54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

緑の線路

2005年11月30日 | クリエイティブな思考への挑戦
砂漠になる前の荒地。どこまでも続く渇れた大地に私はいた。
綱引きの綱ほども太い茎が何本も絡み合ったものが一本の道のように続いていた。
その「緑の線路」に沿って私は歩いていた。

緑の線路の上を列車が走ってきた。植物で覆われた「緑の列車」。
これに乗れば目的の場所へ行けると思った。しかし近づいてくると列車の中で2匹の恐竜が暴れているのが見えた。
なんということだ、もうおしまいだ。ということはあいつらも殺られたのか。
緑の列車はもの凄い勢いで通り過ぎていった。


私の村は突然現れた2匹の恐竜によって壊滅させられたのだ。父も母もみんな殺されてしまった。私は命からがら逃げてきたのだ。隣町まで行ってこの危機を伝えようとしていたのだ。
私の仲間は列車で隣町まで行くはずだった。しかし・・・。
まずい、このままでは何も知らない町の人々はあの2匹の恐竜に殺されてしまう!
なんとかして列車より速く隣町まで行かなくては!なんとかして列車を止めなくては!

。。

SMの話。。

2005年11月25日 | ハコ
SかMかといったら僕はドMですよ。
というのはダウンタウンの松本さんである。めちゃイケメンバーの岡村さん加藤さん浜口さんも「M3兄弟」という企画をやっていた。お笑いのボケというのはMなのでしょうか。突っ込まれるたびに叩かれる。だからM。爆笑問題の場合は太田さんが田中さんをいじめることが多いので逆かもしれない。Semeru方がSでMamoru方がM。Mamoroutosinai?

私が小さいころ母はSMで働いていた。いやらしい店じゃないですよ。SuperMarketです。
私は小さいころSMをプレイしていた。いやらしいプレイじゃないですよ。SuperMarioです。

マリオブラザーズというのはすばらしい作品である。ファミコン時代の名作というのは,
プレステやXboxがある現在でも不滅である。ファミコンのコントローラを再現したゲームボーイミクロが発売されたり、PSPにファミコンのソフトをダウンロードしてやっている人までいるくらいだ。
ファミコンは8ビットしかないからグラフィックもBGMもしょぼい。プレステ2のファイナルファンタジーのCGと比べたら月とテニスボールだ。しかし、8ビットという制約があったからこそアイディアを振り絞ってすばらしいものを作り上げることができたのではないだろうか。スーパーマリオの音楽は、今年トンガリキッズの「B-DASH」という曲で使われヒットしたように、すごい魔力をもっているのだ。ゲーム機が進化するにつれ制約がなくなってきて、映像も音楽も普通に作れるようになった。しかし、制約がなくなってしまったからこそ、クリエイターの創造力というものが失われてしまったのではないだろうか。近年ゲーム業界で革命的な作品が出てこないのはそのせいではないだろうか。
ドラゴンクエストもファミコン時代に生まれたものだ。ドラクエ7からプレステになり3Dになったが、違和感を感じたのは私だけであろうか。ファミコン時代のドラクエは2Dだしキャラも不鮮明であったけれど、プレイヤーはその画面から3次元の、4次元の世界を想像していたのではなかったか。モザイクみたいなボスキャラを見て、頭の中では巨大でリアルな怪物をイメージしていたのではなかったか。ゲーム機が進化して映像が鮮明になればなるほど、便利になればなるほど、プレイヤーの想像力は失われていくのではないだろうか。
想像するということは頭を使うことである。頭を使うと脳内に神経伝達物質が出てきて気持ちよくなる。想像力を使わせないゲームなんて気持ちよくないのだ。ただ定位反応があるだけで、疲れるだけである。

SかMかといったら私はMである。Sにはなれない。人に暴力を振るうなんてのはもってのほかだし、虫を殺すのも避けるほうである。ゴキブリを殺さずに、その気持ち悪さを味わい続けるなんていうのはMなんでしょうね。ストレッチなんかも痛いくらいが気持ちいいと感じるので、やはりMなのかもしれない。
しかしモトリークルーやガンズアンドローゼズを聴いてると暴力的な気持ちになる。トミー・リーやアクセル・ローズは数々の「事件」で有名だが、その狂気が乗り移ったような。そのときはクモを叩き潰したりする。Sになる。
SとMというのも振動で説明できるかもしれない。

