54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

色による時間の遅れ

2006年05月02日 | 飛行する時間
赤や橙色などの暖色系に囲まれた環境では時間を長く感じる。
赤い部屋で会議をさせた実験では、実際の時間が3時間だったのに、誰もが6時間かかったと言ったという。

反対に、青や青緑などの寒色系は時間を短く感じさせる。
「1時間たったかな」と思うと、実際は2時間経過していたというぐあいに。これも実験によって寒色系の部屋では、実際の時間経過を半分に過小評価することがわかっている。

G・ブライハウスによる筋肉反応のテストでは、赤色光のもとでは反応が12%すばやくなるが、緑色光になると反応が遅れることがわかっている。
色によって時間感覚が狂ってしまうこともこの反応と密接に関係している。

参考文献:色の秘密―最新色彩学入門野村順一

つまり、赤い環境で生活すれば時間が2倍になるわけで、人生が2倍になるということで、すばらしい。
赤色光のもとでは筋肉反応がすばやくなる。脳の思考もすばやくなるのかもしれない。だから同じ時間でもより多くのことができる。

赤は強い振動エネルギーをもっている。牛は赤に興奮するし、赤は体温を上昇させる。赤い色を見ると、赤い光を浴びると、エネルギーに満ち満ちるのだ。

青い布団に寝そべって本を読むなんて最低のことをしていたわけだよ私は。

しかしながら、赤には興奮作用があり、イライラしやすくなるので、赤い環境だけがすばらしいというものでもない。色色な色をバランスよくTPOに合わせて使うのがよろしい。

>>「心理的時間の遅れ」 >>「遅れる時間を見る」

時間をおくれ。。

ピンクを着ると若く見えるらしい。
これも一種のタイムトリックだね。

移動製時間論

2006年04月23日 | 飛行する時間
この世のすべての物質が静止していたとしたら、そこに時間が流れているといえるだろうか。一時停止させたビデオの映像を見ているとき、時間が止まっているとはいわない。観測者は静止していないからだ。では観測者も含めたすべてが静止したとしたら。そのときは時間が止まっているといえる。
物質が移動することによって初めて時間が生まれる。移動前の位置、移動後の位置、つまり前後の関係が生まれることが、時間の存在に必要なことなのだ。時間が流れているというには、物質の移動が必要である。物質の移動が時間を製造しているといえる。私はそういう観点から「移動製時間論」というものを提唱したい。

時間の最小単位

時間の最小単位はなんだろう。それは物質の移動の最小単位と同一である。量子論、ひも理論でミクロなレベルの研究はあるが、物質の最小値は未だわかっていない。いや、永遠にわからないだろう。しかし理想としては、移動距離の最小値が時間の最小単位である。

絶対時間

移動で時間を語ると、移動の速さによって時間の進みが全然違ってくるということになる。人間が1m歩くのと、カメが1m歩くのが同じ時間ではおかしくなるわけだ。そこで、すべての時間の基準となる時間として、絶対時間を考える。これは最も速く移動するものを基準にすべきであるから、光の移動を絶対時間にする。
たとえば、光が30万km進む時間を1秒とすると、人間は1mカメは2cm進む、となるわけである。

相対時間

しかし人間が経験する時間とカメが経験する時間、光が経験する時間が同じになる必要はあるだろうか。1分間で人間ができることとカメができることでは人間のほうがより多くのことができるから、より多くの時間を経験しているといえないだろうか。
京都から東京まで歩いて7日間かかるのを、新幹線で3時間で行けるなら、新幹線のほうは7日間を3時間に圧縮したといえないだろうか。人間の7日間を、新幹線の速度では3時間で経験できるのだ。そこに時間の同一性はない。時間は速度によって相対的であるようにみえる。
そもそも「時間=距離÷速さ」であるから、この3つは切り離せないものである。私の「移動製時間論」では、「時間=距離」であるから、物理でいう時間とは別のものである。つまり、京都―東京間の距離は同じなので、徒歩7日間と新幹線3時間は「移動製時間論でいう時間」としては同じなのである。
物理でいう「時間」と移動製時間論でいう「時間」が別物であるため紛らわしい。そこで、移動製時間論でいう「時間」を「時態」と呼ぶことにする。これは、ある時間における物質の位置状態が時間であるという観点から、私が勝手気ままに名づけたものである。

