかなのでしょう・・・。

 その源内の晩年に関しては、人を殺してしまっただとか、なぜかかなりあやふやであり、史実でも確定されていない点ですが、そこが不思議でもあり、そこらへんが「銅版天狗」でも大きなテーマになっております。

 「銅版天狗」は残念ながら、スケール感、大風呂敷、心情描写、いずれもプアに思われ、あれっていう感じで、あまりお薦めはできません。

 そして、杉田玄白の「解体新書」の挿絵は、同じく源内の弟子で、江漢にとっては相弟子になる、源内の弟子の三羽烏のひとり、秋田藩の「小田野直武」によるものだそうです。

 この直武の実家が秋田の角館(かくのだて)で、そういえば去年、僕は幸運にも角館の満開の枝垂桜を堪能することができ、このブログでも紹介しました。

 平賀源内の弟子、江漢と直武に、三羽烏の残りの一人が、江漢の銅版画創製のキーマン、森島中良ですが、彼に関しては後ほど。

司馬江漢の美挙2

2007年04月07日 06時13分09秒 | Weblog
 司馬江漢は絵画の業績だけでも、漢画、日本画、浮世絵、銅版画、西洋画、戯画(ぎが:風刺やパロディのようにおかしみのある絵=カリカチュア)・・・・と。

 そしてオランダかぶれの江漢は、大きなワシ鼻に、胸にペンダント、指にはたくさんの指輪、襟付きの上着に、すそをしぼった洋ばかまといういでたち。

 コペルニクスの地動説を信奉し、(人間)平等説を唱え、夜な夜な天体望遠鏡で月を観察し、自分の死亡の知らせを生きているうちに配布するなど、奇行蛮行が・・・。

 司馬江漢というと中国風の名前ですが、苗字の司馬は育った浜松町界隈の「芝」によるともされ、名の江漢はどうも漢画を学んだときの命名だったという説と、「銅板天狗」では先祖が紀州の出で、そこにある大河、紀ノ川と日高川にちなんだとしております。

 司馬江漢には贋作も多く、「江漢に江漢なし」とは現代の、何でも鑑定団的でも有名な話です。

 江漢は蘭学者でエレキテルの発明者である平賀源内の弟子であって、他にも蘭方医で「解体新書」の著者である杉田玄白らとばかりか、かなり有名な身分の高い殿さまとも交友がありました。

 しかし平賀源内のほうが、むしろサムライ・ダ・ヴィンチのような気がしないでもありません。

 源内は蘭学者で、エレキテル発明のほかにも発明発見、戯作者(げさくしゃ)でもあり、浄瑠璃、蘭画、陶器作成、織物、産業技術にもくわしく、さらには伊豆で鉱床を発見したり、秩父では石綿を発見したとか、やれ土用の丑の日にはうなぎとのコピーを考えただの、竹とんぼの発明者とも・・・

司馬江漢の美挙1

2007年04月06日 12時07分37秒 | Weblog
 司馬江漢・・・名前くらいはご存知の読者も多いかもしれませんが、正直まったく知らない若者や、僕の医者仲間も多いことでしょう・・・。

 本名は安藤吉次郎、江戸時代の半ば過ぎの画家であり蘭学者、詩人にして哲学・思想家、あるいは自然科学者でもあり、さらには発明家であり・・・・

 っていうとまるで、レオナルド・ダ・ヴィンチみたいですね、実際。

 江漢は、日本で初めて腐食銅版画、いわゆるエッチングを開発しました。

 今回は、

「サムライ・ダ・ヴィンチ司馬江漢」 對中如雲(たいなかじょうん)著、ゴマブックス

「銅版天狗」 秋山 圭 著、新風舎文庫

「司馬江漢」 新潮日本美術文庫

という文献を参考にいたしました。

 「サムライ・ダ・ヴィンチ」の「對中如雲(たいなか じょうん)」という方は、名前だけ見るとなんだか怪しげな易者のようですね。

 祖父は高名な美術収集家、父は書道家ということ、本人は、浮世絵の安藤広重と司馬江漢の密接な関係を主張して、話題になった方ということのようですが・・・

 安藤広重の元絵説に関しては、マニアや研究者の間では喧々諤々、館長を務める伊豆高原美術館のHPは見られず・・・ひょっとしたら「サムライ・ダ・ヴィンチ」もトンデモ本の可能性もあります。