ということで昨日のゼミからSMの話でした。

おしゃべりなアフリカ人、おとなしい日本人

2005年11月24日 | パラソル
MOTLEY CRUEのライヴのあとずっとモトリーばっかり聴いてます。ライヴと同じ曲順にして蛇回し。本当にねB'zの「CIRCLE OF ROCK」よりよかったですよ。モトリー最高。
モトリークルーのよさはやはり観客が参加できることだろう。「Kick Start My Heart」では「OH!YEAH!」、「RED HOT」では「RED HOT!」というようにほとんどすべての曲が観客が叫ぶようにできている。この点についてはラルクアンシエルのtetsuも「哲学」の中で述べている。testuの曲はポップなのが多いけど、モトリーが好きだったりする。ラルクのライヴの定番曲「SHOUT AT THE DEVIL」はモトリークルーへのリスペクトがあったりするのかもしれない。
観客が叫ぶことによってライヴに参加していく。ライヴは大きな音で振動を起こし振動エネルギーを生むが、さらに自らが叫ぶことによって外部からだけでなく内部から振動を起こすことによってさらに振動エネルギーが高まる。だからモトリークルーのライヴは気持ちいいし、クレイジーになっていく。だから最高!なのだ。
B'zのライヴも観客が参加できる曲がたくさんある。「juice」では「Baby it's all right!」、「ultra soul」ではウルトラソウル!のあとの「Hi!!」などなど。しかしモトリーの場合はすべての曲が観客参加型という点で圧倒している。こんなバンドはなかなかないのではないだろうか。モトリークルーは最高のライヴバンドであるといえる。

さて話は変わるが、日本人はわりと静かな民族である。男は黙ってなんちゃら。アフリカ人や南アメリカ人は陽気な感じがする。その民族性はどこから来るのか。
「言語」である。母国語がその国の民族性を決めているのではないだろうか。振動エネルギー論の「発声による振動エネルギー」ではよくしゃべる人はよくしゃべるということを書いたが、それである。
日本語というのはあまり早口には向いていないだろう。音楽の歌詞をみるとわかるが、英語の歌に日本語を当てようとしてもうまくいかないことがある。ガンズやエアロスミスの曲は早口だから日本人の私はとても歌えない。これは日本語の欠点であろう。早口に向かない言語、だからあまりしゃべらない。よってあまりしゃべらないという国民性が生まれる。
アフリカ人が陽気なのはその母国語が早口にできているからだろう。アフリカ語を聞いたことはないが、ボビー・オロゴンやオスマン・サンコンのしゃべり方を聞けばその早口さはわかるだろう。南米も同様で、ジーコやラモスのポルトガル語は早口だなとか思うわけである。早口な言語だからよくしゃべる、そういう国民性になる。
起源を辿っていくと、早口な性格が早口な言語を生んだのか、たまたま早口な言語が生まれてそれによって早口な性格になったのか、どちらなのだろうか。時代は変わり現在の日本では女はよくしゃべる。室町時代の女性はそれはそれはおっとりしていただろうに。グローバル化の波によって英語が入ってきたためであろうか。日本語は早口な性格に変わってきている。HIPHOPでは日本語が早口に歌われている。これから日本は陽気な民族になるかもしれない。これは言語が性格を変えたのか、性格が言語を変えたのか。

モトリークルーのライヴ以降、モトリークルーの曲ばかり聴いて、歌っていた。歌っていると日本人の私からアメリカ人的な私にモードが切り替わる。なんだかテンションが上がってくる。そして暴力的な気分になる。そんなことからはじまり、言語が性格に影響を与えるのではないかという仮説が生まれ、おそらくそうなのだろうと。
宇多田ヒカルをみてもらいたい。彼女は英語環境で育ったために早口な性格になっている。彼女の日本語は早口である。
言語は性格に影響を与える。

