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54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

ミニスカート率と犯罪率の増加

2008年05月27日 | パラソル

基本的に男はバカです。
バカな男にミニスカートで挑発したら、興奮して犯罪行為に及んでしまいます。
そんな話。

女子高生のミニスカートは年々短くなっています。
このまま短くなっていったら、近いうちにワカメちゃんのようにパンツ丸出しにまで短くなるのでしょうか?
それとももっと短くなってベルトとパンツだけ、、、なんてことになるのでしょうか?
そうなったらなったで、おもしろくありません。
スカートの下を覗くあの感じがいいのですから

そもそも、パンツをチラッと見せる行為というのは、男性を挑発する行為なのです。
それは、襲ってくださいという合図なのです。
彼女が彼氏に、「今日はいいわよ♪」という、いやむしろ「今日はシテ♪」というメッセージなのです。
それを、不特定多数の人にやっているわけですから、、、
当然、レイプされますよ。男たちを犯罪に駆り立てるわけです。
それとも、最近の女子高生は乱交されるのがお望みなのでしょうか?

女子高生のミニスカート率と、犯罪率の増加は無関係ではないでしょう。
人間は犯罪とはギリギリのラインで生きているのです。
一歩間違えれば犯罪を犯してしまう。そんな危うい存在なのです。
ですから、ちょっとした刺激を与えてやるだけで、人間は犯罪を犯してしまう。
最近の都会には刺激が多すぎる。
犯罪が増えるのは当然の結果である。

女子高生のミニスカートを法律で完全に禁止してしまえば、犯罪の発生件数は激減するでしょう。
しかし誰もそんなことはしません。
みんな女子高生のミニスカートが大好きなのだから。。

恐怖の存在

2007年02月16日 | パラソル
9.11事件以後、米国議会が圧倒的多数でアフガニスタン爆撃に同意したのも、イラク攻撃に同意したのも、あおられた不安の持つ伝染力と金力と思考停止の集団心理の結果だった。

ヒトラーの右腕、軍事参謀だったヘルマン・ゲーリングの一九四五年の次の言葉は、支配者が不安をいかに活用するかを見事に語っている。
『もちろん人々は戦争を欲しない。しかし結局は国の指導者が政策を決定する。そして、人々をその政策に引きずりこむのは、実に簡単なことだ。
反対の声があろうがなかろうが、人々が政治指導者の望むようになる簡単な方法とは、、。国が攻撃されたと彼らに告げればいいだけだ。それでも戦争回避を主張する者たちには愛国心がないと批判すればよい。』

不安は支配の道具に使われる。

(森田ゆり『子どもが出会う犯罪と暴力―防犯対策の幻想』)


人間が最も行動的になるのは、その原動力はなにか。

ひとつは性欲である。セックスのためならどんなこともいとわないだろう。

そしてもうひとつは、生欲である。生きるための欲求。
人間は、あらゆる生物は、生命の危機に瀕したときに、最も活動的になる。身体機能が最大限に発揮される。

生命の危機、人間は恐怖を感じたときに、その脳はフル回転してあらゆる解決策を思考し、身体をアドレナリンが駆け巡りあらゆる行動に備える。

貧しい世界に住む人間は、恒常的に生命の危機にさらされているため、その行動力は凄まじい。
中国やインドの急速な経済発展は、若者のエネルギーの所産である。かつての日本もそうだった。
豊かな世界に住む人間は、生命の危機など感じることなく悠々と生活している。その行動力はなまけものである。
これでいいのだろうか?
日本の世界第二位の経済水準というのはもはや幻想である。

さて、レポートの締め切りが近づくと、あるいはテストの日にちが迫ってくると、私の行動力は最大になる。
ぬくぬくとしたローカロリーの大学生生活から一気に覚醒し、脳がフル回転し、レポートモード、テストモードになる。

それは私が生命の危機を感じているからだ。
レポート怖い、テスト怖い、、ガクガクブルブル、、、

本当は常に最大限の行動力を発揮していたいのだが、365日のなかで私が本当に生きているのは50日にも満たないかもしれない。
生命の危機とは無縁なぬくすぎる生活、、

心臓に銃口を突きつけて生きていけたなら。。

生死が人間を動かせる。。

そうそう、バレンタインデーにチョコをもらいましたか?あげましたか?

