54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

雑記-振動やら眠りやらプライドやら

2005年06月30日 | パラソル
「最も優れた芸術は音楽LIVEである」では、LIVEの音の振動がエネルギーを与えると書いたが、では地球の振動である地震はどうなのだろうか。地震で感動するだろうか。感動すると思う。恐怖という感情が引き起こされる。マイナスの感情ではあるが、心が揺り動かされるという点では音楽と同じである。人に怒鳴られたとき、心臓に響く。怒鳴り声も振動であるが、これもマイナスの感情を引き起こす。LIVEとは違い、負のエネルギーをもたらす。このことから、振動の種類によって、引き起こされる感情が違ってくるのではないかと思われる。振動が大きければそれだけよいエネルギーを与えられるというわけではないようだ。

「眠らないムーミン」では、長眠者と短眠者の違いは脳の使用度によると書いたが、性格によって長眠者タイプと短眠者タイプが分けられるそうだ。短眠者は外向的、活動的、悩み事も忙しさで解消してしまうタイプ。しかし、他人の意見に左右されやすく、思考の柔軟性に欠ける。実業家タイプ。長眠者は、内向的、熟慮型であり、悩みも多いが、柔軟な思考法をとる。芸術家タイプ。
私は芸術家タイプなので睡眠時間が多くなるのは仕方がないようだ。10時間も眠ってしまうということは相当な芸術的才能があるに違いない。

適度の運動の後はよく眠れ、目覚めも最適だという。毎日の適度な運動は質のよい睡眠に効果的であるそうだ。私は「酸素が体を錆びさせ寿命が短くなる」という考えになってから運動を控えるようになった。それが睡眠の質を悪くしているのかもしれない。確かに部活をやっていた中学高校では睡眠時間は短かった。しかし、寿命を縮めたくはないので運動をする気にはなれない。


「PRIDEミドル級GP」を見たけど、ちょっと残酷だね。「ヴァンダレイシウバVS中村和裕」で最後シウバは殴りすぎだろうと思ったわけですよ。顔面を、あの薄いグローブで。PRIDEもレベルがどんどん高くなってきて、ファイターがすごく強くなってきたけど、残酷さがひどくなってる。マウリシオショーグンの踏みつけにしても、セルゲイハリトーノフの相手を殺しそうな攻撃にしても、残酷すぎる。K-1のジェロムレバンナのKOもすごいけど、PRIDEに比べればかわいいものだ。私はPRIDEのマウントで殴ったり、顔面を蹴飛ばしたりする過激なところが好きだったのだけど、最近はちょっと残酷すぎる気がして。審判に「もっと早く止めてくれ」と思ったりする。そんな中で、寝技で華麗に決めるノゲイラはいいね。ミルコクロコップも打撃だけどスマートに決めて残酷じゃないからいい。程よい過激さがいいと思う。過激すぎるとちょっと見てらんない。リアルファイトをどこまで実現できるか。どこで止めるべきか。それがPRIDEの課題であるように思える。

嘘は創造的活動である

2005年06月29日 | パラソル
私はこのブログにおいていくつも嘘をついてきた。IDの「54notall」というのも実は本名ではない
私は高校生のときにダウンタウンの松本人志さんの「愛」「遺書」を読んだ。松本さんは本の中で自分のことを「天才」だと書いていたが、まさに天才だと思う。「ヘイヘイヘイ」「ダウンタウンDX」を見てると、松本さんの笑いのセンスは世界一だと思う。しかも「ガキの使い」のフリートークは、ネタをまったく仕込んでいないという。完全なる即興、それでいて爆笑を生み出す。松本さんは天才である。
松本さんは「笑いのためなら嘘をついてもいい」と書いていた。「昔は敏腕刑事だった」とか「愛犬が車にひかれた」とか。嘘をつくことによって笑いが生まれるなら嘘をついてもいい。それまで私は嘘などつけない誠実な青年であったが、以来嘘をつくようになった。

嘘というのは人間にしかつけないものである。私は動物が嘘をついているところを見たことがない。シマウマが「あ、ライオン!」なんて言って群れ全体をびっくりさせるなんて光景を見たことがない。嘘というのは、ないものを「ある」と言ったり、やったことを「やっていない」というものである。つまり、事実とは違うものを生み出すものであるから、嘘は創造的活動である。動物は実際にあったことしか知覚できないから嘘をつくことができない。嘘は人間にしかできない優れた行為である

「あなた浮気してるでしょ」と言われて、「してないよ」と言うよりも、「いや、火星人の女性に迫られてさ~、口がタコみたいだから困っちゃたよ」と言う方が、創造性の高い嘘である。お笑いが使う嘘は、このような創造性の高い嘘なのである。事実からかけ離れていればいるほど創造性が高い。突拍子もない嘘をつけるかどうかが重要である。
ボケとツッコミでは、ツッコミのほうが頭がいいという印象があるかもしれないが、逆である。突拍子もない嘘をつけるボケのほうが、常識しか語れないツッコミよりも創造性が高く、頭がいいのだ。ボケがそのことを主張するようになって、最近ではボケのほうがかっこいいなんて言われるようになったが、私としては逆に「ボケは本当に馬鹿なんだ」と嘘をついて馬鹿を演じるほうがかっこいいのではないかと思う。