MOTLEY CRUE「CARNIVAL OF SINS TOUR」

2005年11月21日 | 音楽
11.20さいたまスーパーアリーナ。MOTLEY CRUE「CARNIVAL OF SINS TOUR」。
行ってきました。モトリークルーを観れるのは最初で最後だと思っていたので。

17:00開演。オープニングアクトはBuckcherry。初めて聴いたのだが、1,2曲目ともテンションの高い曲でやられた。たとえばデビュー間もないガンズアンドローゼズがOPactをやったらメインのバンド以上に盛り上がってしまったという話があるが、こういうことなのかと。私の心情とは裏腹に会場は冷静でしたが。というより、「早くモトリーを観たい!」という気持ちが強かったのだろう。私もそんな気もしつつも、「NEXT2YOU」などBuckcherryの演奏を十分楽しめた。ハードロックで、パンクっぽくて、へヴィメタルも入ってて、とても気に入った。早速CD買わなきゃと思った。
Buckcherryは結局40分間演奏した。その後20分休憩。18:00開演じゃん。

モトリーのメンバーを模した人形によるビデオが流れ、ステージにピエロが現れ、箱からブロンドの美女が2人出てくる。そして「Shout At The Devil」のギターリフが!待ち侘びていた観客は一気に沸点に達した。「Are you fuckin' ready?」「YEAH!!」ステージでは炎が燃えさかる中、ヴィンス・ニールの「Shout!Shout!」に観客も手を振り上げ叫び答える。これがMOTLEYCRUEなのか、この盛り上がりはB'z以上だなと驚かされた。世界は大きすぎる!
「Too Fast For Love」「Red Hot」「Looks That Kill」どれも観客参加型で、叫んでいるうちにみんなどんどんクレイジーになっていく。叫びは本能を刺激し人間を野生化するのだ。
第1幕ラストは「Live Wire」。大好きな曲です。場内はさらにヒートアップ。「Cause I'm hot, young, running free / A little bit better than I use to be」のところを観客に歌わせるのだけど、私は歌詞を覚えておらず仕方ないので「愛の力があるならマジで信じたい」とB'zの「GIMME YOUR LOVE」の歌詞を歌った。雰囲気は同じなのでまったく問題なしなし!「Cause I'm alive」のとこも「サムライ!」って。なんとなくでいいんだよォ楽しめれば!最後は爆薬炸裂でまさにアメリカって感じ。グレイト!!

ここから10分くらいビデオで小休止。これはミック・マーズの体調を考慮してのことらしい。病み上がりだし、年だし。しょうがない。

バイクの音が会場に鳴り響く。第2幕は「Girls, Girls, Girls」。休憩から一気に上げてきますね。私も「ガー、ガー、ガー」と叫ぶ。「Wild Side」では「ワイ、サイ」と叫ぶ。
「Don't Go Away Mad」はヴィンスがアコギもってややクールダウン。B'zでいう「Easy Come, Easy Go」だ。
バラードメドレーもすばらしい。「Glitter」「Without You」など、バラードでのヴィンスニールの声はすばらしい。キレイなんだ。エアロスミスのスティーブン・タイラーやボンジョヴィのジョン・ボン・ジョヴィも名ロックバラードを残しているがかすれた声だ。それが彼らの魅力ではあるが、ヴィンスニールの声は澄んでいるのでバラードでその魅力が発揮される。
そしてあのピアノのメロディが流れる。「Theater Of Pain」のあのマスクのジャケットが思い起こされる。私はこの曲がロックバラードの頂点にあると思っている。「Home Sweet Home」。会場は観客が演出したライターの炎で幻想的に輝いている。「You know...」ヴィンスはじらす。みんな知っているんだ、「この曲を聴きたいんだ!」。「You know I'm a dreamer」ヴィンスは歌わない。観客が大合唱する。私は歌詞がわからないので雰囲気だけ味わう。(ここは完全に予習不足で悔いの残る部分だった。みんな似たようなものだったけど)。1フレーズ歌い終わり、ようやくヴィンスが歌いだす。その歌声の美しきことこの上ない。「Home Sweet Home~」のとこは会場全体で歌った。すごくいい空間だったね。ミックマーズのギターソロもすばらしい。ヴィンスニールの「Tonight tonight~」と絡まって感情が高められエクスタシーを感じてしまう。バラードでイキそうになってしまうのはこの曲以外にはない。「Home Sweet Home」は最高のロックバラードです。

