医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

スクルージに思う美句2

2007年04月23日 08時43分37秒 | Weblog
 最近テレビやら若者の口から、しょっちゅう、やれ「夢をかなえる」だとか、「夢をあきらめない」だの、「自分らしく」だの、「ありのままの自分」だの、「希望にあふれる」だとか、「勇気づける」だとか、「宝物」だとか、「感動を与えたい」だの、「思い出作り」だの、「輝いている自分」だの、「自分の可能性」だの・・・・

 聞いているこっちがくすぐったくて赤面してしまうような、しかも案外陳腐な言い回しを耳にするようになったと思いませんか??

 例えば、「宝物」=大切に思う、ということなのでしょうが、日本人としてストレートに「宝物」だなんて、心では確かにそう思っているんだけど、「大切に思う」とは言えても、「宝物だ」とは口には出せない、それがなんというか奥ゆかしさっていうか・・・口にすること自体のストレートさに気恥ずかしさを感じてしまうのは、僕だけでしょうか?

 付け加えれば、あくまで大切に思う対象が人である場合、物ではないでしょっていう、日本語としての微妙な了解ごとの相違って感もあります。

 また例えば「思い出」は、後に振り返ってこその思い出であり、現在進行形の事象をその瞬間に思い出づくりといっても、あまりに短絡的というか、目的化しているというか、本末転倒というか、ずるいというか・・・。

 今の職場では自分が輝けない・・・なんて言われると、輝いているかどうかはあくまで他人が判断することだし、僕なぞは自分が輝けるなどとははじめから思えないし、自分の可能性なんて他人さまに言うせりふではない、と思ってしまうのです。

 将来やってみたいこと、とは言えても、夢なんてもんは実現も不可能かもしれないでっかいものであり、それを人に言ったらこっぱずかしいもののような気がします。

 誰でも自分らしくありたいものですが、世の中にはTPOもあり、集団の中の自分ですから、居心地が悪く窮屈な中で力を発揮しなければならないものであり、今までに自分らしくあったためしなど僕にはありません。

 

 と言ってしまうとみもふたもないように聞こえますが、物事や世の中はそんなに単純できれいごとばかりではなく、現実の社会や世間や人生は無限の矛盾と常に合いまみれているというか、説明のしようもない複雑な事柄で構成されているため、愛や夢や勇気という甘くてなまっちょろい武器だけでは、僕にはとても対峙していける気がしません。

 確かに自分の人生の主人公は自分かもしれませんが、そのようなナルシストとして、自分だけに浸っている余裕もないというか。

 それらの表現は一見魅力的ですが、甘すぎる砂糖菓子のようでもあり、それこそ確かに「夢」を感じはしますが、津波のような現実の難問とあまりに乖離している気がしないでもありません。

 また聞いていて、自分中心で、理想論だけの、もろいヴァーチャルさにある種の危うさすら感じてしまうのです。

 つまり小学生まではそれらをストレートに語ってもらって大いに結構ですが、だいの大人につるっと言われてしまうと、顎が外れてしまい、こっちがどぎまぎしてしまうのです。