埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」

教え子をふたたび戦場に送らないために

ゆいま~るin沖縄  2日目

2017-01-05 15:25:22 | 活動報告
 

2日目、8時にホテルを出発し、いよいよ辺野古に向かう。写真はバスを降りてから基地に向かう途中の第2テント村である。



 このフェンスの向こう側がキャンプ・シュワブということになる。



 突きだした辺野古岬とその先端に見える島の間が新基地のために埋め立てるとされているエリアである。



 辺野古は漁港である。船溜まりのそばに設置されている座りこみテントを訪問する。



 テント村の方からレクチャーを受ける。このあと、キャンプ・シュワブの正門前に向かうのだが、残念ながらバスで通りすぎるだけになってしまった。



 埼高教のツアー部分には若干の観光コースも含まれていた。ガイドの湯浅さんがきれいな海を紹介するという。灌木のトンネルをくぐり抜けていく。



 トンネルをくぐるとき、湯浅さんが怪我をしないように、と皆に注意する。アダンの葉には鋭いトゲがびっしり生えている。沖縄戦の最中、この中なら米兵も追ってこないだろうと、住民たちが血だらけになりながら潜んでいたのだという。



 若者たちであればこそ絵になる風景。したがって私は入っていない。



 カヌチャリゾートで二手に分かれてグラスボートに乗り込む。この樹脂製の桟橋はなかなかスリルがあった。



 グラスボートから覗いた珊瑚礁。今年は台風が来ず、海水が混ざらなかったため、珊瑚礁にとっては悪条件であるらしい。それでも日光を受けようとテーブルを広げている。クマノミの魚影も見えた。



 藤崎紅型工房も見学した。



 手作業による染め付けである。



 小さいながら庭はきれいに手入れされていた。気持ちのよい一時であった。



 昼食後、名護市から恩納村へ。全教未来プロジェクトの会場であるリザンシーパークホテル谷茶ベイに入る。けっこう早めについたので待ち時間が長かったが、いつの間にか会場が参加者で満杯になったころ、創作和太鼓集団「心」による演舞がはじまった。



 文化行事がはじまったのが14:30、15:00からの全体会のオープニングは「仲間とつながる」各地のとりくみと題して、ゆいま~るの成功のための全国各地の活動が映像で紹介された。実行委員長あいさつのあと、来賓として登壇したのは稲嶺進名護市長である。翁長沖縄県知事からもメッセージがよせられた。



 記念講演はジャーナリスト、ドキュメンタリー映像作家の三上智恵さんである。大阪毎日放送をへて、琉球朝日放送のニュースキャスターを19年務めたのち、沖縄では放映されるものの、なかなか全国放送されないことに限界を感じ、独立した。「標的の村」「戦場ぬ止み」は全国で上映されている。沖縄の米軍基地強化のみならず、集団的自衛権体制づくりの背景には、ロシア・中国の太平洋進出の抑制を目標とするエアシーバトル構想の存在があることが強調された。



 講演に続いて三上さんと青年たちとのトーク。受け身なだけでなく、若者たちの声を反映させようという企画らしい。



 エンディングは北海道・東京・静岡・京都・高知・私教連の代表による報告と決意表明。北海道からは吹雪の影響で飛行機が運休し、会場に到着できなかった参加者もあったとのことだ。それでも1091名の参加が報告され、集会は目標を達成した。
 閉会後、急ぎ会場設営をして、同会場で夕食交流会が開かれた。マイクの声も隅々まではとどかず、十分な交流ができたかどうかは別として、1000人規模の立食パーティは壮観ではあった。

ゆいま~るin沖縄  1日目

2017-01-05 00:15:46 | 活動報告

 12月23日から26日の日程で、全教「未来をひらくプロジェクト ゆいま~る 見て・聞いて・学んで・つながろう」に参加してきた。詳報をアップする。
 第一報では那覇空港を出ようとするやいなや、「いきなりのオスプレイ」を目の当たりにすることになったことをお伝えしたが、先の写真は望遠側で引き寄せたもので、実際の見え方はこの写真の方が近かった。
 この日は嘉数高台に向かうときにもオスプレイの機影と出くわした。ただ、24・25日には一機も飛行していなかった。なぜかというと、クリスマスであったかららしい。土日にもあたっていて、訓練は休みだったようだ。13日の事故後、たった6日で飛行を再開し、当初は除外するといっていた給油訓練も年明け早々には始めるという。まったく米軍の都合のみで運営されていることがこの一点でも明らかである。

