Sixteen Tones

音律と音階・ヴァイブ・ジャズ・ガラス絵・ミステリ.....

クライスラーの従軍記

2021-12-09 08:49:58 | 読書
フリッツ・クライスラー, 伊藤 氏貴 訳,「塹壕の4週間 - あるヴァイオリニストの従軍記」 鳥影社 (2021/6).

*****伝説のヴァイオリニストによる名著復活!
偉大な人格と情緒豊かな音楽に結びついた極限の従軍体験を読み解く。(音楽評論家・板倉重雄氏推薦)

はたしてこの従軍体験と彼の音楽との間に一体なんらかのの繋がりはあるのだろうか。なにがヴァイオリニストとしてのキャリアを危機に晒してまで彼に従軍を促したのか。この体験によって彼の音楽は変化したのか。それはこれを読み、彼の演奏を聴く一人ひとりが考えるしかない。-「序文 本書の背景」より
*****

戦前派にはフリッツ・クライスラー (1875-1962) を20世紀最高のヴァイオリニストとする評価がある.ベートーヴェンのバイオリン協奏曲や彼自身による彼の小品は CD 化されている.16 トンはとても好きだ.

彼は 1914 年に勃発した第一次世界大戦で陸軍中尉として召集を受け,東部戦線に出征.50 人の部下を率いる.しかし重傷を負って後送され除隊となった.このときは参戦したオーストリア兵 90 万のうち 35 万が戦死したとのことで,さっさと ? 負傷したのは幸いであった.

この『塹壕の四週間』は 1937年に竹村書房から新田 潤訳で出版されており,今回は新訳.
まさに従軍記であって,ヴァイオリンは登場しない.しかし「音楽家の耳」と題する節では,砲弾が空を切る音の音程の昇降から,敵の大砲の位置を判断して重宝される.ドップラー効果の応用だが,2次元で近づく/遠ざかる以外に,砲弾が地上から上がる/落ちることも影響するので,物理の演習問題に良さそう.

出征時の高揚は日本人の場合と変わらないかもしれない.しかし敵の塹壕と対峙して敵ひとりひとりの顔を覚え,敵に友情に友情に近いものを感じ,ついには演芸対抗めいたものでタバコを交換するあたりは,テンション (天孫) 民族がかかわった戦争とは大いに異なる.
しかし食糧も水も弾薬も尽きた湿地の塹壕から退却し,負傷し命からがら救出されるあたりも,ちゃんと書いてある.「戦場では人生に必須と考えられていた文化的なものはあっという間に忘れられ,何世紀もの時が抜け落ち,人は驚くほど短い間に原始人/穴居人になってしまう」とも言っている.

あとがきによれば,従軍後のクライスラーは,妻の生国であるアメリカでヴァイオリニストとしての活動をはじめるが,この大戦では敗戦国側だったから,当然 風当たりは強かった.後に功なり名を遂げたクライスラーについて,訳者は後書きでふたつの疑問を呈している.
1) クライスラーは反戦的になり,戦争の犠牲者に積極的に慈善活動を行うが,そもそも自身が軍人として戦ったという事実にどう折り合いをつけたのか.
2) 戦争での過酷な体験と,除隊後バッシングされた体験が,その後の彼の芸術 (演奏と作曲) にさしたる悪影響を及ぼしたようには見えないのは,なぜか.
訳者は「天才」「中庸」というふたつのキーワードのもとでこれらを考察している.

すなおな原文が感じられる翻訳.薄くて小さくて高いが,美しい本.
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