ウラシマ効果

アインシュタインの相対性理論によって「ウラシマ効果」というパラドックスが生まれた。双子のマナカナのうち、光速で旅行してきたマナのほうが、地球に残っていたカナより若くなっているという、そういうパラドックスである。
この「ウラシマ効果」を移動製時間論で説明するなら、光速で移動したマナのほうがより多くの時態を経験しているということになる。徒歩と新幹線の比ではなく、とてつもなく速い新幹線で宇宙に行ってしまったわけだから、地球の数十年が数時間というような世界だ。考えても見てほしい、徒歩で月に行くことは一生かかっても無理だろう。しかし宇宙船なら3日で行ける。宇宙飛行士は数日で一生以上の時間を経験しているといえないだろうか。
「ウラシマ効果」に戻るが、光速で移動したほうが年を取らないというのは、細胞もしくは原子レベルでの老化の速さが遅れたということであって、時間が遅れるということではない。物理でいう時間は遅れるかもしれないが、時態は遅れない。

移動製時間論の展望

移動製時間論なるものを考えてきたが、そこから何につながるかというと、行動力のある人ほどより多くの時間を使えるということだ。3日分の仕事を1日で終わらせられる人は残り2日を自由に使える。逆に今日やることを明日に延ばしてしまう人は、いつまで経っても自由な時間を手にできない。これは、速度の速い人間はより多くの時態を経験するということである。新幹線なのである。移動が時間を製造するということは、行動力が時間を生み出すということにつながるのである。
私は「ゼロ睡眠の研究」ということで、睡眠時間を減らして時間を増やそうと考えてきたが、そんな必要もなく、行動を速くすることでいくらでも時間を生み出せるのだ。睡眠時間だって生み出せる。つまり移動製時間論を考えるということは、人生を長くするという、長生きの研究につながるのである。

飛行する時間

タイムマシンの理論的モデル

2005年05月24日 | 飛行する時間
世界は変化し続けている。「現在」のようすは時間の最小単位(宇宙の状態の変化の最小値)ごとに変化している。変化が起きるたびに過去が生成される。過去は存在しないが、存在していた。記録さえ残しておけば再現することは可能だ。私はここでタイムマシンを創ろうと思う。
外部から完全に隔離できる箱(量子が出たり入ったりできないような)を用意する。その中に、水、空気、エビ、海藻、バクテリアを入れる。(これは小さな地球のようなもので自己完結的な世界である。)その箱の中の様子を量子レベルで記録する。
箱の中の世界を過去に戻すには、記録に沿って量子の状態を戻せばよい。巻戻しの様子は時間が逆向きに進んでいるように見えるだろう。過去に戻したところで再び記録に沿って量子状態を進めればはじめとまったく同じ歴史を再現できる。早送りも可能だ。擬似的に未来へ行くといってもいい。過去に戻したところで量子状態を操作しなければ今度ははじめとは違う歴史を進ませることもできる。箱の中の時間は記録の範囲内で自由に操作できる。
量子状態を記録したり、操作したりするのは現在の技術では不可能だが、それが可能になったなら理論的にこのタイムマシンは可能だ。「量子レベルで正確に」という条件を軽くすれば、近似的なタイムマシンは現在の技術でも可能だろう。ビデオやDVDレコーダは一種のタイムマシンといえる。世界を2次元で大雑把に記録して時間操作を可能にする。
小さな箱というタイムマシンを創ったけれども、これが地球規模ならどうだろう。どこかの宇宙人が地球の状態を記録し時間を操っている。気に入らない方向に歴史が進んだら巻戻して違う歴史に進ませる。巻戻しや早送りがされても地球人は気づかない。脳の状態までもが操作されているから。地球というタイムマシンは宇宙人のおもちゃに過ぎない。宇宙レベルならどうだろう。神様が宇宙の量子状態を記録し時間を操っている。宇宙は神様のおもちゃ。タイムマシンは限りなく大きくなっていく。

米ソ冷戦時代、ロケットの開発競争があったが、タイムマシンの開発競争が起こってもいい。タイムマシンを最初に作った国が世界の歴史を操れる。アメリカはあまりにも巨大な国になってしまったが、アメリカはすでにタイムマシンを操っているのかもしれない。

