54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

BIG HEART-大きなハート

2005年06月16日 | 心の探求
私が私だと思っているもの、いわゆる「自我」というものはどこにあるのだろうか。胸の真ん中に手を当てて「心はココにあるんですよ」なんていうのはロマンチストで、たいていの人は脳みそを指すだろう。他人と脳を交換したら、身体のほうではなく脳のほうが自分だと考えるのではないだろうか。見た目ではなく中身が自分なのだと。私はずっとそう考えてきた。しかし「生存する脳/アントニオ・R・ダマシオ」を読んで考えが変わった。ダマシオは心と身体を分離したデカルトの二元論を否定している。そしてそれは納得のいくものだった。
脳は身体からの信号を絶えず受信している。意識すれば身体のいたるところの感覚を知覚できるだろう。普段意識しなければそれは背景に押しやられる。だからしばしば見過ごされやすく、心と身体が切り離されてしまうのだ。身体からの信号は心に影響を与える。内臓の調子が悪かったら不快な気分になるし、血液中の糖分濃度が下がるとエネルギーの要求から空腹感を感じる。これはマクロなレベルだが、身体はもっとミクロなレベルでリアルタイムで心に作用する。
脳と身体の相互作用が心を形成する。臓器移植をした患者が急に性格が変わったという話があるが、当然のことだ。心は身体の影響を受ける。内臓ひとつをとってもそうだ。腎臓が変わればそこから来る信号は違った傾向になる。その微妙な違いが心に影響し、結果として性格が変わってしまったのだ。もしも心が脳のみによって作られているのならこんなことは起こらないはずである。

脳という主体が身体という入れ物を動かしているというイメージがあるが、それは間違いだ。進化の過程を考えればそれは明らかである。単細胞生物に脳はない。あるのは身体だけだ。単純な多細胞生物にも脳はない。しかしさらに進化して身体が複雑になってくると、その制御が難しくなってくる。そこで脳が必要になってくる。つまり進化の過程で身体が自らの生存のために脳を作ったのだ。いわば、身体のための脳、身体が生きるために脳は利用されているのだ。主体は身体のほうだったのである。
そもそも脳みそだけがあったってしょうがない。液体の中に脳みそがあってそれが思考するなんて、SFとかドラゴンボールのドクターゲロとかでみるけど、よく考えたらおかしくないか。タートルズに出てくるクランゲはヘンテコじゃないか。
脳ではなく身体のほうが主体なのだと考えるならば、脳死によってその人の死とするのはおかしい。脳死で死というのは、人差し指が壊死しただけでその人が死んだといってるようなものだ。
さてそんなわけで、脳と身体、そして心に関する私の認識は「生存する脳」によって一変した。思えばその兆しは「アメリカの階梯」のときにもあったような。心は脳だけではなく、身体も含めて心なのだと、私は私すべてが私なのだと思う。心は思っていたよりも大きかった。


直観に関して「ソマティックマーカー仮説」というものがあると「眠らないムーミン」で述べたが、その補足。脳に浮かんだ反応オプションが身体に影響し、身体は何らかの信号を返す。それが不快なものだったらネガティブなオプションとして排除される。そのプロセスがあらゆるオプションに対して同時に瞬時に行われるのである。身体的な(ソマティック)信号がマークされるので「ソマティックマーカー仮説」という。これによって推論すべきオプションの数は激減する。
科学における新発見は、可能性のあるすべてのオプションに対する推論の末に生まれるものではない。不毛なオプションははじめから浮かばないのである。すべてのオプションについて考えていたならいつまでたっても科学は発展しないだろう。ソマティックマーカーのおかげで人類はここまで進歩できたといっていい。

直観に関して別の見方。「魂との対話/ゲーリーズーカフ」から。直観とは五感を超えた知覚であり、危険に関する予感をもたらしあなたの生存に大きく貢献してきた。直観はインスピレーションとしても現れる。ある問題への突然の解答を与えたり、創造的なひらめきを与えてくれたりする。直観は暗闇に訪れる光であり、神聖なるものが存在する証である。直観とは、高次の自己(ハイアーセルフ)を通して行われる、パーソナリティと魂とのコミュニケーションであり、いわば組織内直観プロセスである。
直観を神聖なものとして見ているが、どうも私には・・・。ハイアーセルフとか、怪しい感じがするし。内容的にはソマティックマーカー仮説と同じような気もするのだけど。比喩みたいな。組織内直観プロセスよりソマティックマーカーを受け入れてしまうのは、私がまだ科学的な見方をしているということなのだろうか。