 バスに乗り込み、最初に向かったのは不屈館。沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現のために、米軍の妨害や投獄にも屈せず、沖縄の人々の厚い信頼とともに闘った瀬長亀次郎の記念館であり、資料館である。

 2007年に「瀬長亀次郎生誕100年展」が開催されたのがきっかけで、常設展の要望が高まる中、生前交流のあった方のご遺族からマンションの1階を無償で提供する旨の申し出あり、開館のはこびとなったそうだ。

 瀬長さんの顔は記憶の中で鮮明だという人も多いだろう。説明してくれたのは瀬長さんの次女の千尋さんである。

 近年、その千尋さんが小学生のときに獄中にあった父親に宛てた手紙が米軍によって飜訳され、本国に報告されていたことが情報公開で明らかになったそうだ。アメリカがいかに瀬長さんを危険視し、恐れていたがわかる。

 つぎに向かったのが嘉数高台。ガイドの湯浅さんが少し遠回りをしてガジュマルの樹のそばを通りながら、いかに沖縄の人々の心のよりどころになってきたかを説明してくれた。

 現在、嘉数高台は公園として整備されている。高台を上っていく階段の手前に沖縄戦の激しさを伝える弾痕塀が残されている。

 頂上には京都の塔・島根兵奮戦の碑・韓民族出身者の青丘之塔などが建立されている。

 旧日本軍のトーチカ跡も残されている。

 銃眼側。ぶ厚い鉄筋コンクリート製だが、激しい砲撃にさらされたことが見て取れる。

 写真の順序が前後したが、この展望台から普天間基地が一望できる。

 普天間基地。住宅密集地帯である。2004年に米海兵隊ヘリコプターの墜落事件のあった沖縄国際大学はすぐ右側に位置する。

 右隅に見えていたオスプレイをズームアップしてみる。

 次は嘉手納基地。道の駅かでなの屋上から一望できる。道の駅の3階は学習資料室になっている。

 普天間は米海兵隊の基地。嘉手納は4000m滑走路2本、200機近くの軍用機が常駐する極東最大の米空軍基地である。嘉手納町の83%を占有する。

 あまりに広大であるので西側(※)から3枚の写真で追ってみる。

 東端側(※)。この奥が弾薬庫になっているとのことだ。

 基地の奥の方に建設されている格納庫をデジタルズームも使って引き寄せてみる。この格納庫だけで数億円の費用がかかっているとのことだ。むろん、日本の「思いやり予算」から支出されている。

 この日、最後に訪れたのは宮森小学校である。1959年、米F100ジェット戦闘機が石川市(現うるま市)に墜落、衝撃で跳ね上がったのち、宮森小学校の校舎に激突した。まき散らされたジェット燃料で家々と校舎は激しく炎上し、死者18名、重軽傷者200名の被害をもたらした。

 当時、事故は日本中に衝撃を与えた。慰霊碑の地蔵は武者小路実篤筆のものであるということだ。

 つぎに案内してもらったのはうるま市石川町会館。すでに夜になってしまっていたが、特別に開けていただいた。
 墜落の経過は米軍発表によるしかない。操縦不能に陥ったパイロットは海上に墜落するように機体を向けた後にパラシュートで脱出した。その後、機体は再び進路を失い、石川町に墜落したというのである。つまり、パイロットは最後まで被害を最小に止めるための努力をした、といいたいらしいのだが、オスプレイの事故の時にも聞いたようなセリフである。
 このF100は世界で初めて音速に達したジェット戦闘機だということだ。事故の原因は「整備不良」と発表されたが、その後も世界中で事故を起こし、「未亡人製造機」とあだ名されたそうだ。これもオスプレイと類似している。

 事故を語り継ぐとりくみは比較的近年になってはじまったとのことである。運動も困難だったのだろうし、体験者にとっては辛い記憶であったのだろう。遅くまで熱心に説明してくれた方も、宮森小学校の卒業生(当時小5)で、定年後に活動に参加したという。

 この日の宿泊地はリゾネックス名護。写真は翌朝に窓から見た海岸風景である。

ある。

※嘉手納基地の写真に関して、かでな道の駅の位置を把握し損ない、方角が誤っていたので訂正しました。(1月5日)