時間の起源と終わり

2005年05月16日 | 飛行する時間
「時間が止まる」とはどういうことだろうか。不思議な時計のスイッチを押すと時計の針が止まり、周りを見てみると町中の人や物も止まってしまう。時間が止まると物質は動けなくなるのか。
私が考える「時間が止まる」はその逆だ。物質が動かなくなることによって時間は止まる。そもそも「時間」というものは独立して存在するわけではない。物質が移動することによって、「前」「後」が生まれる。その変化を時間と呼んでいるのではないか。物質が動くことによって時間が生まれる。物質が全く動かず変化しなければ「時間」は存在しない。机の上に置いてあるコップは静止しているので時間は止まっているのだろうか。違う。コップの表面には酸素や窒素といった分子が絶えず衝突している。厳密な真空をつくり出すことができるなら、その空間は時間が止まっているといえるかもしれない。しかし地球が静止してくれないだろう。
時間は宇宙とともに生まれた。ビックバンが起こる前の「無」の空間では何も変化しない。変化のないところに時間は存在しない。そこに突然現れた特異点、全ての銀河、宇宙空間が凝縮した小さな点の大爆発とともに時間は生まれた。ビックバン直後は変化が激しく、時間は次々と更新されていっただろう。それを時間が早いとか遅いとか、長いとか短いと呼ぶのは解釈の仕方によって異なるだろう。時間が濃いともいえる。
ビックバン以降宇宙は膨張し続けている。その速度はだんだん遅くなってきている。ビックバンによって与えられた初速度が、自らの重力によって遅くなっていると考えられる。変化はビックバン直後よりゆるやかになっているので、時間は薄くなっているといえる。
宇宙の膨張はいつか止まるだろう。その後は自らの重力に引き寄せられ収縮し始めるだろう。そして再び宇宙は特異点(ビッククランチ)に戻り宇宙が終わる。そして時間も終わる。膨張の後ビッククランチへと向かわずに、宇宙が「熱的死」を迎えたとしても時間は終わる。どちらにせよ変化がなくなれば時間は意味を失う。

変化が時間を生み出す。人間も同じだ。毎日変わらない生活をすれば、時間は止まっているようなものだ。歴史の教科書を見てみればいい。激動の戦国時代や幕末のページ数は多いが、進歩のないアウストラロピテクスは数百万年分が数行でしかない。人生という教科書のページ数を増やすには変化が必要だ。日々変化し続けることによって人生は分厚くなっていく。長生きするとは死を先延ばしにすることではなく、人生を濃くすること、人生という時間を長くすること、教科書を厚くすることではないだろうか。

変化が未来を創り出す。

重力による時間の遅れ

2005年04月26日 | 飛行する時間
相対性理論によれば時空は平坦ではなく湾曲している。物質の密度が高いほど時空の湾曲も大きくなる。質量の大きい太陽では時空の歪みが大きくなる。そこでは重力も大きい。重力というのは、重いものには強く、軽いものには弱く働く不思議な力ではなく、時空のゆがみである。
歪んだ時空の中で時間はどうなるのか。アインシュタインは重力が強いほど時計がゆっくり進むことを発見した。標高が高い場所に置かれた時計が標高の低い場所に置かれた時計よりも早く進むことが確認されている。標高が高いほうが重力は弱くなるからだ。時間は重力によっても遅れるようだ。
時計の遅れは量子の遅れである。重力によって量子が遅れるというのは想像に難くない。「ドラゴンボール」の中で孫悟空は重力による修行をしている。重力を10倍にすると体が重くなり運動に負荷がかかる。これを重力によって量子が動きにくくなっていると見ることもできる。重力によって量子が遅れるというのは自明のことのように思える。しかし鳥山明氏は重力の影響を大きく見落としているようだ。重力はすべての量子にはたらくのである。漫画の中では孫悟空の意識は平常どおりに働いている。これはおかしい。意識を構成する量子もまた遅れるはずなので意識もまた遅れるはずなのである。そう考えるならば体の動きが遅れるが、意識もまた遅れるので、感覚的には普通の重力と同じように感じられるはずである。これは新幹線に乗っている人が車両の中で走ったとしても自分が時速320kmで走っているようには感じずに、普通に時速20kmで走っているように感じるのと同じである。重力を10倍や100倍にしたところで普通の重力と変わらないのであれば孫悟空の修行はまったく無意味だったということになる。ブリーフ博士の研究もまた無意味だったことになる。
話は反れてしまったが、重力によって時間が遅れるということは宇宙のあらゆるところで時間の進み具合が違ってくるということになる。太陽木星土星といった質量の大きな惑星では時間はゆっくりと進み、月のような小さな衛星では時間が早く進む。このような宇宙観においては「絶対時間」などというものはまったく意味を成さない。しかもブラックホールという超高密度な場所では時間が止まってしまうのだ!
地球の時計はグリニッジ天文台を標準時としているが、宇宙の時計は一体どこを標準時とするのだろうか。