 その「サムライ・ダ・ヴィンチ」によれば、江漢は同業者からは「嘘つき、ほら吹き、はったり屋」と呼ばれ、現代の研究者からは「奇人・変人・世捨て人」と評されるということです。

 江漢は江戸中期の絵師でありながら、薬学者でもあり、地球全図を書いてみたり、地球儀を作ったり、果てには補聴器や老眼鏡、挙句、なんのつもりかコーヒーミルまでつくっていたというから驚きです・・・。

円空と木喰のまぁるい美7

2007年04月05日 07時34分51秒 | Weblog
 亡くなった父が、生前僕たち家族に渡るように、発注してくれたものです。

 これがまた、まるくて柔和で、赤ちゃんのように可愛らしい顔をしているのですよ。

 「松本明慶」さんは、鎌倉時代のスーパー仏師「運慶」の再来とも言われ、『慶派』を名乗り、弟子を持つのも難しい現代の仏師の中で、なんと40人もお弟子さんを抱える天才です。

 ちなみに「運慶」は、東大寺南大門金剛力士(仁王)像で有名ですが、ゴルゴでお馴染のさいとう・たかを氏がコミックも書いております。

 明慶氏は何度もテレビなどで特集されておりますから、ご存知の方も多いでしょう。

 明慶ファンとしてなんとも誇らしいのが、2005年の「新潟県中越地震で被災した山古志村村民の復興の心の支えにと、同村の杉の倒木で地蔵菩薩を制作し寄贈」(BS-iより)という、ナマグサ坊主よりもホンモノの聖職者のような、まぁるい心の持ち主であるところです。

 そして明慶さんが、仏が宿ると信じる、赤ちゃん。

 この丸さ。

 香るような、木のぬくもり。

 柔和さ。

 これを眺めるだけで、なでるだけで、なんだか心が落ち着きます。

 日本人であることが幸せです。

円空と木喰のまぁるい美6

2007年04月04日 13時50分14秒 | Weblog
 日本のすごいところは、斬新でオリジナルな発想は苦手であったとしても、どこかから伝わった途端に、それがたとえ異文化でも、異宗教でも、特殊技術であろうが、貪欲に飲み込んで消化して、自分たちのものにしてしまい、それは時としてオリジナルより高位なものに変えてしまうところです。

 「カイゼン」の鬼、改善して自分たちに合わせてしまう点では世界屈指ですね。



 柔和な仏さまなど、敷居が低すぎて、権威がない、と言う意見もありましょう。

 しかし、仏さまとて、仏陀・お釈迦さまは神さまでもなんでもなく、人間だったわけですし、庶民を彼岸に救済してお導きくださるのですから。

 赤子や無垢な少年少女が見て、泣き出すような恐ろしい形相の仏さまには、日本人は馴染めないのではないでしょうか。

 白河上皇の院政時代の仏さまを見ても、それはまるで少年のようであり、優しく無垢な表情です。

 もう武士による戦国時代も終わったわけですから、金剛力士でもなく、平和な現代に調和する仏さまを拝みたいものです。

 宗教というものは研究者や、僧侶のためにあるものではなく、所詮は庶民のものであり、ある意味もっとも大衆文化的なのではないでしょうか?

 国民に仏教を浸透させるには、寺にこもり、修行する僧侶も大切だし、お経を研究することも大切だと思いますが、円空や木喰のように、全国を行脚して、柔和でやさしい仏さまを残し、それを広めることも、修行と同じように、あるいはそれ以上に大切なのではないのでしょうか?