私はバレンタインデーのチョコにいい思い出をもっていない。
どうして女子たちはチョコレートばかりを渡すのだろうか?
みんながみんなチョコレートばかりもってきたら飽きるに決まってるだろうに。
最初の一個二個はおいしいおいしいと思って食べるけど、そっから先はだんだん飽きてきて、しまいにはチョコレート嫌いになってしまうよ。
チョコレートだけじゃなく、いろんなお菓子をそれぞれもってきてくれたらどれだけうれしいか、、。

ま、そんなわけで、山ほどのチョコレートを渡されてチョコ嫌いになってしまった幼き私は、それ以来女子にモテないようにふるまうようになったのでした。。

イマジネーション視覚論

2007年02月13日 | パラソル
何かイメージを思い浮かべる。
たとえば、リンゴのイメージを思い浮かべてみよう。(目を開けた状態で)
するとリンゴのイメージが浮かび上がる。
空中に浮かんでいるリンゴ、あるいは何かに乗っかっているリンゴかもしれない。
しかし、そのリンゴは本当に「見えている」のだろうか?
リンゴのイメージはあるけれど、目がそれを捉えているわけではない。
目では見えていないが、脳はそれを認識している、というべきか。

目で見るものと、脳で見るものがあるのではないか。
区別するために、目で見る方を「視る」、脳で見る方を「ミル」と表記することにする。

箱か何かの障害物の後ろをボールが飛び過ぎるとき、
○←■←○ ぴゅ~ (伝わるか?)
箱の後ろを通り過ぎる一瞬のボールは隠れているので目には視えていない。
しかしその軌道から、箱の後ろにあるボールのイメージを脳はミテイル。

ジェームス・ギブソンは光配列による直接知覚について論じたけれども、
人間は光配列にないものをもミテイルのではないだろうか。


・イメージは美しい

後姿の女性は美しい。あるいは、カサで顔が隠れている女性は美しい。
それは、その顔が視えないので脳がイメージをつくりあげるからである。
そして、脳は理想のイメージをつくりあげる。だからイメージは美しいのだ。

芸術について考えてみよう。
イメージは美しい。
視せる芸術ではなく、ミセル芸術こそが美しい芸術ではないだろうか。
イマジネーション視覚を呼び起こすような表現。

紙の上の絵の具の重なり自体ではなく、そこから引き出されるイメージ、それこそが真の美を呼び起こすのではないだろうか。
音楽でいうならば、鳴っていないはずの音が聴こえてくるような音表現。
聴かせる音楽からキカセル音楽へ。


・イマジネーション視覚が視覚になるとき

健常者がイメージを思い浮かべるとき、それはイメージだと認識してミテイル。
しかし、ある種の幻覚患者はイメージと実在のものとを区別できない。
イマジネーション視覚が視覚になるとき。
その目はイメージを視ているのだろうか?

イマジネーション視覚を視覚へと昇華させるものは一体なんなのだろうか?

レッツイマジン夢の世界。。

この件に関して参考となるような資料を知っていたらコメントかメールで教えてください。。

サンタクロースの存在

2006年12月20日 | パラソル
サンタクロースはいると思いますか?

私はいると思います。

サンタクロースの存在は確実に夢を与えてくれています。
子どもだけでなく、大人にまでも。

サンタクロースはいるんだよ、クリスマスプレゼント何がほしい?
クリスマスがやってくるとわくわくする。
子どもたちはサンタのプレゼントを楽しみにするし、
大人たちは子どもたちの喜ぶ姿を楽しみにする。

このわくわく感は、サンタクロースやクリスマスといったイメージが与えてくれるもの。
サンタクロースは私たちに夢を与えてくれているのです。

そういう意味でいって、私はサンタクロースは存在していると思うのです。。

もういくつ寝ると。。

僕は小学生のときサンタクロースの存在は疑問視してはいたけども基本的には信じていました。
プレゼントを買ってくれているのは親だと思っていたけど、それとサンタは別だろうと。

サンタクロースが自分のところにやってこないのは、自分が本当によい子ではないからだと思ってました。
本当によい子のところにだけサンタはやってくる。そう思ってました。
そう思いたいと思っていたのかもしれません。

実際、サンタにプレゼントをもらえるようなよい子はなかなかいないんじゃないか。
誰にだって非はあるでしょう。
子どもは無邪気なだけに、数々の過ちをも犯してしまうものです。
自分のとこにサンタさんが来ないのは、自分がよい子じゃないからだ。
そう思うことは、子どもの日々の行動の戒めになるのではないか。
自分の非を認め、正しい行いをしようと努めるようになるのではないか。
そんなことも思います。

サンタクロースなんかいないんだ、と初めから信じないのはやはり夢がないと思うのです。

ところで、、

サンタクロースイズカミントゥーター♪

サンタクロース is coming to 、、、ターってなんだーーー!!??