ニッキー・シックスのベースソロは火花に包まれるというもの。熱いです。
そしてあのベースリフ。「Dr. Feelgood」。ヴィンスはナース2人を連れてくる。禁断の治療だ。「Dr. Feelgood」と叫びながら観客はまたクレイジーになっていく。
トミー・リーのドラムソロはある雑誌でつまらないとの評価だったのでその通りだった。長すぎる。しかしながらワイヤーで飛んでいく演出はトミーリーらしい。最後はやはり爆薬でバーンとやられてしまう。
テンションの下がった観客は「Same Ol' Situation」でまた一気に盛り上がる。それはそれはすごいことだよ。 「S.O.S」もすごい好きな曲で「same ol', same ol' situation」と歌う。
トミーがカメラを客席へ向ける。別名「おっぱいタイム」。カメラを向けられた女性はおっぱいを見せるというもの。日本でやってしまうとはさすがモトリークルー。やるほうもやるほうだが見せるほうもクレイジーだ。男性陣大興奮。9500円のチケットも安いものさ。しかしさすが日本、4人目あたりから拒否しだす。会場はブーイング。気の毒だがもちろんジョークだぜ。トミーがカメラをいろいろ向けるがことごとく拒否され時間だけ過ぎる。にっちもさっちもいかなくなって1人の女性が名乗り出てきておっぱいを見せて最後は拍手で終了。「ありがと、ありがと、ありがと」。その女性に感謝です。
ミックのソロはジミヘンの「Little Wing」っぽいメロディがあったりしたけど、あまり退屈なものだった。ギターが大音量で耳がジリジリした。物理的にすごいなと思った。
ラストは「Kickstart My Heart」。ギターソロで落ちたテンションがまた一気に跳ね上がる。この曲はモトリーの中で一番盛り上がる曲だろう。ラストだと気づいていたのでここぞとばかりに「Ooh! yeah!」とクレイジーに叫びまくる。「Baby~~~~~~!!!!」は稲葉さん曰く「真っ白シャウト」に違いない。シャウトすると頭が真っ白になる。ミックマーズのギター、ニッキーシックスのベース、トミーリーのドラム、ヴィンスニールのシャウト、すべてが最高だった!爆薬ドカンドカンドカン!HOO!!

「CRUE!CRUE!CRUE!」ステージにピエロのバルーンが現れる。アンコールは「Anarchy In The U.K.」。竹馬に乗ったピエロなどまさにサーカスのようだった。観客のテンションもアゲアゲで大合唱。最高のエンターテインメント空間であった。ラストはニッキーがベースを叩き壊しFIN。

初のMOTLEYCRUEはこんなわけで最高にクレイジーになれた。B'zは日本最強だと思っていたが世界には上がいるものだなと思い知らされた。日本人にはできねぇよこんなの。セットリストもベストって感じで、聴きたい曲もほとんど聴けたし、大満足。今のモトリーの状態は最高だと聞いていたが本当にすばらしいパフォーマンスだった。最初で最後になると思っていたが、また見たいと思ってしまったよ。
難点があるとすればソロがつまらなかったことと、ミックの体力の問題でラストで時間稼ぎをせざるをえないため最後の最後で盛り上がりをキープできなかったこと。
ミックの体力が回復したときモトリークルーは完全復活となるだろう。わがままかしら。

SET LIST(11.20さいたまスーパーアリーナ)

01. Shout At The Devil '97
02. Too Fast For Love
03. Ten Seconds To Love
04. Red Hot
05. On With The Show
06.Too Young To Fall In Love
07. Looks That Kill
08. Louder Than Hell
09. Live Wire
--- Intermission ---
10. Girls, Girls, Girls
11. Wild Side
12. Don't Go Away Mad (Just Go Away)
13. Primal Scream
14. Glitter / Without You
15. Home Sweet Home
- Nikki's Solo -
16. Dr. Feelgood
- Tommy's Solo -
17. Same Ol' Situation (S.O.S)
- Video Time -
18. Sick Love Song
- Mick's Solo -
19. Kickstart My Heart

(Encore)
20. Anarchy In The U.K.