最後に、この記事のほとんどが嘘である、と残しておわりにしようと思う。
ここまで読んでいただきまことに不愉快極まりないです

最も優れた芸術は音楽LIVEである

2005年06月28日 | 音楽
私はCDよりLIVEのほうが好きだ。「LIVEのチカラ」はすさまじい。なぜLIVEがいいのか。
LIVEに行くと、その音の大きさにおどろく。心臓にまで伝わる音の振動。言うなれば“心に響く”というわけだ。だから感動するのではないだろうか。「感情」が「動く」のである。考えてみれば、CDでもDVDでも大音量で聴くとLIVEのような気分になれる。それもやはり大音量が心臓に響くからではないだろうか。
「LIVEのチカラ」の正体は大音量にある。CDで普通の音量で聴くのは、耳で聴いている。LIVEの大音量は、鼓膜だけでなく身体全体を振動させる。身体全体で音楽を聴いているのだ。全身で音楽を感じ、心に響くLIVEはすばらしい。

音楽が他の芸術と比べて優れているのは、感情を最もよく表現できるからだ。感情というのは、形のないものであり、刻々と変化するものである。音楽もまた、形のない刻々と変化するものである。感情に最も近いのは、小説でも絵画でも彫刻でも映画でもなく、音楽である。ゆえに、音楽が最も優れた芸術である。
LIVEの大音量では、感情に近い音楽が、心を揺さぶることによって、演奏者が伝えたい感情がダイレクトに伝わる。だからこそ、LIVEに感動するのではないだろうか。

B'zの稲葉さんは、LIVEはエネルギーの交換なんだ、と言っていた。バンドの生み出す音の振動がエネルギーとなり観客に伝わる。そして、観客の歓声もまた、振動エネルギーとなりバンドに伝わる。まさに「エネルギーの交換」である。
「光と神」のところで触れたゲーリーズーカフのいう「光の振動エネルギー」を思い出してみよう。高い振動数はポジティブな感情を起こし、強いパワーに満ちている。また、振動は人にも伝わっていく。パワフルな振動は周りの振動をもパワフルにする。そこで、音楽の振動は直接的である。音楽によって励まされた経験があるだろう。それは、音楽の振動が意識を振動させ、ポジティブな感情を引き起こさせたからなのだ。
音楽が振動であるがゆえに、エネルギーとして伝わり、感情に直接影響を与える。この点で、音楽は他の芸術に比べて最も優れていると思う。

エネルギーを振動として伝えられる音楽、感情に直接響く音楽、とりわけ大音量で高い振動数を伝えられるLIVEというのは最も優れた芸術活動であると思う。

LIVEのチカラ

2005年06月27日 | 音楽
ZARDのLIVEDVDを見てなんだか懐かしい気持ちになって、昨日はZARDのベストをヘビーローテーションです。「心を開いて」「永遠」がお気に入り。ZARDのオリジナルアルバムでは「HOLD ME」「揺れる想い」がいい。ベストよりもいい。
ベストに入ってない名曲があるから、オリジナルアルバムを聴いたほうがいいと思う。90年代後半からベストアルバムブームでベストばかりが売れているけど、ベストしか聴かないのはう○こだ。ベストは決してベストではない。ベストがベストになってしまうってのは、結局シングルだけのミュージシャンってことだろ?B'zにしてもL'Arc-en-Cielにしてもエアロスミスにしても、各アルバムがベストだと思うね。

先週はKICK THE CAN CREWのDVDを見てハマリ、今週はZARDのDVD、実は先週はラルクのDVDも見てラルクにもハマッていた。「SMILE」はデキの悪いアルバムだと思っていたけど、LIVEで聴いて見ると「time goes on」とか「feeling fine」とかがいいなぁと思って、「SMILE」を聴き直したりした。CDで聴くとイマイチだった曲がLIVEで聴くと急によくなったりすることはある。B'zの「Brotherhood」なんてすごくて、「We'll be~~~~、AAAAAALL RIGHT!!」ってシャウトを聴いてから、めちゃめちゃ好きになった。ミュージシャンにとって最高の表現の場はLIVEであると思う。LIVEがクソなミュージシャンはクソだ!
LIVEって、生でその空気を味わうのが最高であって、その感覚はDVDなんかには収まりきらないと思う。確かに、会場で見るのと家で見るのでは迫力が全然違う。だけど、LIVEDVDでキックにハマリ、ZARDにラルクにハマッた事実を見ると、LIVEの力ってすげ~なと思った。