今日は人生で最も長い1日になりそうだ/ジャック・バウアー

2005年04月21日 | 飛行する時間
頭がフルに回転すると心理的時間は遅れて周りの時間が早く感じられる。ならば忙しい日は早く過ぎるように感じるはずだ。しかし実際は、「24」でジャックバウアーが「今日は人生で最も長い1日になりそうだ」と言うように、忙しい日は長く感じられるようだ。ジャックがボケーッとあのハードな1日を過ごしたとは思えない。心理的時間に関する私の考えは間違いだったのか。
人生の内で睡眠が占める割合は大きい。1日6時間寝たとするならば1日の1/4は睡眠に使っていることになる。寿命を80年とするならばその内20年間は眠っていたことになる。なんともったいない。80年生きてるつもりが60年間しか生きてないような気になってくる。もしも睡眠時間をゼロにできるのならば人生を無駄に使うことなく過ごせる。同じ80歳でも眠らない人は眠る人に比べて長い人生を送ることになる。ゼロ睡眠の80年間は普通の106年間にもなるのだ!睡眠時間を減らすことは私にとって重要なテーマである。が、ここでは別の話。
さて「24」がなぜ人生の中で最も長い1日になったか。答えは、24時間起きていたから。普通に6時間眠る人にとって1日は18時間であろう。しかしジャックはその日1日中起きていたので24時間だったのだ。なるほど、最も長い1日だ。もっと細かい区切りで時間を見るならば、ジャックは時間が早く過ぎるように感じただろう。チップが偽物であるという証拠を手に入れるために車を走らせているとき、時間がなんて早く過ぎるのだろうと思っただろう。時間がいくらあっても足りないと。1日という長い区切りで見ると違うものが関係してくるようだ。それは「記憶」だ。
たとえば昨日1日を思い出すとき24時間も記憶を再生することはできない。圧縮された昨日を思い出すことしかできないのだ。逆に何か特別な日の場合は、いろんなことが記憶に残る。そんな日を思い出すと長い間再生されるだろう。長い1日ということになる。何もなくただ過ぎていった日は少ししか思い出せない、あるいはまったく思い出せない。1日が0秒になってしまう。
「記憶」という尺度でみるならば、忙しい日は長く、どうってことない日は短くなる。「24」でいう1日はそういう意味で長くなったといえるのではないだろうか。しかし物理的な尺度でみるならばその1日は周りに比べて相対的に遅れていたはずで、心理的時間に関する私の考えは間違いではないであろう。

しかしながら、ここでいう「心理的時間」という言葉は誤解を生みやすいようだ。私自身使っていてどういう意味かわからなくなるときがある。正しくは「物理的心理的時間」とすべきだろうが長ったらしい。ここは新しい語を創り出す必要があるかもしれないが、私にはなかなか思いつかない。新語を創り出すのは難しい。