ノイズ

2006年11月20日 | パラソル
今日の私たちの生活は、無制限に送られてくる人工的な情報を受け入れることに多忙で、それを咀嚼することにさえ倦んでいる。
私たちは、いま、個々の想像力が自発的に活動することが出来難いような生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、この儘、退化へ向かってしまうのではないか、という危惧すら感じる。
今日、文明先進国から、嘗てのようには、強い個性をもった芸術が多く現れていないのは、見出したり、聞き出したりする能動的な行為を、人間が、他の機械的手段(技術)に委ねてしまったことに由るからではないだろうか。
(引用:武満徹『私たちの耳は聞こえているか』)

パソコンの前で文章を考えてもなかなか考えが浮かんでこない。
紙と鉛筆で考えるほうが断然文字が浮かんでくる。
だから私は一度紙に書いて文章をつくってから、パソコンに打ち込むようにしている。

パソコンの前だとアイディアが浮かんでこないのは、パソコン本体の冷却ファンの雑音が原因ではないだろうか。あるいはディスプレイから発せられる光。
人工的な(不自然な)音と光が人間の思考を遮ってしまうのではないだろうか。
パソコンに限らず、テレビを見ているときやテレビゲームをしているときなど、自分が単純思考に陥っているという実感がある。

また、夜のほうがさまざまな考えが浮かんできやすいのは、昼に比べて夜のほうが人工的な雑音が少ないからではないだろうか。

やはり「無制限に送られてくる人工的な情報」が人間の思考を鈍らせているように思われる。

人工的な“ノイズ”に囲まれた現代社会においては、人間の想像力はどんどん失われていっているのではないだろうか。
短絡的な考えしかできず、簡単に過ちを犯してしまう。

人間が本来もっている機能を他の機械的手段(技術)に委ねることによって、人間の機能はどんどん弱体化してゆく。
たとえば、化学物質による殺菌によって衛生的になる一方で、人間の抵抗力免疫力は低下している。
これは進化ではなく退化だ。

この世界はカオス的であり、それが崩壊するにはほんの小さなきっかけで十分である。
これはマイクル・クライトン『ジュラシック・パーク』でマルカム博士が言った言葉である。。

刺激が欲しけりゃ馬鹿になれ、というか刺激があるから馬鹿になる。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

あ、あ~、なんか嫌な感じ♪
これを打ち込んでる間も脳が単純思考に陥っている感じがしています。
ゲーム脳というのかね、、

冷却ファンうるせー。。

少年時代

2006年10月12日 | パラソル
少年時代が、真っ直ぐ過ぎてゆく
大人になった心は、あんまり無茶をしなくなる

「将来は宇宙飛行士になって、地球を愛で包み込みたい!」
おんなじことを叫んでも、あの日の鼓動は戻らない

太陽が昇って、沈んで、月が昇って
チカチカする時間のなかで、僕が消えてゆく

心はどんどん丸くなって、
もう何も壊せない

もう何も壊せない

少年時代が、真っ直ぐすぎてゆく
大人になった心は、あんまり無茶をしなくなる

心のどっか奥のほう、記憶はずっと覚えている。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

「ドラゴンクエスト7」のキャッチコピーは「人は、誰かになれる」だった。

子どもの頭はやわらかい。
確固たる自我が形成されていない子どもの精神は、どんな人間にもなれる可能性をもっている。
子どもは、日々違う人間に変わってゆく。

しかし、大人は。

人間は適応能力が高い。
一度適応してしまうと、変化を拒む。
長い時間の中で形成された大人の心は、大きく変わることはもう無い。
大人は、もう誰にもなれない。

小学生のときの自分と、今の自分。
考え方や志向性、精神のあらゆる点が違っている。
全く違う人間。
自己が同一性を失う。

心のずっと奥のほう。
私はどうしても、脳ではなく、心臓を意識してしまう。

東京は快楽、夢を見る

2006年10月10日 | パラソル
東京は快楽、夢を見る
照明は感性を眠らせる

一人で行って頂戴
移動する運賃もっていない 終電前

バーボンでぶっ飛んで ロックで歌うのさ
裸で冬を踊って過ごせ
涙で宇宙が曇って見えないさ
誰かマシンガンでガラスに穴空けて

////

照明は感性を眠らせる

蛍光灯の光と太陽の光はまったく別物である。
光の強さが違う、位置が違う、、、

しかしなによりの違いは、これは感覚的なものだが、
蛍光灯の光は死んでいて、太陽の光は生きているような、気がする。

蛍光灯の光、人工光は疲れを誘発するのに対し、
太陽の光、自然光は覚醒を促し、エネルギッシュにさせる。

どんなに照明が発達しても、人間は基本的に昼間活動する。
それは人工光が自然光を再現できないからだ。
人間は生きている光を作り出すことができない。

夜型人間は増えている。この私も含めて。
しかし、照明は感性を眠らせる。

太陽の下で、生きていたい。。

日の光サディスティック。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

月の光には「ブルーツ波」が含まれていて、
サイヤ人は大猿に変身するが、
ブルーツ波は人間にも作用するだろうか。

つまり、月の光は人間を衝動的にさせるだろうか。
たとえば、夜、急に好きな人に告白したくなったりするだろうか。

一晩中「ドラゴンボール」を読み続けたことは、ある。
一晩中「るろうに剣心」を読み続けたことも、ある。

月の光は人間を衝動的にさせるだろうか?