夜は夜で暑くて眠れないから、眠れるようにクラシックな曲をと、松本さんの「House Of Strings」を聴いた。オーケストラとコラボっていいね。「恋歌」とか、癒されます。ロックの激しい曲からは想像もできない、クラシックで繊細な曲たち。松本さんの音楽の幅の広さを感じます。こういう静かな曲もいいものだ。改めて「House Of Strings」はいいアルバムだと思った。
しかし、真夏の熱帯夜に「いつかのメリークリスマス」を聴くオレっていったい・・・。

最終回

2005年06月24日 | パラソル
昨日は「アタックNO.1」が最終回だった。一昨日は「anego」が最終回で、明々後日は「エンジン」が最終回。今、最終回がブームです!
しかし私は最終回を見ません。なぜなら、最終回はつまらないからです。私が一番つまらないと感じた最終回は「ドラゴンボールGT」。悟空が死んでシェンロンに乗ってどこかへ行ってしまうというわけのわからない終わり方。それ以来私は最終回を見ないようにしています。
最終回はなぜつまらないのか。「ターミネーター」なんかでも、ターミネーターを倒してしまったら終わりです。あ~倒しちゃったんだ~。ホッとすると同時に空しい気持ちになります。ターミネーターに襲われているときのハラハラ感がおもしろいのです。次はどうなるんだろうというドキドキ感がいいのです。ターミネーターを倒してしまったら何もありません。
最終回までは、次回があって、次はどうなるんだろうという期待感があります。しかし最終回には次がありません。ドキドキ感がないのです。そりゃあドラマもいつか終わらせなければなりません。小説も映画もそうです。しかしその終わらせ方が難しい。視聴者が納得できる終わらせ方をできるかどうか。私は満足のいくラストをあまり見たことがありません。だったらこっちからラストを見ないようにしようと思うのです。

私には読みかけの小説がたくさんあります。その続きを読みたくてしょうがない。でも読んでみると期待はずれかもしれない。だから読まずに、このドキドキ感を味わっていたい。この気持ちはどこか恋にも似ている。

光と神

2005年06月23日 | パラソル
「魂との対話/ゲーリー・ズーカフ」は科学的ではないが、学ぶべきことは多かった。今回はその中から「光の振動数」について紹介しよう。

人間は光のシステムである。光の振動数は、意識のレベルによって変化する。嫌悪、羨望、恐れといったネガティブな感情は、振動数が低くパワーが弱い。好意、喜び、思いやりといったポジティブな感情は、振動数が高くパワーが強い。
人間は絶望や不安なとき、肉体的な消耗を感じるが、これは振動数の低いエネルギーのせいだ。逆に、喜びに満ちた人間は高い振動数のエネルギーによって、パワーに満ちている。パワーに満ちた生活を送るために、愛に満ちた思考、思いやりに満ちた思考によって、意識の振動数を高めるべきなのだ。

私としては「光の振動数」というのは比喩として受け取っている。ネガティブな思考のときは肉体的にも精神的にも力がなくなるし、ポジティブな思考のときはパワーに満ちているというのは確かである。


ここから本を離れて、「光と神」について最近思ったことを。

キリストや釈迦の絵には、その背後に光が描かれている。光は神の象徴である。象徴というよりも、神そのものではないだろうか。光が神で、キリストや釈迦は、人間が視覚的に捉えやすいように、光を投影したものではないだろうか。神が人間と同じ姿をしているわけはないのだ。光が神である。

話がズレるが、北海道の海岸線の長さはどれくらいだろうか?・・・答えは「無限」である。1mのものさしで測れば何kmという答えになるだろう。しかし、10cmのものさしならより細かい凹凸も計測されるので、もっと長く計測される。1cmなら、1㎜なら、ものさしを小さくするにつれて海岸線の長さは長くなってゆく。ものさしを無限に小さくすれば、海岸線の長さは無限になるわけだ。
しかし私たちは北海道の海岸線が無限だとは思っていない。北海道を1周できるのだから。それはもちろん、人間が1メートルのものさしの世界で生きているからだ。人間よりもはるかに小さなアリにとっては、まさに無限の長さに思われるだろう。

さて、光の話。宇宙の広さは昔は無限だと考えられていた。しかし今では、宇宙は有限であるとされている。計測に用いられたものさしは、光である。光にとって宇宙は有限なのだろう。そして”光は神”だ。
人間は光速を出すことはできない。そんな人間にとって宇宙は有限ではなく無限だ。海岸線における人間とアリのように、宇宙において神と人間である。光、つまり神というものさしを使って「宇宙は有限である」とするのは、人間の思い上がりではないだろうか。神と同じ視点に立とうだなんて。光速を出せない、神にはなれない人間にとって、「宇宙は無限である」と私は思う。