遅れる時間を見る

2005年04月20日 | 飛行する時間
心理的時間の遅れは脳の活動が活発になり脳内の量子が光速で動くために引き起こされる。一人の人間が光速で移動するなんて考えられないが、こと脳内においては電子がまさに光速で移動しているのである。人は誰でも光速を出せる!
今回は心理的時間の遅れを「見る」実験をしてみた。まず、何も考えずにボーっと時計の秒針を見る。秒針がどれくらいのスピードで進んでいるかを見る。ボーっと見ているうちは秒針はゆっくり進んでいるように見える。次に、いろんなことを忙しく考えつつ時計の秒針を見る。すると秒針がとてつもない速さで進み始めた!少し大袈裟な表現だが初めはまさに驚くべき速さに見えた。何も考えずにといっても何かを考えてしまうし、いろんなことを考えるといっても急に疲れて思考停止になってしまったり、難しい実験ではあったが、心理的時間の遅れを「見る」ことができた。忙しく考えると脳内の量子が動き回り心理的時間が遅れるため、標準時間である時計が速く感じられるのだ。
さて実験ははたして成功だったのか。脳を活発にすると心理的時間が遅れるという「思い込み」が一種の暗示となって時計の進みを速く見せたのかもしれない。(しかしそれでも「心理的」時間の遅れといえるかもしれないが)。暗示といえば私は体がまったく動かなくなることがある。体が動かないと思い込むだけで本当に動けなくなってしまうのだ。左手を上げようとしても左手まで信号が届かずに肩の辺りで戻ってきてしまうような、気持ちの悪い感覚がある。そうなってしまうと一度左手に意識を集中して、切断されてしまった左手に再び接続しなければならなくなる。自分の体と「自分」は切り離された存在なのだろうか。金縛りになるとつくづくそう思ってしまう。しかも金縛りのときは自分の意志で再び接続することもできないのだ。そのときの気持ちの悪さといったらない。
私は自己暗示によって学校に行けなかったことがある。朝起きても眠くてやる気がしない。これでは体が動かないなと思ったとたんに暗示にかかってしまった。起き上がることができない。左手に集中しても再接続できない。いつまでたっても暗示は解けずに一日中金縛りにあっていた。後日、学校を休んだ理由を聞かれて「金縛っていたから」と言ったら怒られた。

私は唯物論者かもしれない

2005年04月18日 | 飛行する時間
私が考える時間論について述べておこうと思う。
「時間」は存在しない。時間というのは人間が作り出した概念であって実態としてはどこにも存在しない。あるのは量子だけ、物体だけだ。そんなわけで私は唯物論者かもしれない。
「タイムマシン」は過去現在未来が同時に存在してこそ可能である。しかし実際には過去と未来は存在しない。あるのは現在の量子の状態だけある。過去というのは前の量子状態であり、現在においては変化し壊れてしまっている。未来というのはこれから変化しうる量子状態であり未だ存在しない。量子が移動するだけの世界においては現在が永遠に続くだけある。過去も未来も存在しない。もしも時間軸に沿ってタイムマシンを動かしたならそこには何一つ量子がなく「無」があるだけである。
時間は存在しないというのが「時間論」といえるかどうか。しかし「時間」という概念は確立されたものであり、この世から「時間」を消し去ることは不可能だ。そういうわけで私は時間という概念については考えなければならない。私にとって「時間」とは量子の動きである。
心理的時間と物理的時間は全く違うものか。私は心理的時間を物理的時間として扱えると考えている。なぜならば心理とは物理的に作られているからだ。脳という量子が絶妙なバランスで組み合わさった物体を電子と化学物質(これも量子)が駆け回って意識を作っている。心理というものは、魂という形のないもの、非科学的なものではなく、量子の組み合わせと相互作用によって物理的に作られているので、心理的時間は物理的時間と同じ法則で説明されうると私は考えている。
フロイトは物心二元論らしいが、私は唯物論のようだ。しかし量子が世界を構成しているのはいいが、その量子はどのようにして動くのか、それが私の新たな関心事だ。量子を動かす力はどこからくるのか。はたまた量子は自分の意志で動くのか(!?)。E=mc^2とはどういう意味なのか。それはまた別の話。