それとも、夜は人間を単純にさせるということか。
つまり、理性が眠ってしまい、本能が剥き出しになる。

徹夜で勉強するというのは、
モチベーションなのか、それとも。。

ひらめく道

2006年10月07日 | パラソル
鏡に映った自分の顔をしばらくみつめていると、そのうち自分が見ているものが一体何なのかわからなくなってくる。
それは本当に自分なのか。それは本当に人間の顔なのだろうか?

ある一定の時間、対象を見続けると、その確固とした意味が失われてしまう現象を「ゲシュタルト崩壊」という。
脳の神経細胞は同じ活動モードを続けると、その軌道から逸脱する傾向を持っている。

同じ事を続けるのは耐え難い。脳は新しい刺激を求める。


京都に「哲学の道」と呼ばれる川沿いの道がある。哲学者の西田幾多郎が散策しながら哲学の問題を考えたことで知られる。
歩くことと思索は相性がいい。歩きながら考えるとひらめきやすい。
しかし、どのような道が適しているかというと、例えば毎日歩く自宅から学校までの道のように、慣れ親しんだ道がよい。
新しい道だと、珍しい景色に注意がいってしまい、脳がその情報処理に忙しくなってしまう。
慣れた道だと、外の情報を処理する必要がないため、脳が空っぽの状態になる。すると脳は自らの内面に注意を向けるようになる。そしてさまざまなアイデアが浮かび上がってくる。

(参考文献:「脳と創造性」茂木健一郎)

たしかに、学校やバイト先へ自転車をこいでいるといろいろなアイデアが浮かんでくる。
中学生のときに歌を作ったのはいつも通学帰宅途中の自転車の上だった。
それは自転車の車輪とともに脳を回しているからだと思っていたのだが、そういうわけであったか。

最近散歩が趣味です。
おじいさんか!という感じもしますが、朝の空気は気持ちがよい。
散歩してると、犬を散歩しているおばあさんとかが「おはようございます」なんてあいさつしてくる。私も「かわいい犬ですね」などと何気ない言葉を交わすのだが、こんなゆっくりな時間はなかなかよいものだと思う。

自然の中を歩くというのは気持ちがいい。
私はいつも保土ヶ谷公園を通るようにしている。
人間は木々など自然からのエネルギーを分けてもらっていると思う。
「元気玉」である。

自然の中を散歩していると、胸の真ん中辺りに元気玉がつくられる。。

オラに元気を分けてくれ。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

新学期がはじまったけども。「ドラゴンボール」と「24-twenty four-」にハマってて眠れない日々が続いています。
いや、ヘンな時間に眠ってしまい、生活リズムが崩壊しているというか。
太陽の光をあまり浴びれないので風邪気味です。
ビタミンE不足。
もやしです。。

エネルギー波の理論的考察

2006年09月30日 | パラソル
さて、今回はエネルギー波を理論的に考察してみる。
というか、伝授します。
(前回の瞬間移動といい、今回のエネルギー波といい、最近「ドラゴンボール」にハマっています。全巻買ってもた、、)

拳を握り、右腕に力を入れる。すると筋肉が膨張し、震える。
このとき、膨張した筋肉によって血管が絞まり、急激に血流が速くなる。
血流が速くなると、摩擦により熱が発生する。その熱は手のひらから水蒸気として発散される。
いわゆる「気」である。
握った手のひらが「気」によって熱くなるのがわかるだろう。
右腕の震えは急激な「気」の流れによって起こる。

ここで手を開こう。もちろん腕に力は入れたまま。
そうすると普通、「気」は空気中に拡散してしまう。

「エネルギーは自然に還る」である。

しかしここでなんとか「気」を手のひらに溜めてみよう。
イメージとしてはボールを握るような感じ、で「気」を離さないようにする。
手のひらを見つめて「気」の球を「見る」のもいい。
これが「気」のコントロールである。

さて、溜まった「気」をどう放つか。
野球の投手のように投げてもいいのだが、素人の投げる球など程度が知れている。

「気」は「気」で放つものなのだ。

腕を勢いよく伸ばし、膨張した筋肉を一気に弛緩させる。
すると、絞まっていた血管が元に戻り、それより前の「ここらへん」に溜まっていた血液が一気に流れ込み、膨大な熱が生まれる。
その熱は手のひらから「気」として放出される。
それによって、手のひらに溜まっていた「気」がこの新たな「気」によって飛んでいく。

これがエネルギー波である。

さて、私もエネルギー波を撃ってみたのだが、戦闘力の低い私が撃ってもティッシュが少し吹っ飛ぶくらいのたいしたことないものだった。
岩を吹っ飛ばしたり、ましてや地球を吹っ飛ばすくらいのエネルギー波を放つにはやはり戦闘力530000(フリーザ)くらいないとダメかね?