 自ら絶滅危惧種となってはいけません。

 と、エールを送り・・・ちなみに小生は、不心得者ながら、なんと当代随一の天才仏師、慶派を名乗った松本明慶(みょうけい)さんが、ちょいちょいっと(といったら失敬ですが、彼の居並ぶ偉大な作品に比べたら)お作りになられた、手乗りサイズの「合掌童子」を大切にしております。

円空と木喰のまぁるい美5

2007年04月03日 13時04分16秒 | Weblog
 ウィキペディアによれば「木食」とは、木を食べることではなく、「五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち、山菜や生の木の実しか口にしないという、厳しい戒律である」そうです。

 十穀断ちした円空さんと似た境地があったのでしょうか?



 木喰上人の残したうたがあります。

「みな人の 心をまるく まん丸に どこもかしこも まるくまん丸」

 いいですねぇ。

 ほんとにいい。

 これぞ柔(やわら)の道。

 AC公共広告機構でもこのうたをはやらせたらいかがでしょうか?

 どうですか、マスコミのみなさま・・・。

 とんがったゴシップネタよりも、こっちの方が庶民は望んでますよ。

 欧米では、何度か書いておりますが、ゴシック教会を始め、とんがって威嚇して、高さを競い、神の絶対性にすがる宗教・・・コーカソイドの人たちにゃぁ申し訳ねーが、このまんまる、まんまる・・・和の心ってのは分かるまい。

 大きい和でやまと。

 二人の彫った仏像の微笑こそが、日本の和の文化、日本の庶民の仏教、心の「よすが」なのではないでしょうかねえ・・・。

 仏像なんていうと、マニアックでイメージも明るくはないですが、この円空と木喰の仏像こそが、庶民的であり、日本国民が望む宗教であるような気がしませんか?

 高名な住職の方々、いかがでしょうか?

円空と木喰のまぁるい美4

2007年04月02日 16時40分16秒 | Weblog
 円空さんは飛騨、関市(岐阜県)弥勒寺前の長良川畔で、五穀絶ち十穀絶ちして、63歳の7月15日、盂蘭盆会の日に入定(即身成仏)したとあります。

 名古屋市内の荒子観音寺に1240点。

 岐阜だけでも1000点を超えるといいます。

 しかしこの柔和なお顔。

 見てるとなんかこっちも微笑んじゃうんだよな・・・ご覧あれ。

http://www.enku.jp/hotoke/index.html




 一方、木喰(もくじき)さんは、山梨県は甲斐の国出身。

 14歳で家出して、22歳のとき、相模で出家、その後45歳のときに茨城県常陸の国で木喰の名を授かったようです。

 なんとおん年、56歳で全国行脚を開始し、61歳から彫刻を開始したようです。

 それから北海道から鹿児島まで、仏像を残し、91歳にてこの世を去られたようです。

 仏さまの数は1000点を超えるそうです。

 ちょっとデフォルメされており、こちらも素敵です。

http://www.mingeikan.or.jp/html/lacquer-wood_7.html

円空と木喰のまぁるい美3

2007年04月01日 09時09分07秒 | Weblog
 確か僕が見たテレビ番組では、香道において、その「黄熟香」の破片を入れた箱だけでも大変貴重だとかなんとか・・・。

http://www33.ocn.ne.jp/~kazz921/zatsugaku/kenbun.html

 

 日本の仏像の原料となるカヤの木は、針葉樹で、碁盤や将棋盤にも最も適しているそうですが、カヤの木が実際に盤になるためには・・・

 なんと樹齢500年もかかるそうです。

 


 しかし、仏さまというのは、はみな腕が長い・・・。

 指先がひざくらいまであるイメージ。

 これは両腕を広げた長さが身長となるような規定があるからだとも、救済するのに長い腕が必要だからとも。




 さて円空は岐阜県生まれの、江戸初期の天台宗の僧侶でございます。

 木喰の仏像と比べると、彫が粗いのが特長です。

 円空は弘前から北海道松前に渡り、名古屋から関西に移動し、上野、そしてまた飛騨に帰ったようです。

 残した仏像、な、なんと12万本。