心理的時間の遅れ

2005年04月13日 | 飛行する時間
人は楽しいとき時が経つのが早いとか、つまらないとき時が経つのが遅いとか表現する。これは体験的にも確かであるように思う。心理的状況によって時間の進みが早くなったり遅くなったりする感覚はどこからくるのだろうか。
「ウラシマ効果」。動く時計が遅れるという事実。先日、以前の実験を時計を入れ替えてやってみたところ、やはり4日で1秒遅れた。実はアインシュタインが遅れる時間の公式を残している。√1-(v/c)^2□:1という比である。ここで、ルートは□までかかっていて、^2は2乗のことで、vは時計の速度、cは光速(秒速約30万km)である。この式で私の実験を計算しようとしたがうまく計算できず答え合わせができなかった。これは私の数学レベルが低いためである。この公式が紹介されていた「時間について / P.J.ズワルト」の中では、vが光速に十分近くならないと時間の遅れは認知できないとあるが、私の実験によるならば4日(345600秒)というスケールなら1秒くらいの遅れは認知できそうである。
動く時計が遅れるのは高速で動く量子がなんらかの抵抗力を受けることに由来するという仮説。これによって心理的な時間の遅れも説明できそうである。楽しいとき脳は活発に活動していると思われる。多くの処理をこなすので脳の中を電気信号や科学物質が高速で駆け回る。このことが脳内の時間を遅れさせているのではないだろうか。脳内の時間が遅れるのでふと外の時計に目をやるともうこんな時間か、と思うのである。つまり「時が経つのが早い」のではなく「脳内時間が遅れている」のである。逆に、つまらないときは脳もあまり活動せず、諸粒子の動きは遅い。すると、固定された時計と同じ状態なので標準時とほぼ同じ速度で脳内の時間が流れる。「時が経つのが遅い」のではなく、実は普通の速度で時は流れていて、それと同じ速度で脳内の時間も流れているのだが、脳の通常の時間の流れと比べると早いので「時が経つのが遅い」と錯覚しているだけなのである。
時計の遅れと比べると心理的な時間の遅れは誰でも体験的に認知されうるのだがそれもそのはずで、脳内の活動はまさに光速である。電気信号は光速で脳内を駆け回っているのだ。こう考えると心理的な時間は非常に不安定なものである。脳の活動レベルによって遅れたり早くなったりする。生態リズムでは1日が25時間ともいうし。そんなわけで人間は時計を必要としているのではないだろうか。時計を見るたびに心理的時間を調節しているのである。そうしなければ1日が30時間になったり10時間になったりしてしまうのである。
世界中の時計が壊れてしまったとき、私は1日を何時間過ごすのだろうか。

ところで、√とか2乗とかちゃんと表せないもんかね~。書くのに一瞬悩んじゃったよ。

未来の科学

2005年04月11日 | 飛行する時間
酸素は細胞を錆びさせるので有害である。しかし我々は生きるうえで酸素を必要としている。酸素がなければ細胞は死んでしまう。生きるために酸素を吸い、そのせいで死へと向かっている。「呼吸」という我々にとって当たり前の行為はとても矛盾しているように思われる。ギリシャ神話風に言うのなら、神様は人間に寿命を与えるために酸素呼吸を人間に課した、とでも言おうか。
さてギリシャ神話の中には自然の謎を解き明かしているものがある。たとえば、裁縫上手な人間を神様がクモに変えてしまったという話。元が裁縫上手な人間だからクモはあんなにきれいな巣を作るのだとか。しかしクモの巣作りのメカニズムは生物学的に解明されているだろう。だから私は「神様が~」などという主張は受け入れられない。
ギリシャ神話に抱く「非現実感」「非科学的感」は科学が正解だという認識からきていると思う。科学がなかった時代、神話には現実感があったのではないだろうか。人々はそれを真実であるかのように受け入れていたのではないだろうか。その「現実感」が科学の登場によって覆された。科学は実験などによって自然現象を説明してきた。論理的な説明は我々に否応なしにそれが「正しい」と認識させる。科学が正解なのだ。
しかし神話が科学によって覆されたように科学による「現実感」が新しい何かに覆される日がくるのではないかと私は危惧している。今まで正解だと思っていたものがすべて間違いだったと言い渡されるとき。
私はこんな夢をみた。空を見ていると太陽のように輝く物体が現れて、私はたまらず目を瞑ってしまう。再び目を開けるとその物体が私の目の前にあった。銀色の光る物体、UFOのような。そこから人間が降りてきた。宇宙人ではなく普通の地球人、衣服のデザインは見たこともないようなものだが。彼は普通の日本語で「私は未来から来ました」という。なるほど未来人なのか、と夢の中なのであっさり信じてしまう。そして彼はこう聞いてきた。「あなたの住んでいるこの地球はどんな形ですか」と。私は知っている。昔地球は平らだったが、現在では誰もが地球は球体だと「知っている」。私はそれくらいは知っているさと得意げに「球体に決まってるだろう」と言った。しかし未来人は人を小馬鹿にしたような顔でこう言うのである。「地球が球体だって?何馬鹿なこと言ってるんだ。地球は○×▽☆型だろう」と。
科学を超えた未来の世界では地球の形は見たことも聞いたこともない形になっているかもしれない。