ちなみに、「かめはめ波」は両手のひらを合わせるので「気」を溜めやすい。
手のひらの間がより熱くなるのを感じるはず。

逆に、二本の指だけで放つピッコロの「魔貫光殺法(まかんこうさっぽう)」や、腕を伸ばしたまま放つベジータの「ビッグバン・アタック」は難しいだろう。。

FALLEN ANGEL

2006年09月19日 | パラソル
FALLEN ANGEL-堕天使とは、生まれ落ちたばかりの天使のような赤ん坊を指すのではない。

堕天使が真に意味するのは―――堕胎だ。


多くの人間にとって、胎動前の堕胎はよしとされている。胎児が動き出す前、正確には母親が胎児が動いたと感じる前なら、胎児にはまだ魂が宿っていないと考えられているからだ。

しかし考えても見てほしい。量子論的多世界の時空連続体においては、受精卵が誕生した瞬間にすでにあらゆる時空の世界が生まれるのだ。
受精卵が成長し、産まれ、子ども期を過ごし、大人になり、老いて死んでゆく、そのすべてが、受精卵が誕生した瞬間につくりだされる。
なぜなら、時間と空間はひとつながりであり、過去と未来が同時にすべて存在しているからである。そして、光は同時に無数に存在し、無数の宇宙をつくりあげているからである。

だからたとえ胎動の前であっても胎児を潰すというのは、ひとつの人生を潰すということなのである。
胎動前の小さな胎児を潰すことがどんなに簡単だとしても、たとえばカタツムリを指で軽くつまみ潰すくらい簡単だとしても、その小さな生命がもつ無数の未来を潰すことを考えると、とても簡単なことではないはずなのだ。

「中絶」とは「中で絶する」と書く。産まれてもいないのだからまだ始まってもいないと考えるかもしれないが、しかし受精卵が誕生した瞬間から、生まれてから死ぬまでのあらゆる未来が形成されるのである。時空連続体とはそういうものである。

一人の人間が消えるというのは大きなことである。
自分の身の回りにいる誰かの存在が、ある瞬間に、最初からまったく存在しなかったことになるということを考えてほしい。突然亡くなるというのではなく、最初からいなかったことになる、消えるとはそういうことである。
自分の人生に大きな影響を与えた人間がもしも消えてしまったら、私という人間はまったく違う人間になってしまう。そんな人間が何人もいる。
一人の人間が消えるというのは大きなことである。
どっかの知らない誰かの存在が消えたとしても、私にとってはたいしたことではないが、しかしそのどっかの知らない誰かはどっかの知らない別の誰かに大きな影響を与えているに違いないのだ。
私が消えても誰も困らないと思うが、しかし未来のどこかにおいて私は誰かにとって大きな影響を与えるかもしれない、そうに違いないのだ。
一人の人間が消えるというのは大きなことなのだ。

生まれる前の小さな胎児を潰すことくらいわけない、誰も困らない。違う。多くの人間の存在が危ぶまれるのだ。時空連続体の中で大きな影響がでてくるのだ。


天使は堕ちるために存在するのではない。翔ぶために存在するのだ。

中絶を中絶すべきである。。

Where can dolls burn in...

エアロスミスのスティーヴン・タイラーはこう歌った。

Where do fallen angels go (堕ちた天使達はどこへ行く)
I just don't know            (俺にはわからない)    
Where do fallen angels go        (堕ちた天使達はどこへ行く)  
They keep falling, falling, falling... (次から次へと堕ちてくるのに)

There's a candle burnning...      (またこの世のロウソクに一本火が灯る)

(AEROSMITH「Fallen Angels」)   

音楽の力-意識の交流を直流に-

2006年09月14日 | パラソル
音楽のはたらきのひとつに、不安を解消する、というはたらきがある。

たとえば、親から離れたひよこに音楽を聞かせると鳴き声が減るため、音楽が不安の症状を和らげることがわかっている。

人間が抱える最大限の不安は「死」である。だから、死の儀式は特に大切で慎重に行われる。儀式の音楽は集団に安堵感をもたらす。
(参照:「音楽する脳」ウィリアム・ベンゾン)