「光は神である」と書いていて、なんだか太田光が神であるみたいな気になってきた。私にとって太田さんは神である。

サイワールド日本上陸

2005年06月22日 | パラソル
今日のテーマは「サイワールド日本上陸」です。サイワールドというのは、世界中の珍しいサイを集めた動物園のようなものです。いってみれば、登別クマ牧場のサイ版みたいなものです。私としては、サイなんてどれも同じで差異なんてないからあまり見ごたえがないんじゃないかなと思うのですが、実名で登場するのが人気だそうです。また、「サイの目切りに怯えるサイ」という見世物も人気だそうです。そのとなりでは「火に怯えるサイ」を南海キャンディーズのしずちゃんが演じているのですが、サイの目玉を切るという斬新な演出にはまったくかなわないといった感じです。M-1グランプリでは斬新だった南海キャンディーズも、実力はたいしたことない。レッサーパンダもアソコが立ってる場合じゃない。
サイワールドの人気に乗じてゾウワールドとかキリンパークとか猫ひろしとか。カバワールドなんていって、世界中の珍しいKABAちゃんが所狭しと集まる風俗店なんかが出てきたりして、恐ろしいです。横浜ではラーメン博物館やカレーミュージアムなんてのが出てくるんじゃないでしょうか。以上、「トイプードル」でした。

太田さんのコラム風に書いてみましたけども、どうでしょうか。ツッコミが入ってないのでわかりにくいかもしれませんが。太田さんのコラムはとてもおもしろいです。「爆笑問題のススメ」でおなじみのコラムです。「爆笑問題のザ・コラム」という本も発売されています。ネットでも「太田光 コラム」で検索してみるとコラムを見られるサイトに行けるので一度見てみてはどうかと思います。
一応言っときますが、サイワールドはサイの動物園ではありません。韓国で話題のコミュニケーションサービスです。韓国人の4人に1人が会員になっていて、社会現象になっているそうです。私もブームに乗っかってサイワールドに登録しようと思ったのですが、書いてあるのが全部韓国語なのでぜんぜんわかりません。これは日本では流行らないなと思いましたね。

カルマの法則

2005年06月21日 | パラソル
「魂との対話/ゲーリー・ズーカフ」は科学的ではないが、学ぶべきことは多かった。今回はその中から「カルマの法則」について紹介しよう。

カルマの力学は「すべての作用が、力の等しい、向きが正反対の作用をともなう」という物理学の「作用反作用の法則」のようなものだ。他人を嫌悪すれば他人からの嫌悪を受ける。他人を愛せば他人からの愛を受ける。カルマの法則は「自分が世界に与えたものを世界から受け取ることになる」というものだ。
誰かに怒りをぶつければ、その人の中に新たな怒りが生まれる。その人は誰かにその怒りをぶつけるだろう。それがめぐりめぐって必ず自分に返ってくる。逆に、誰かにいいことをすれば、その人は誰かにいいことをしようという気持ちになる。それがめぐりめぐって自分に返ってくる。自分が幸せになりたいなら、誰かを幸せにするべきだ。それがポジティブなカルマの循環だ。

私たちは「自分の存在は、この生涯で終わってしまう。だから他人や宇宙に対して何の責任も負う必要はない」と考えている。だから日本の借金は膨大になり、化石燃料は大量に消費されてきた。しかし、輪廻転生というように、生命は循環するのだ。自分が生み出したネガティブなカルマは来世で自分自身が受け取ることになる。オゾンホールによる紫外線の被害は過去の人間のせいだとか、中国の反日運動に対して、戦争したのは過去の日本人だろうとか言うのは間違いである。オゾンホールを作ったのも、中国を侵略したのも、前世の自分であるからだ。前世で生み出したネガティブなカルマがめぐりめぐって現世の自分に降りかかってきているのだ。

輪廻転生なんて信じてはいないが、信じないことによって未来に強大な負債を負わせるのはよくないことだ。過去の人間の作り出した負債を経験している私たちならわかるはずである。過去の負債に怒って新たな負債を生み出すのはよくない。負の循環だ。輪廻転生を信じるならこんなことにはならない。誰が自分に強大な借金を負わせるだろうか?
ポジティブなカルマがポジティブなカルマを生み出す正の循環のためにも、私たちは輪廻転生を信じるべきではないだろうか。カルマの法則を信じるべきではないだろうか。

KICK THE CAN

2005年06月20日 | 音楽
先日、小泉首相が「クールビズ」について話していたのだが、私はネクタイもつけないラフなその格好に、一国の首相がそんな服装じゃだめだろう!と思って、それが気になってしょうがなくて、話なんか耳に入ってこなくて、「クールビズ」がなんなのか、未だにわかっていない