遅れる時間の考察

2005年03月29日 | 飛行する時間
「動く時計が遅れる」というのは事実である。では時計が遅れるとはどういうことだろうか。時計の仕組みをいまいちよく理解していないが、アナログは物質的、デジタルは電気的な仕組みだろう。どちらも細かく見ると量子である。時計が遅れるというのは、量子の動きが遅れるということではないだろうか。それはまるで巨大な扇風機に向かって歩く人間のように、高速度で運動する系の中で量子はなんらかの抵抗力を受けて、その動きが遅くなるのではないだろうか。歯車で動く時計を振り回したら、遠心力や慣性力が歯車に働いて時計が遅れる。それが量子レベルで起こるならばあらゆる時計が運動により遅れるだろう。
私が電車で移動すると、電車のスピードによる抵抗力が時計に働き、示す時刻が遅れる。当然私にもその抵抗力は働いていて、細胞を構成する量子に影響する。すると、細胞の働きが遅くなり老化も遅くなる。それを極限まで高めたのが宇宙船に行って帰ってきた双子のパラドックスだ。宇宙船で光速移動する兄の細胞は凄まじい抵抗力を受けるに違いない。しかしそれは量子レベルの抵抗であって本人には知覚されない。本人の意識においては光速移動していない普通の状態と同じ速度で時間が進行している。これは脳のプロセスが量子の速度に依存しているからだろう。

「時間が速くなる遅くなる」というのは「量子の動きが速くなる遅くなる」というのと同義であろう。すると、水蒸気は水分子の動きが活発なので時間が速くて、氷は水分子の動きが少ないので時間が遅いということになる。冬の寒い日に時計を見ると1秒が遅く感じるのは寒さにより量子の動きが遅くなり時間を遅らせているからではないだろうか。食物を冷凍すると長持ちするというのはそういうことなのかもしれない。「低温で時計は遅れる」といえるだろう。
愛知万博で展示される冷凍マンモスは超低温の中で時間の速度はゼロに近い状態で1万8000年という時を越えて来たのではないだろうか。

有害な酸素

2005年03月23日 | 飛行する時間
酸素が老化を引き起こす。酸素は有害な物質なのだ。太陽の紫外線を抑えてくれているオゾンは宇宙にあるからいいものの、人間にとっては猛毒だという。
原始の地球は二酸化炭素で覆われていた。そこへ植物が進出してきて光合成を始めた。二酸化炭素が吸収され、酸素が吐き出される。生物にとって有害な酸素である。植物の繁栄とともに酸素の濃度は二酸化炭素濃度を大きく上回るようになった。かくして、地球は生物にとっては有害な気体で満たされることになった。(この下りは「ジュラシックパーク」を参照)
植物と動物の関係はイスラム教とキリスト教の関係に似ている。動物が植物を食べる。植物は食べられないように毒素を作る。動物は毒素に耐えられるように免疫をつける。植物はさらに強い毒素を作り出す。動物はさらに強い免疫を・・・。植物と動物は長い歴史の中で戦い続けてきた。終わることのない堂々巡りの戦い。その起源は植物が陸上に進出してきた原始の地球にあった。有害な気体を出し続ける植物。動物の敵である。
さて二酸化炭素の増加による温暖化がずっと前から問題になっている。京都議定書により先進国は二酸化炭素の排出量を減らすことを義務付けられた。このことは自殺行為ではないだろうか。有害なのは酸素であり二酸化炭素ではない。一世紀前は核兵器により人類は自殺を試みた。そして今世紀は酸素により自殺をしようとしているのではないだろうか。