人間の意識を電流にたとえてみよう。
普段の人間の意識は交流である。神経を電気信号があっちへこっちへ伝わっていて、まとまりのない、いろんな思考が同時に存在するような、不安定な状態。その状態が不安を生み出す。

音楽は交流の意識を直流に変換する。音楽のリズムが不安定な神経信号を整えてゆく。音楽がもつ一つの感情へと収束させる。音楽のリズム、メロディに感情をゆだねたとき、精神は最も安定した状態となる。不安は消える。

音楽に身をゆだねると、音楽以外の思考が消えてなくなる。音楽だけがある。だから、そのとき抱えている不安などは一切気にならなくなる。
この作用は音楽以外にもある。
たとえば読書。SFファンタジーの世界にどっぷりはまりこんでいるとき、現実世界のことなど頭からすっかり消え失せてしまう。そこに不安はない。

結局現実逃避のように思えるが、しかし死の恐怖におびえることはどれだけ意味のあることだろうか。余計なことを考えすぎて起こる不安は邪魔なだけだろう。
余計なことを忘れさせてくれる音楽はAC/DC、意識を交流から直流に変えてくれる。

最近また音楽をたくさん聴いてます。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

B'zのLIVE-GYMは特に、現実世界のあらゆることが消えてなくなる。
世界が一つになり、どんなことでもできるような気持ちになる。
身体はいつも以上に動き、腹の底から声が出てくる。
エネルギーに満ち溢れた状態になる。
音楽が集団の精神を一つにし、爆発的なエネルギーが生まれる。

ロックがなぜ心地よいかというと、ドラムの4拍子が心臓の鼓動と一致するからだという。
だからロックのリズムは乗りやすいし、集団の精神を一つにさせる。

心臓の鼓動をはじめ、生命とは音楽なのだ。。

虫けらの生き様

2006年09月08日 | パラソル
セミの鳴き声が聞こえてくる。でもそのセミが一体どこにいるのかが見えない。この木のどこかにいるはずなんだけどなあ、、。探せどセミの姿は見当たらない。
なんだか木が鳴いてるみたい。。

セミはなぜ鳴くのか。セミは明らかに自分のキャパ以上の大音量で鳴く。あの小さい体からどうしてあんな大音量が出てくるのか。セミは大音量の鳴き声のために1週間で死んでしまうという。その生き様。
命をかけてでも伝えたい想いがある。。

夏の終わり。どこからともなくセミの鳴き声が聞こえてきた。一際大きな鳴き声だった。どこにいるのか探せどみつからない。やがてそのセミの鳴き声は止んだ。それが最後の一鳴きだったのだと知った。
なんだかせつなくなった。。

蚊は人間の血を吸って生きている。しかし、蚊にとって人間とはあまりにも強い相手ではないだろうか。人間も巨大なマンモスを相手にしてきたこともあるが、蚊と人間の体格差はその比ではない。巨大な人間を相手に立ち向かっていく蚊の生き様。
はかなくも散ってゆく大量の蚊の亡骸たち。。

飛んで火に入る夏の虫。外灯に勢いよく激突して死んでゆく虫。キャンプファイヤーに飛び込んで燃える虫。虫けらは光の中に何を見ているのだろうか。向光性は進化の中でなぜ生まれたのか。
高校生は光に向かっていく性質。。

虫けらは虫けらなりにカッコいい生き方をしているのだなと思った。
セミの最後の一鳴きがそんな気持ちにさせた。
一つの目標に向かって迷いもなく突き進んでいけるその生き様がうらやましいと思った。。

俺はまだ虫けら以下の存在だよ。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

今日のヘビーローテーションは宇多田ヒカル「ULTRA BLUE」です。
「This Is Love」「誰かの願いが叶うころ」「Be My Last」をはじめ、いいアルバムだ。。

止まんないヤツが勝つ

2006年09月05日 | パラソル
童話「ウサギとカメ」の教訓。

止まんないヤツが勝つ

ウサギは足が速いけど、最後に怠けて止まってしまった。
カメは足が遅いけど、最後まで止まらずに走って勝った。

継続は力なり。

思い返せば私は止まってばかりだ。
読書も、ギターも、空手も、マラソンも、各種勉学も、、
私はウサギ、、
何一つ身についていやしない。
中途半端に投げ出してしまったあれやこれ。

小さい頃からずっと、
あきらめることに慣れていたんだ。

一つのことにずっと夢中になってはいられない。
長い間やってるとだんだん飽きてくる。
次の楽しいことに気持ちが移ってしまう。
浮気な心。
おかげで何一つ手に職めいたものをもっていない。