速読のススメ

2005年11月19日 | パラソル
私はたいてい本を読むとき「速読」をしている。本を短時間で多く読めるので便利である。私が速読を知ったのは高校3年生のとき図書館でたまたま「速読術」の本をみつけたときだった。それまで私は数学少年だったのだが、速読をするようになってからは文学少年になってしまった。数学を失ったのは痛いが、文学を手に入れたのは大きい。

「速読術」に関してはいろんな本が出てるのでそれを読めばできるようになるでしょう。要するに速読術は、一文字ずつ読むのではなく、文章を塊として読むのである。詳しく読むのではなく何となく読むのである。そして集中することである。目を早く動かすとか、漢字とカタカナだけを読むとか、他にもいろいろ。

そもそも本を読んだ後に残るものはなんだろうか。膨大な文字の量のわりに記憶に残っているものは整理された微量のものだ。インパクトのあるものがコンパクトにまとまってる。
たとえば、「生存する脳/アントニオRダマシオ」は分厚い本だったが、今覚えているのは、脳と身体は不可分であるということと、ソマティックマーカー仮説によって直観は十分信頼できるものであるということくらいだ。あとは脳に棒が刺さったフィネアスゲージの話が印象に残っているくらい。
本を読むのに2週間くらいかかったが、思い出すのには数分とかからない。だとすれば、分厚い本も数分で読んでしまえばいい。記憶に残るのがわずかなものならば、はじめからそのわずかなところだけを抜き出して効率よく本を読めばいいだろう。後に思い出されることのない細かな表現やどうでもいい部分、印象に残らないようなつまらない部分は飛ばしえしまえばいい。そしてそれを可能にするのが速読である。

そんなわけで今回は「速読のススメ」。教科書や参考書などは速読してしまうのがいいだろう。あんまり興味ないけど今話題の本や文学史に残る名作なども速読してしまう。しかしながら、自分の好きな作家の小説などは細かい表現までも読んだほうがいい。感性を大きく使ってゆっくり読めばいい。速読は味気も素っ気もないものだから。
速読を勧めるとともに、遅読も勧めます。なんだかファーストフードとスローフードみたいな話ですが。
私はスローフード派です。

小説の魔力の正体「定位反応」

2005年11月18日 | パラソル
小説や映画、漫画が人を引きつける「魔力」の正体は何か。食事も睡眠も忘れ、その作品に夢中になってしまうのはなぜか。
私は以前「テレビ中毒と定位反応」で「24-TWENTY FOUR-」を例にテレビが持つ魔力を説明した。突然の視聴覚刺激に対する本能的な反応、それによって人はテレビに釘付けになる。最近気になるのはマクドナルドのえびフィレオのCM。「動くフレーム」は定位反応を引き起こすのに効果絶大だ。それに加え、あの女の子(蛯原友里さん)がかわいい。最高のカメラアングルとポーズだと思います。健全なる青少年は「本能的に」釘付けになることは間違いない。CMというのは15秒という短い時間で視聴者に大きな印象を与えなければならない。そのためさまざまな工夫が凝らされ、定位反応を引き起こしやすいような演出がなされることが多い。

漫画もまた、定位反応が関係するだろう。もちろん絵は動かないのだが、読者の頭の中で物語は「動いて」いるのだ。アニメに見慣れているせいもあるだろうが、漫画を読むときやはり頭の中でキャラを動かしている。これによって定位反応は起こるだろう。また、効果的なコマ割りや吹き出しの使い方などによっても定位反応は引き起こされるだろう。
小説もやはり定位反応。文字から生まれるイメージ、それが定位反応を引き起こす。たとえば、展開の速いスリリングな場面を読んでいるとき、読者は作品にのめり込む。「ジュラシックパーク」における恐竜に襲われるシーンなど。これは本能的に集中して情報を処理しようとする定位反応である。夢中になると高速で作品を読み進めてしまうが、それはまるでイメージの早送りのような状態、情報を高速処理するために定位反応になる。