この1週間はKICK THE CAN CREWにハマっていた。頭の中では常にラップだった。会話もすべてHIPHOP風だったし、この文章も実はすべて韻を踏んでいる。LIVEDVDを見てやっぱキックはいいなぁと思って。KREVAが超かっこいい、さすがMCバトル3年連続優勝者!それで早速ベストアルバムを借りてきてヘビーローテーション。めっちゃええやん。キックは現在ソロ活動中だけど、3人集まってまたやってほしいと強く思う。「イツナロウバ」「sayonara sayonara」「TORIIIIIICO!」「magic number」がお気に入り。「sayonarasayonara」は私がはじめてHIPHOPで好きになれた曲で、もしもこの曲がなかったら私は今でもHIPHOPが嫌いだったかもしれない。ケツメイシの「さくら」のヒットにも無関心だったに違いない。
「さくら」といえば、2003年に森山直太郎の「さくら」がヒットして以来、04年には河口恭吾、05年にはケツメイシと、「さくら」神話が生まれている。音楽だけでなく小説でも、西加奈子の「さくら」がヒットしていたりする。思えばアメリカの初代大統領のワシントンが折ったのも「さくら」だった。

ここ最近睡眠時間が短かったりする。頭の中で常にラップだからめちゃめちゃ脳みそ使ってる気がするのだが。しかしラップというのは即興性のものなので、あまり考えずに出している部分があるので、だから脳に負担がかかっていないのかもしれない。
6月も後半になり、気温上昇、もう夏模様、ということで暑いから眠らなくてよくなっているのかもしれない。私は北海道出身なので横浜の暑さには本当にまいってしまう。全身から汗が噴き出し、集めてみたら10リットルもあった。体重も減り、量ってみたら32kgしかなかった。しかしながら太陽光はエネルギーなので、夏の暑い日というのは元気が沸くものだ。人間だって光合成しているんです。

晴れた日は外でカンケリでもしてみよう。

BIG HEART-大きなハート

2005年06月16日 | 心の探求
私が私だと思っているもの、いわゆる「自我」というものはどこにあるのだろうか。胸の真ん中に手を当てて「心はココにあるんですよ」なんていうのはロマンチストで、たいていの人は脳みそを指すだろう。他人と脳を交換したら、身体のほうではなく脳のほうが自分だと考えるのではないだろうか。見た目ではなく中身が自分なのだと。私はずっとそう考えてきた。しかし「生存する脳/アントニオ・R・ダマシオ」を読んで考えが変わった。ダマシオは心と身体を分離したデカルトの二元論を否定している。そしてそれは納得のいくものだった。
脳は身体からの信号を絶えず受信している。意識すれば身体のいたるところの感覚を知覚できるだろう。普段意識しなければそれは背景に押しやられる。だからしばしば見過ごされやすく、心と身体が切り離されてしまうのだ。身体からの信号は心に影響を与える。内臓の調子が悪かったら不快な気分になるし、血液中の糖分濃度が下がるとエネルギーの要求から空腹感を感じる。これはマクロなレベルだが、身体はもっとミクロなレベルでリアルタイムで心に作用する。
脳と身体の相互作用が心を形成する。臓器移植をした患者が急に性格が変わったという話があるが、当然のことだ。心は身体の影響を受ける。内臓ひとつをとってもそうだ。腎臓が変わればそこから来る信号は違った傾向になる。その微妙な違いが心に影響し、結果として性格が変わってしまったのだ。もしも心が脳のみによって作られているのならこんなことは起こらないはずである。

脳という主体が身体という入れ物を動かしているというイメージがあるが、それは間違いだ。進化の過程を考えればそれは明らかである。単細胞生物に脳はない。あるのは身体だけだ。単純な多細胞生物にも脳はない。しかしさらに進化して身体が複雑になってくると、その制御が難しくなってくる。そこで脳が必要になってくる。つまり進化の過程で身体が自らの生存のために脳を作ったのだ。いわば、身体のための脳、身体が生きるために脳は利用されているのだ。主体は身体のほうだったのである。
そもそも脳みそだけがあったってしょうがない。液体の中に脳みそがあってそれが思考するなんて、SFとかドラゴンボールのドクターゲロとかでみるけど、よく考えたらおかしくないか。タートルズに出てくるクランゲはヘンテコじゃないか。
脳ではなく身体のほうが主体なのだと考えるならば、脳死によってその人の死とするのはおかしい。脳死で死というのは、人差し指が壊死しただけでその人が死んだといってるようなものだ。
さてそんなわけで、脳と身体、そして心に関する私の認識は「生存する脳」によって一変した。思えばその兆しは「アメリカの階梯」のときにもあったような。心は脳だけではなく、身体も含めて心なのだと、私は私すべてが私なのだと思う。心は思っていたよりも大きかった。


