─光る波の間─

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音楽はだれのもの?

2005-05-14 22:21:51 | 音楽・映像・アート
『・・・・・プロテスタントは視覚による美の喜びを放逐しようとした・・・
理屈で積み上げていくので、美的感覚は後退するし、父性原理の重視で
マリアは評価がさがっていく・・・
しかしプロテスタントのドイツ人は耳だけは残した。それで音楽は発達した。

・・・・・西洋音楽が発達したのはプロテスタントのおかげだが・・・
17世紀以前までの神話的思考は音楽の中でのみ生き残る。
・・・そして最後はワーグナーにまで行く・・・楽劇はまさに神話で・・・
だからあれほどごちゃごちゃ極まりない。
プロテスタントの思想の欠落した部分が音楽に生かされることで、
ヨーロッパはバランスを取った・・・・・』


ほおぉ~。仏教の本でクラシックの勉強もできるとは。
そう言われると久々にワグナーが聴きたくなりますねぇ。
全曲でなく、『管弦楽曲集』(ノリントン)ですが。
テンポのことでよく話題になるやつですね。(^m^)




さて、昨日テレビでふと耳にしたのは。
「最近は作曲家の意図がどうと言って
 音楽自体がロマンティックじゃなくなってる。
 音楽が客観的になりすぎている」

と言う言葉で、すごくひっかかった。
たしかにこの台詞を使う人が多いよなぁ・・。
でもそれはたぶんあまりに原典を無視したり、
意図の判らない奇をてらった音楽作りをする人が
多くなってしまったしまったせいなのかも、あるいはしれない。
だから最初に返りましょうよっていう・・ね。

でもそれを考えていると、“はたして音楽は作曲家のものなのか?”
という疑問も私は湧いてくるのだ。
音楽だけでなく絵画なんかもだけど、たぶん何か作ったことのある人は
判るだろうけど、“降りて来る”とか“そこに観えてるものを掴む”
っていう感覚。インスピレーション。

これはどこから来ると思う?




横尾忠則さんがよく言ってたけど、
「芸術家っていうのは巫女で、すでに存在しているモノを
 この世に具現させるための媒体にすぎない。
 だから自分が作ってるんじゃなくて、作らされてる、
 作らせていただいてるっていう謙虚さが必要だ」
って。
私はこれすごく納得するんだ。
だから、音楽家は“作曲家の意図に近づこう”とする行為の
もう一つ向こうに、“宇宙の意思”まで思いを飛ばさなきゃ
いけないんじゃないかな。なんて。

世の中、著作権だなんだと面倒な世の中ですが、
変わったイラストレーターもいて、描いてるときはまぁ楽しいけど終ったら興味がない。
本人いわく
「作品て・・う○こなんです。自分のう○こを取っておいてまじまじと
 観たりしないでしょ?観たくないから手元に置かないんです。」
(^□^゜
だそうです。生み落しちゃったらもういらないんだそうです。
自分に体から離れたら、あとは知らない。
だから、自分がどんなのを描いたとか、誰が持ってるかとか、分からないんだって。
それもまたすごい!
執着無さ過ぎですが、もしかしたらこれがあるべき姿なのかもしれないね。

*

『仏教が好き!』(河合隼雄/中沢新一)



パソコンで観る

2005-05-14 16:58:48 | 音楽・映像・アート
何度か観た映画だ。

わざわざパソコンで観てみる。

映画はやっぱり大画面でさ、なんて

そりゃもっともだけど。

不思議と、パソコンみたいに小さくて個人的な画面に

よく合う映画ってのもあるもんだ。

頬杖をつく。

ディスクの回る振動を、肘に感じながら観る。

・・・目が痛いねぇ

“液晶はブラウン管より目に悪いよ”って、

そういえば 言われてた・・