酸素と寿命

2005年03月22日 | 飛行する時間
前回は、歩くのが速い私は長生きするということを書いたが、おそらく逆だろう。動きの速い生き物、たとえば犬の寿命は15歳だしハエの寿命は1ヶ月。スポーツ選手の寿命も短いらしい。動きの遅い亀は万年生きるとか言うしね。
しかし動く時計が遅れるというのは事実である。同じ種類の時計を同じ時刻に合わせて、一方は一定の場所に保管し、もう一方は身につけて移動する。この実験をしてみたところ、私の場合4日で1秒遅れた。1年で90秒くらいのペースである。どっちにしろ寿命がどうのというレベルではない。
さて、動くと時間が遅れるのは確かであるが、寿命は時間で決まるわけではない。老化というのは細胞の酸化だと言われている。呼吸することによって取り入れられた酸素が細胞を「錆びさせて」いるのだ。つまり激しい運動をする動物はより酸素を必要とするので速く錆びるのだ。よって寿命が短いということになる。
なるほど、サイヤ人の老化が遅いというのも納得できる。激しい戦闘をしても、亀仙人が「あれだけ動き回っているというのに悟空は呼吸が乱れていない!」というように、彼らは速く動くのにあまり酸素を必要としていないのだ。悟空の父バーダックがフリーザと宇宙空間で戦っていたのを考えると、そもそもサイヤ人は酸素呼吸の必要さえないのかもしれない。
話が反れたが、要は老化は酸素が引き起こすということだ。そう考えると酸素サロンは逆効果だろうと思ってしまう。肌を若く保つために酸素サロンに行って、かえって老化を早めているなんて。
年は取りたくないので私は最近呼吸を控えている。全く呼吸をしないというのは死んでしまうので無理だが、なるべく動きは最小限にしようと心がけている。運動なんてもってのほかで、家にいる間はずっと横になって寝たきり老人になっている・・・。

ウラシマ効果

2005年03月16日 | 飛行する時間
高速で運動する物体は静止している物体より時間がゆっくりと進む。
たとえば、双子がいるとする。双子の兄が光速で飛行する宇宙船で宇宙へ行き、弟は地球に残って待っている。兄がしばらく宇宙旅行をして地球に戻ってくると弟は老人になっている。宇宙船の中の時間は地球の時間より何年も遅れているのだ。これを「ウラシマ効果」という。
そういえば、サイヤ人は年をとるのが遅いというが、悟空やベジータが高速で動いていると思うと納得がいく。緋村剣心や比古清十郎も若い。「精神と時の部屋」は高速で移動しているのかもしれない。
高速で動く職業、飛行機のパイロットやF1レーサーは年をとるのが遅いのかもしれない。私はよく歩くのが速いと言われるが、そんな私もまた年をとるのが遅いのかもしれない。時計が遅れることがあるが、機能的なことではなく、動くから遅れが生じるのではないだろうか。標準時は静止しているが、腕時計は持ち主とともに移動する。私の時計はよく遅れるが、やはり私の時間はまわりより遅く進んでいるのではないだろうか。
こう考えると年齢とは無意味なものであるように思える。100歳の人が長生きだと言われるが、実際は普通の人の(普通の基準がわからないが)80歳くらいなのかもしれない。70歳で死ぬ人も90歳で死ぬ人も実際は同じ年齢で死ぬのかもしれない。動きが速いか遅いかで違うのだ。日本では平均寿命がどんどん長くなっているが、それは日本人がどんどん高速で動くようになってきたからだといえるのではないだろうか。

音楽による時間旅行

2005年03月11日 | 飛行する時間
私はB'zの「憂いのGYPSY」を聴くと中学3年の受験の時期を思い出す。「IN THE LIFE」というアルバムを聴きながら勉強していて、中でもこの曲が一番好きだったからだろう。エアロスミスの「NINE LIVES」を聴くと大学2年の春を思い出す。やはりその時期にそのアルバムをよく聴いていたからだろう。おもしろいのはどちらのアルバムもリアルタイムではないということだ。「IN THE LIFE」は91年、「NINE LIVES」は98年に発売されたもので、私が聴いたのは99年、04年である。私はほとんどの曲をリアルタイムで聴いていない。音楽にハマり出した98年以前の曲は自然と耳に入ってくるもの以外は後聴きである。それらの曲は時間を越えて私の元へやってきたといえるだろう。
過去の曲が現在の印象を与えるとは限らない。80年代前半の曲を聴くと懐かしく感じる。その時代私はまだ生きていなかったのにだ。初めて聴いたのに懐かしく感じるとはどういうことだろうか。80年代後半、90年代前半、時期によって音楽像が違うのではないか。同じ年代の音楽はどことなく似たような雰囲気がある。メインストリームがロックだったりダンスミュージックだったりというだけでなく、ジャンルを超えて似たような何かがあるような気がする。
私は音楽によって時間旅行ができる。ラルクやB'zを聴くと中学時代に、LUNA SEAやglobeを聴くと小学校高学年、ドリカム、シャ乱Qを聴くと小学校低学年に戻ることができる。さらに、ジュリーを聴くと私はあの世にいた頃に戻ることさえできるのだ。タイムマシンなんて必要ない、音楽さえあれば誰でも簡単に時間旅行ができる。