直観に関して「ソマティックマーカー仮説」というものがあると「眠らないムーミン」で述べたが、その補足。脳に浮かんだ反応オプションが身体に影響し、身体は何らかの信号を返す。それが不快なものだったらネガティブなオプションとして排除される。そのプロセスがあらゆるオプションに対して同時に瞬時に行われるのである。身体的な(ソマティック)信号がマークされるので「ソマティックマーカー仮説」という。これによって推論すべきオプションの数は激減する。
科学における新発見は、可能性のあるすべてのオプションに対する推論の末に生まれるものではない。不毛なオプションははじめから浮かばないのである。すべてのオプションについて考えていたならいつまでたっても科学は発展しないだろう。ソマティックマーカーのおかげで人類はここまで進歩できたといっていい。

直観に関して別の見方。「魂との対話/ゲーリーズーカフ」から。直観とは五感を超えた知覚であり、危険に関する予感をもたらしあなたの生存に大きく貢献してきた。直観はインスピレーションとしても現れる。ある問題への突然の解答を与えたり、創造的なひらめきを与えてくれたりする。直観は暗闇に訪れる光であり、神聖なるものが存在する証である。直観とは、高次の自己(ハイアーセルフ)を通して行われる、パーソナリティと魂とのコミュニケーションであり、いわば組織内直観プロセスである。
直観を神聖なものとして見ているが、どうも私には・・・。ハイアーセルフとか、怪しい感じがするし。内容的にはソマティックマーカー仮説と同じような気もするのだけど。比喩みたいな。組織内直観プロセスよりソマティックマーカーを受け入れてしまうのは、私がまだ科学的な見方をしているということなのだろうか。

愛国心2-心の敵の不在

2005年06月14日 | パラソル
「愛国心」については以前書いたけど、再び考えてみた。

日本に愛国心がないのは当然だ。日本は輸入大国なのだから。日本は常に外国の影響を受けている。
鎖国していたころはよかった。侍、ちょんまげ、刀、日本独自の文化があった。しかしペリーの黒船来航により開国し、明治の文明開化によって日本の西欧化が進んだ。もはや日本は日本ではなくなってしまった。
日本人はとかく外国のものが好きだ。中印仏伊米あらゆる食が食されているのは日本だけだ。映画はほとんどアメリカ映画、私も邦楽より洋楽のほうが好きなくらいだ。
外国の影響を受け、外国を愛する、輸入大国日本に愛国心がないのは当然である。

先週「爆笑問題のススメ」で眞鍋かをり先輩がいいことを言っていた。日本の良いところは「心の敵がいない」ことだ、と。
日本人は、あの国を恨めとか、あの宗教を恨めという教育を受けないから、目先の敵はいるかもしれないけど、心の底から憎む敵がいない。そんな日本人でいられて幸せだ、と。
私は確かにそうだと感心してしまった。北朝鮮はアメリカや日本を恨んでいるし、イスラム教はキリスト教を恨んでいる。日本にはそういうのがない。心の底から恨むべきものがない。それは幸せなことだ。

しかし、敵がいないことがマイナス面を生んではいないだろうか。
敵の存在はエネルギーを生む。たとえば、私は中学生のとき、テストで順位を競い合うライバルがいた。ライバルがいたからこそ勉強をがんばれた。まんがなんかでも、悟空はベジータやらフリーザやら、敵がいたからこそ強くなれた。敵の存在がエネルギーを生み出すのだ。
中国なんかは13億人という国民をまとめるために、日本という敵をつくり愛国心教育を行っている、という見方もある。敵がいない日本は無気力ではないだろうか。エネルギー不足ではないだろうか。
敵国がいないから逆に愛国心もない。

敵がいないことのマイナス面を見たが「great-pumpking's blog」でいいことが書いてあった。
特定の国や宗教への憎しみに縛られていない国だからこそ、日本は国際社会で貢献できるのではないか、と。
なるほど、日本はスイス(永久中立国)になれるわけだ。
ハマコーさんなら、日本はアメリカの植民地だからアメリカの考えに支配される、と反発するかもしれない。たしかに、アメリカの敵である北朝鮮やイラクを悪の枢軸だと思っている私がいる。
しかし、アメリカの支配を抜け出し、スイスになることで、日本は国際社会で貢献するべきだと私は思う。

心の敵がいない日本、平和が好きな日本、愛国心なんて必要ないじゃないか。
日本という国を愛するのではなく、「地球」というすべてを愛するべきなのだ。
そしてそれができるのは日本だけなのだ。

