埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」

教え子をふたたび戦場に送らないために

ゆいま~るin沖縄  3日目

2017-01-07 16:30:27 | 活動報告


 3日目(ゆいま~るとしては2日目)、14のコースをバス23台に分乗してフィールドワークに出発する。一度には発車できないので時間差で出発。私が選んだコースは8:30発だったので少しのんびり。
 それにしても、この谷茶ベイは規模といい、構えといい、整備されたビーチといい、広々とした駐車場といい、(沖縄資本のみではないのだろうが)、沖縄が本気でリゾートで再生していこうという象徴のようなホテルでだと思った。



  最初に着いたのが辺野古、昨日に連続して座り込みテントを訪れる。今日は全教としての行動であるから、人数も多く、バス3台になった。
 14のコースの中で希望が集中したのはヘリパッド建設反対でゆれる高江を回るコースだった。このコースにはバス4台が配車されたが、すぐに定員になってしまったらしい。



 レクチャーはバスごと。説明してくれているのがテント村に詰めている方、右端で白い帽子をかぶっている人がバスについてくれたガイドの上里さんである。
 珊瑚礁の海では海岸は白砂であるのが本来なのだが、米軍の砲撃訓練で崩れた山から赤土が流失し、このような色になっているのだ、というのは昨日の湯浅さんから聞いた。私たちから見ると、十分きれいな海岸であるのだが。



 実は私が選んだコースは、辺野古に限らず、ほぼ埼高教単独で回ったコースと重なる。だが、2度目は2度目で新しい気づきがある。
 これは上里さんの受け売りだが、この道路は沖縄に落とされたお金(振興費)で作られた、しかし漁村である辺野古にとって道路の舗装はともかく、住民数から考えて歩道は不要だった、使われないからまたたく間に野草に覆われてしまった、というのである。何に使うのか、役に立っているのか不明な建造物が多数ある、というのである。今は退職されているが、不当に退学させられた先輩たちへの処分に抗議して琉球大学を自主退学したという学生時代をへて、教組の支部役員として長年活動してきたという上里さんは、いかにも筋金入りという人物であった。



 嘉手納基地も2度目。この日は日曜日であるので訓練は行われていなかったが、普段はタッチ・アンド・ゴーの騒音が飛び交っているそうだ。



 道の駅の真ん前には、昨日は気づかなかった騒音計が設置されている。軍用機の離発着時には軽く100㏈を超えるとのことだ。



 北谷町美浜区公民館。ここで昼食の弁当が配られた後、普天間基地をめぐる問題についてレクチャーを受ける。



 レクチャーしてくれた地元の町議の方。失礼ながらお名前をメモし損なった。パワーポイントを使って、現状と問題点、今後の課題について丁寧に説明してくれた。



 いかに米軍基地が地域を圧迫し、被害をもたらしているかのみならず、世界への出撃拠点として機能しているかが明らかにされる。



 沖縄経済の「基地依存度」は1955年の25-27%から減少を続け、現在は5%程度だといわれている。「米軍がいなければ沖縄はやっていけない」というのは時代遅れの神話であり、むしろ米軍基地が沖縄経済の発展の最大の阻害要因である。ハンビー飛行場跡地は商業地・住宅地となり、返還地利用の最も成功した例であるという。



 コースの最後は嘉数高台。今日もオスプレイが機体を並べている。上里さんから「ベースとキャンプの違い」というお話があった。空軍・海軍の基地はベース、つまり出撃の拠点である。日本語では同じ基地でも、海兵隊の場合はキャンプになる。キャンプは駐屯地というような意味合いになり、米海兵隊が海外での武力行使を前提とした外征専門部隊であることを象徴している。沖縄は米海兵隊にとって前線基地なのである。



 居住表示案内板には基地にあたる区域にも町名の記載がある。暴言で知られる「作家」の百田氏が「基地が住宅地に近接しているというが、もともと何もなかった基地の回りの土地に住民が集まってきたのだ」と発言して顰蹙をかったことがある。米軍は「銃剣とブルドーザー」によって接収した土地に基地を建設し、収容所から帰された住民たちがもどったら土地が奪われていたというのが真実だ。
 ところで、これも上里さんのレジメによるのだが、百田氏の発言には前例があることが分かった。2005年、米4軍副官が「普天間はサトウキビ畑とパイナップル畑でなにもなかった」と発言しているそうだ。百田氏は何の検証もなしにこれを引用したのに違いない。
 これに対し、上里さんが地元民らしく、ユーモアをまじえて反論している。沖縄本島は南部が石灰岩質のアルカリ性でサトウキビの栽培に適し、北部は赤土で酸性でありパイナップルの栽培に適する。つまり、「サトウキビ畑とパイナップル畑だった」というのはまさに「見てきたようなウソ」だったというのである。



 この日のフィールドワークは16:00頃には終了した。新潟や大阪等からの参加者はこのまま帰路につくということで、バスは最初に那覇空港に、もう一泊する県の参加者は国際通りの県庁前まで送ってもらい、流れ解散となった。