昨日は中央区民カレッジの講座、
『レオナルド・ダ・ヴィンチとともに歩く、ルネッサンスのイタリア』を受講してきました。
講師は恵泉女学園大学准教授の池上英洋先生でした。
第1回目は、『レオナルドを介して見る、ルネッサンス当時の社会と人々の暮らし』
講座の内容は、レオナルドを以下のように分析したものです。
1.最も偉大な芸術家、思索家の一人
2.謎が多い・ドラマに富む
3.ルネッサンスを理解するために最適のモデル
レオナルドの名前は、以下のように実に長い名前、寿限無ほどではありませんが。
『ヴィンチ村のアントニオの息子で公証人のピエロの息子のレオナルド』
それはさておき、レオナルドの生い立ちについては、早くから実の母から引き離され、
祖父のアントニオの下、フィレンツェ郊外のヴィンチ村で幼少期を過ごしたとのこと。
また、父ピエロは、その後4人の妻を順次迎えているが、それぞれ死別してからの再婚になります。
何故かと言うと、当時のお産は女性にとってかなり過酷なことで、産褥に伴う死亡率は、
何とペストについで2位とのこと。
お産は女性にとっては正に戦のようなもの。
そのためか女性の墓碑には出産風景が描かれているのが多い。
ちなみに男性の死亡率は、1位はやはりペスト。2位は戦死だそうです。
ですので男性の墓碑には戦闘場面が描かれていることが多い。
当時は男性は家族を養えるほどの資産が無ければ結婚できず、
婚姻年齢も高いようである。
一方女性は16~18歳で嫁ぐのが一般的であるが、
その際持参金が必要になる。
何のための持参金かと言えば、亭主とは年齢差がかなりあり、
当然のことながら先に逝ってしまうので、若くして未亡人になる。
そうすると、そのあとの長い人生のための生活資金の備えとなる。
従って、何らかの理由で、亭主と別れるときは、その持参金は持って帰ることになる。
ちなみにイタリアはカトリックの国で、離婚は認められていない。
当時の社会情勢は、親の仕事を息子が継ぐのであるが、親の仕事を継げない次男三男は、
都会に出て工房などに入ったり徒弟奉公をする。
レオナルドも15~6歳の頃にヴェロッキオの工房入りをしている。
キリストの洗礼:ヴェロッキオ
同上の「キリストの洗礼」(部分):レオナルドの手になる
女性はと言えば、持参金の無い場合には結婚ができず、職を求めて都市に出ることになる。
都市には独身男性が多く、必然的に女性を求めることとなる。
当時は都市には需要と供給ではないが、娼婦もかなりいたようです。
ヴェネチアでは女性の10人に1人は娼婦であったとか。
そこで社会の大問題となったのは、母親のいない乳呑み児の大量発生です。
産褥で母親が死んでしまったり、父親一人では育てられなくなったり、
果ては産んだ子供を育てられない事情を持つ女性等々。
そんな事情もあり、フィレンツェでは、、捨児養育院が建てられました。
今で言う赤ちゃんポストです。
一見華やかそうなルネサンス期ですが大変な時代だったわけですね。
ドメニコ・ギルランダイオの建築ですが今は美術館になっています
ドメニコ・ギルランダイオの「三王礼拝」が見れるそうです
こちらはおまけ
受胎告知:レオナルド・ダ・ヴィンチ
最後の晩餐:レオナルド・ダ・ヴィンチ
自画像:レオナルド・ダ・ヴィンチ
ちなみにこちらは、レオナルドを尊敬していたラファエロのアテネの学堂の部分ですが、
左の人物はプラトン。レオナルドの自画像にどことなく似ていませんか (^u^)