そんなわけで、テレビのみならず小説や漫画の「魔力」もまた定位反応が関係するだろうと思うのである。もちろん定位反応のみですべてが説明されるわけでなく、ドーパミンによる報酬系といったことや、ミームなんかも関わってくるだろう。
「魔力」の正体は多面的である。またそうでなければならない。

ミミズ

2005年11月17日 | クリエイティブな思考への挑戦
私は学校の中を逃げていた。何から逃げているのかはわからないが、とてつもなく恐ろしいもの。私は階段を全飛ばしで下りていった。飛んで回って飛んで回って飛んで回って。一番下まで降りて走り出そうとしたとき、私の前に「それ」はいた。全身を黒い布で覆い、大きな鎌を構えた、「死神」。ハッとした瞬間、死神は鎌を振り抜いていた。私の首は簡単に持っていかれてしまった。
そのとき私は自分の身体の奇妙を見てしまった。私の首から伸びているのは、巨大なミミズのようなものだった。飛んでいく首に引っ張られて、私の身体からズルズルとミミズが出てくる様子が見えた。外から見たらそれは首がどんどん伸びていくようにも見えただろう。身体から切り離された私は今や、人間の頭を持ったミミズのようだった。

私は自分の存在をかき消されたような気になった。記憶喪失になったような。記憶はあるのだが、記憶と現実が完全にズレてしまったような感じ。私は人間だったかミミズだったか。今この思考をしている私は人間なのかミミズなのか。この脳は人間のもの?ミミズのもの?脳にミミズが寄生したのか、人間の脳とミミズの脳が溶け合ってひとつになってしまったものなのか。それともミミズが人間の身体を身に纏っていただけだったのか。ならば私はもともと人間ではなくミミズではないか。私という存在の記憶はまったくの嘘で、本当はミミズの私が真実なのだとしたら。私は私でないような、いやむしろ本当の私に出会ったような。今の私は私が誰なのかあいまいな私であった。

死神はこう言った。「私は『お前』を殺した。」と。

目を覚ました私は奇妙な気分だった。脳からミミズの体が伸びているような、首から身体へ伸びる脊椎がなんだかミミズのような感触がするような気がした。私は自分が人間の身体を着たミミズなのではないかという気になっていた。
何もやる気がしなかった。私は本当はミミズなのだとしたら、ミミズらしく生きることが自然なのではないか。もう人間みたいに振舞うのはやめよう、これからはミミズとして生きよう。そんな気になっていた。

死神が言ったように、昨日までの『私』は完全に殺されていた。。

純粋なる音楽

2005年11月16日 | ハコ
人間は音から逃げられない。無音状態というのはありえない。アイソレーションタンクに入って外界から完全に隔離されたとしても、自らの心臓の音、血流の音が聞こえてしまう。(室井さんの「芸術環境論B」より)

では、聴覚異常の人はどうなのだろうか?と思ったわけです。脳の聴覚を司る部分が欠損していたりすると、音を感知しない。それは無音だろう。
聴覚異常者にとって心臓の音はどう聞こえるのだろうか。音は聞こえなくとも鼓動を感じることはできるはずである。触覚として心臓音を感じる。では外界のさまざまな音も振動として触覚で感じるのではないか。クラクションを鳴らせば、その強烈な振動によって、普通の人と同じようにビクッとなってしまうのではないか。聴覚異常者にとって音楽とはどのように聞こえるのだろうか。音楽を触覚で聴くとはどういう感覚なのだろうか。
身体で音楽を聴くという感覚は普通の人でもあるだろう。LIVEに行くと音が骨まで響いてくるし、踊るという行為は身体による音楽である。しかし、聴覚で音を聴くという経験なしに身体で音を聴くというのは、まったく別な体験である。それは私たちがイメージする音とはまったく異なるものかもしれない。純粋に振動として音を感じる。音楽を純粋に聴くというのはそういう感覚なのかもしれない。