オカマとゲイと女装趣味と

2005年06月13日 | ハコ
2004年はオカマの年だった。KABAちゃんをはじめ、山咲トオル、假屋崎省吾などオカマキャラが毎日のようにテレビ番組に出演していた。そして、オカマブームの最たるものは、QUEENのベストアルバム「JEWELS」だ。木村拓哉主演月9ドラマ「プライド」の主題歌「I Was Born To Love You」が話題を呼んだのは確かだし、それが“きっかけ”ではあったが、ミリオン突破までいったのはオカマブームの成せる業だろう。フレディ・マーキュリーは白タイツのオカマだ。というか、QUEENという名前からも明らかなように同性愛者だ。ハードゲイだ。そういう女性的なところがあの美しいメロディを生み出したのかもしれないが。そういえば、B'zの稲葉さんもQUEENのメロディは美しいと絶賛していたっけ。
さて2005年、土7バラエティ「バク天!」にてハードゲイが話題になっている。レイザーラモン住谷です、フゥー!!「ハードゲイの私が人助けをしてみました。」という企画にはじまり、今は「子どもの好き嫌いをなくす」という企画で毎週出演している。子どもの目の前で腰を振るのを見るにつけ、ゴールデンだぞ!と思ってしまう。夕食時にハードゲイだなんて!子どもたちがそれをマネするのを見ては、あぁ~と思うのだ。爆笑問題の太田さん絶賛というのもあるし、人助けなどやっていることはいいことなので嫌いではないのだが。ハードゲイへとオカマブームは進化した。
一時期、環境ホルモンでオスがメス化なんてのが問題になったが、昨今のオカマブームはその影響か?ゴールデンでハードゲイという状況を見ると、日本はどうなってしまうのだろうと不安に思う。「日本男児」はどこへ行ってしまったのだろうか。

ちょっと前に「堂本兄弟」200回記念の生ライブで忌野清志朗氏が見事なステージを見せてくれた。とても53歳とは思えないエネルギーだった。ロックってすげーなぁと改めて思った。彼のメイクはオカマに見えるかもしれないが、彼はオカマではない。「こんな夜にお前に乗れないなんて~」という歌詞からも明らかに男である。清志朗氏の女装はニューヨークドールズの影響だろうか。ニューヨークドールズは70年代前半、ニューヨークのアンダーグラウンドでもっともスキャンダラスなパンクバンドだった。たった2枚のアルバムしか残していないが、エアロスミス、ガンズンローゼズ、モトリークルー、ハノイロックスなどに多大な影響を与えている。ハノイロックスは今年18年ぶりの新作を出したけれど、強烈なエネルギーに満ちたロックだった。そしてそのメイクと女装が忌野清志朗とダブって見えたのだ。清志朗の重要性に改めて気づいたこの頃です。

売れない価値

2005年06月11日 | パラソル
室井さんの「美学の喪失」についての私の見解・感想。私が理解したところでは、芸術が「商品」になってしまい、売れる売れないで価値が決まってしまい、そこに美学はないと。巨大なスーパーマーケットにあるものだけがすべてではなく、そこには売られていない、商品化されていないものの中に「いいモノ」があるかもしれないと。いささか要約しすぎではあるけれど、こんなところで。
これに関連して、クライトンは、ランキングにあるものはたくさん売れ、ないものは売れない。ランキングにないものはもはや存在していないようなものになっている。その傾向は情報化にともない加速している。と書いていた。
現在いたるところで「二極化」が問題になっている。貧富の二極化、学力の二極化、そして売れる売れないの二極化。オレンジレンジの「MUSIQ」がダブルミリオンを達成したし、スマップの「世界にひとつだけの花」もダブルミリオン、いずれも2位以下を大きく引き離してダントツの売り上げだ。売れるものと売れないものの差が激しい。売れるものは馬鹿みたいに売れて、売れないものは全然売れない。レコード会社としては売れないものをいくつも出すより、宇多田ヒカルを一人つくればいいという考えだ。なぜこんなにも二極化が進んでしまったのか。クライトンはインターネットのせいだと言ってるけども。
「世界の中心で愛を叫ぶ」とか「電車男」とかバカ売れしてるけどそんなにいい作品か?と思ってしまう。売り上げと作品の内容は比例しない。山積みされている本と隅にちょこんとある本との間に大きな差はない。「売れる=価値がある」というのは商業的な見方でしかなく、芸術的な見方ではない。しかも室井さんがいうところでは、本屋にないものの中にいい作品があるかもしれないというのだ。その考え方は否定しないけども、しかし、
本屋にないものをどうやって探せというのだろうか。あるにはあるけども、その多くは駄作に過ぎないだろう。いい作品は世に出るものだ。それでも世に出ない傑作というのもあるかもしれない。しかしみつけるのはひどく困難だ。世に出ているものの中から探すほうが早いし、ランキングから選ぶほうが楽なのだ。そんなわけで私はメジャーなものしか取り入れないだろう。そんな人間が多くなってきているのかもしれない。高度なシステムの中で生まれ、効率ばかりを重視する傾向があるのかもしれない。

世に出ていない傑作を世に出すために、それを探し出す「ケンサカー(検索er)」を作ればいいと思う。それは芸術に関する資格を取ればなれる職業である。より情報化が進めば、ウェブ上に作品を公開するということで、世に出ない作品はなくなるだろう。しかしその膨大な量をいちいち見て回るのは消費者としてはつらい。ほとんどがムダ骨に終わるのだから。そこでケンサカーの登場。ケンサカーは毎日新しい作品を見て審査しよい作品を選び出し宣伝する。これにより消費者は選択の幅を大きく縮められるわけである。
まあ結局のところまたランキングか、という感じではあるが。作品の良し悪しなんて人それぞれで違うわけだから、ケンサカーの判断なんて当てにならない部分もある。そう考えていくと立ち往生するわけで、世の中答えの出ない問題は多いなとつくづく思うのです。