止まんないヤツが勝つ。

でもな、集中力はなかなか持続しない。
テスト勉強を3週間前からやり始めたら、1週間前で集中力が切れて、せっかく早めに始めたのに3日前にはゼロに戻って、あわてて、テストではど忘れの連続でボロボロ、、
2週間前からはじめるのがちょうどよかったり。

走り続けるのは難しい。
いや、不可能。

「ウサギとカメ」のカメだって、ゴールしたら止まったんだ。
ずっと走り続けたわけじゃない。
どこかで止まるはずなんだ。

結局、目標が定まっていないから、止まる目安がないから、ペース配分もモチベーションもなく、だらだら、そのうち疲れて、てきとーに止まる。
何も達成しないままに。

必要なのは確かな目標。
高い目標があると、人間はがんばれるんだ。

たとえば大学受験のあの頃。
受験の6ヶ月前にゼロから独学ではじめた物理をたった2ヶ月でマスターした。(マスターといっても模試で80点レベル、、)
あのとき、特に最初の2週間くらいが人生の中でもっとも勉強した瞬間だった。

止まるために走る。
そのゴールまで止まんないヤツが勝つ。
止まらせないのはゴールへ向かう強いモチベーション。。

その目標を設定するのが難しいんだよ、ばかやろう。。

土屋アンナのアルバム「strip me?」に元ガンズ・アンド・ローゼズ、ヴェルベット・リボルバーのダフ・マッケイガンとマット・ソーラムが参加してると聞いて驚いた。
NANAの主題歌「rose」をはじめて聞いたときはそのあまりのロックさに驚いたけども、ダフとマットが参加してるとは、、
アルバムはまさにヴェルベット・リボルバーを髣髴とさせるようなヘビーな曲もあって、土屋アンナすげー!と思ったョ。。

スカベンジャー

2006年08月22日 | パラソル
恐竜の王、ティラノザウルスのイメージといえば、物凄い速さで襲ってきて、強烈な顎ですべてを噛み砕いてしまう、そんなイメージ。

しかし、ティラノザウルスは本当はのろまで、死肉を食うスカベンジャーらしい。
短い腕と足は狩りには向かないらしい。

恐竜の王がスカベンジャーだなんて!

しかし、似たようなことはある。
百獣の王、ライオンだ。

ハイエナはライオンの食べ残しをいただくというせこいイメージがあるが、
実際はその逆で、ライオンがハイエナの食べ残しをいただくのだ。
ライオンはスカベンジャーなのだ。

恐竜の王も百獣の王もスカベンジャーだなんて!

この流れで行くと、昆虫の王、ムシキング、カブトムシもスカベンジャーなんじゃないか。
カブトムシの主食は木の蜜。
死肉、、ではないが、狩猟ではない。

う~ん、カマキリの方が強そうに見えるけどな~。
カマキリとカブトムシで対決させてみてよ。
でもカマキリのカマはカブトムシの甲羅を破れないような、、

さて、我々人間もまたスカベンジャーである。
死んだ肉を食べております。
人間は生物の王なのに、、

狩猟するリスクを負うことなく、スーパーで買った死んだ豚肉を食べておるのです。
昔々はマンモスなんていう巨大な動物を狩っていたのに、
今ではでかくてせまい豚小屋で大量の豚を飼っている。

唯一狩猟の本能を忘れていないのは釣り好きな人たちだけだろう。

恐竜の王も百獣の王も生物の王も、みんなスカベンジャー。
つまり、王様は働かない。
下々の者が狩ったものを頂戴するのだ。
そういうこと。

しかしだね、我々人間は本来戦闘民族なのだ。
狩猟動物なのだ。
群れで行動するのは集団で狩りをするためだ。
集団での狩猟のために人間の最大の特徴である言語が発達したのだ。

現在の我々の脳みそは理性が発達して本能の割合は少なくなっているが、
それでも狩猟の本能は存在する。
だから我々はときどき攻撃的になる。
狩りをする。

ゴキブリや蚊を殺すのはもとより、猫などの小動物を殺したり、人を殺したり、その最大級のものは戦争であろう。
なぜ殺すのか?
それは我々が狩猟民族だからである。

スカベンジャーになりさがり、慢性的に狩りをしなくなってしまったからこそ、
狩猟民族としての本能がときに暴走してしまう。

だから我々はときどき、狩猟民族としての本能を発散させてやらなければいけない。
攻撃的衝動をどこかに出してやらなければならない。

ボクシングジムでサンドバックを思いっきり殴るでもいいし、森に行って昆虫採集したり、川へ釣りに行ったりするのもいい。もりを持って海に潜って巨大イカを獲ったどーしてもいい。