平和の歌

2005年06月08日 | パラレル
私の叫びはどこまで届くのだろうか。
私は毎週日曜日湘南の海に向かって、「世界が平和になりますように~!」と叫ぶ。それはまるでイスラム教徒が毎日聖地メッカに向かって祈りを捧げるような、宗教的な日課として私に課せられた使命のようなものになっている。しかし、
私の叫びはどこまで届くのだろうか。
アメリカはホワイトハウスにいるブッシュ大統領の耳に届くだろうか、今にも人を殺そうとしている狂人に届くだろうか。あるいは、太平洋の真ん中でマグロを釣っている青年に届くだろうか、深海を泳ぐリュウグウノツカイに届くだろうか。それとも、私のすぐとなりで自分たちの世界に入り込んでいるかのようにイチャつくカップルの耳にも届いていないのかもしれない。私のすぐとなりの国の将軍様にも届いていないのかもしれない。
ミュージシャンがLOVE&PEACEを歌うが、それが何になるというのだろう。ジョンレノンが平和を歌ったところで世界が平和になっただろうか。私の脳裏には、「イマジン」を聴きながら「これいい曲だなあ」と言いながら奴隷を撃ち殺すアメリカ兵の姿が浮かぶ。「想像してごらん、天国なんてないんだ、ハハハハ」アメリカ人はジョークが好きだ。
平和な国の平和を愛する人たちは平和の歌を笑顔で歌う。戦争の国の戦争を愛する人たちも平和の歌を笑顔で歌う。笑えないのは戦争によって虐げられた人たちだ。音楽で彼らを救うことはできない。

しかし私は平和の歌を否定するつもりはない。平和の歌によって笑顔になれる人たちがいるのだから。私はバカ日本代表が、ある期末テストで偶然創りあげた平和の歌を忘れられない。「♪ペース アイアム ペース オーマイゴーッ (アイワズペス!)」。つくづく平和だと思う。どんなに暗い気持ちも明るさで満たされ、自然と笑顔が溢れてくる。平和な国の平和を愛する人たちは平和の歌で笑顔になれる。

私は海に向かって、「世界が平和になりますように~!」と叫ぶ。世界中の人たちが平和を愛するようになってくれることを願って。4フィートにも満たない私の40デシベルにも満たない小さな声だが、すぐとなりのカップルの耳にも聞こえない小さな声だが、音の波が空気中を伝わる速度を超えて、世界中の一人一人の心に届くと信じて。

ちなみにバカ日本代表というのは、よゐこ濱口優と極楽とんぼ山本圭一のツートップのことである。「ラヴ&ペース」を生み出しためちゃイケの期末テストは本当にすばらしい企画である。バカまん若槻千夏が生み出した「一回きりのうっぽんの時間」も私は忘れられない。
Once upon a time...Peese I am peese oh my god...I was pesu!

ゼロ睡眠への招待

2005年06月06日 | ゼロ睡眠への招待
最近の私の平均睡眠時間は10時間(!!)である。中学高校と6時間睡眠だったのに大学生になってからだんだん睡眠時間が増えてゆき、このザマである。
春休みのときは特にひどくて、12時間睡眠にまでなった。1日の半分を寝て過ごすなんて!
そのとき私は思ったよ。
このまま睡眠時間が増えていったらいずれ永遠に起きれなくなるときが来るのではないか、、、
毎晩ふとんに入る度に、明日は無事に起きれるだろうかと心底不安に思ったものだ。
しかしながら結局あっさりと眠りに落ちるのだが・・・。
そして朝起きて(正確には昼起きて、、いや夕方!?)時計を見て愕然とする。もうこんな時間!また増えてる!(睡眠時間が)

人生のなかで睡眠の占める割合は大きい。平均睡眠時間が8時間だとして、1日の1/3が睡眠だ。寿命が81年だとすると、そのうち27年間も眠っていたことになる。これはとても大きな損失だと私は思う。
もしも眠ることなく生活できるとしたらどれだけいいだろう。27年も余計に時間を生み出せるのだ。平均寿命はだんだん延びてきたけれども、睡眠時間を減らすことによって延びる時間はその比ではないはずだ。
そこで、限りある人生をより長くするために、ゼロ睡眠の可能性について考えたいと思う。

半球睡眠~イルカのゼロ睡眠~
1日5食のゼロ睡眠
夏には可能なゼロ睡眠?
興奮がゼロ睡眠にさせる
ゼロ睡眠の妖精ムーミン??
直感によるゼロ睡眠
二十分睡眠

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