我々の身体に眠る攻撃的本能、MONSTERをうまく解放してやりましょう。。

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今日のヘビーローテーションは中ノ森BAND「Fly High」と高橋瞳「コミュニケーション」です。(リンクはYoutube)
中ノ森BANDの「Oh My Darlin’」、高橋瞳の「sympathy」はどちらも今年2006年を代表する傑作アルバム。。

夜の種族

2006年08月21日 | パラソル
連日深夜バイトなので生活リズムが昼夜逆転しております。
雨音薫の気持ちです。

土日は休みなのだけど、昼間はずっと寝ているので、起きたら夕方とか、、。
するとせっかくの休みなのにどこにも行けん。
夜に外出する気にはなれん。

太陽の光を浴びないと心が枯れちゃうんだよ。。

部屋にこもってばかりいると気持ちが停滞して鬱々してくる。
掃除をしないと気持ちまで汚れてしまう。

このままではいかん。
睡眠時間4時間で生きるしかない。

しかし僕はロングスリーパー、、

こんなバイト続けてたら生きていけん。
しかしバイトしなけりゃ生きていけん。
どっちにしろデス。

そんなわけで夜空の下に飛び出してみた。
夜でも月が太陽の光をうっすら届けてくれるよ。
I feel moonlight..

残念ながらお月様は見当たりませんでしたが、、
星がいくつか見えた。

夜は涼しくて、人がいなくて、散歩するにはちょうどいい。

猫だけがお友達。

一匹の猫と目が合った。
何か気持ちが通じるものがあった。
お互い孤独なのだと感じた。
夜の種族。
言葉は何も交わさずに、だけど何かを感じながら別れた。

夜の公園でブランコしようとしたら、
鎖の間に思いっきりクモの巣が張ってあって、そうとは気付かないオイラは捕らえられてしまいました。
大きなくもの巣、身動き取れないオイラは近くに巨大クモの存在を感じながらビクビクしておりました。
するとそこへ数匹の蚊がプ~ンと飛んできて、オイラが身動き取れないのをいいことに腕から足から血を吸っていくのでした。
なんだこの蚊とクモの連係プレーは!
血を吸われて弱ったところを巨大クモが仕留めにくるって作戦か。
血を吸われたオイラは少しめまいがしてきた。
くそっ、殺られる、、
そう思ったとき、大きな黒い影がビュッと飛んできた。
もう終わりだ!
そう思ってオイラは目を閉じた。

しかし、目を開けるとオイラはクモの巣から自由になっていた。
あれ?オイラ、巨大クモに襲われたんじゃ、、
見てみるとそこには先ほど目が合った黒猫がいた。
ブラックキャット、、君が僕を助けてくれたんだね。
再び目と目を合わせると、また何も言わずに去っていった。
僕はその背中に、声には出さずに「ありがとう」と思った。。

ブランコにクモの巣が張っているというのは悲しいことである。
僕は木の枝でクモの巣を払ってブランコしてみた。
が、、立ちこぎできない自分がいた。
は、恥ずかしい!

そういや俺は子どもの頃公園で遊ぶことなんてあんまりなかったな。
家でテレビゲームばっかりやってた。
僕は風の子ではなく、家の子だった。
たまにブランコやるにしても誰かに後ろから押してもらってたな。
そして、押すやつはみんな馬鹿だからアホみたいに勢いをつけやがる。
やめろよ!と言っても、やめない。むしろより激しく勢いをつけやがる。
俺は上島竜兵じゃないのに!
でもそうなるとわかっているのに、いつも押してもらってた俺が一番馬鹿だったな。

21歳になった今、僕は初めてブランコを自分でこいでみたんだ。
立ちこぎはなかなか難しくて、最初はうまくいかなかったけど、
いろいろ試しているうちに、ふとコツをつかんで、できるようになった。
お母さん、僕は21歳にして初めてブランコの立ちこぎができるようになりました。
(この場合の「お母さん」はお月様、MOONのことを指します。。)

ブランコってこんなに楽しいんだね。
このことを子どもの頃に気付けていたら、僕の人生はこんなことにはならなかっただろうに、、
と、今頃思ってもしょうがない。
いや、むしろ一生気付かないまま終わってしまうのではなく、今気付けただけでもよかったと思うべきだろう。

こんなことをすべて部屋の中で考えて書いている俺は一体何者なのだろう?

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現実と非現実と、、
俺は小さい頃から嘘つきだったなあ。
ついていい嘘とついていくない嘘があるとすれば、、
この嘘はどうなんだろうね?
いや、どこが嘘なんだろうね?

クモの巣に捕らえられて身動き取れなくなったのは本当だろうね。。