ゼミ発表に関する雑談

2005年11月09日 | ハコ
いや~明日ゼミ発表ですが、どうしましょう。最近はどうも調子が悪くて勉強なんかできなくて、眠ってばかりで夢ばかり見るからなんだかショートショートまがいの夢日記を書いたりなんかして。「ハイテンションの作り方」以来ほとんど進んでいない状況なので、ほぼそのままの発表になるかもしれません。新しいこともちょろっと入れようかとも思いますが。
ハイテンションの作り方を知っているのになんでローテンションなんだと思われるかもしれませんが、あんまりにもディープブルーになると、ハイテンションになりたくもねぇよという感じで、実践しようとも思わなくなるというか、ダメなんですね。未完成な理論です。
まあ最悪な状況は脱したので、これからは景気回復して大丈夫だろうと思われます。今はSR-71の「RIGHT NOW」を聴いてテンションアゲです。わかるかな?わかんねぇだろな。
おそらくバイオリズムというものがあって、女性の生理と同様に男性にもいくらかの周期で感情が揺れ動くのではないかと思う。マイケルクライトンの「インナートラヴェルズ」にも書いてましたけど。それが何週間周期か、1ヶ月周期かわかりませんが。細木数子の六星占術は12ヶ月周期12年周期のリズムですが、あながちあってるかもしれませんね。いや、六星占術はもうどうでもよくなってるんですけど。割とハマってたんですけどね、1ヶ月で冷めました。あんなもん当たるか!

ともかく、明日は「ハイテンションの作り方」に加えて、「振動エモーショナル理論」というものをお披露目するから楽しみに。ということで。

余命宣告

2005年11月09日 | クリエイティブな思考への挑戦
深夜、ドアをノックする音に起こされた。時計を見ると0:00だった。こんな時間に誰だよ、と思いドアを開けると、頭から全身に黒い布を被った老人が立っていた。手には布にくるまれた長い棒のようなものを持っていた。
「余命宣告に来ました。」老人は言った。「あなたの命は今日までです。明日のこの時間に命をもらいに来ますので、それまで残りの命を大切にしてください。」
私は突然のことにショックを受けた。「どうして」と聞くより前に老人の姿は消えてしまっていた。老人が持っていたのはカマだったのだとそのとき気がついた。
あーどうしよう、今日一日どう過ごせばいいだろう。考えるうちに強烈な睡魔が襲ってきた。大事な時間を無駄にしたくないと思ったが、眠ってしまった。

ドアをノックする音に起こされた。私はハッとした。死神が命を奪いにきた、私は最後の一日をずっと眠って過ごしてしまった!と思った。時計を見ると22:00だった。死神ではないようだ。
ドアを開けるとカナがいた。カナは高校生の頃からずっと付き合っている彼女だ。最後の2時間カナと過ごせるならいいかもしれないと思った。
「ねぇ、どこか行こう」「あぁ」

私は自転車の後ろにカナを乗せて、深夜の人も車もいない道をひたすら走っていた。闇を切り裂く風が気持ちよかった。カナの笑い声が心地よかった。人生最高の瞬間だと思えた。これから死ぬなんてウソだと思った。死神が来たなんて悪夢だったに違いないと思った。時計を見ると23:59だった。死ぬ気がしなかった。今頃、死神老人は私の部屋をノックしながら、おかしいな、いないな、と困っているかもしれない。なんだか可笑しくなってきた。「最高だ!」と叫んだ。
そのとき、カナの力が抜けたような気がした。「カナ、カナ!」呼びかけても返事がない。「なんで?」涙が出てきた。私はカナを後ろに乗せたまま自転車を走らせた。行くべき場所がわかっているかのように。

どこかの畑に着いた。暗闇の中にトマトの赤が浮かび上がっていた。私はその熟れたトマトを手にした。ひとかじりすると、口づけをするように、カナの口の中にトマトを流し込んだ。そうすれは生き返るような気がしたので。
しかし、何の変化もなかった。どうすることもできなかった。
それでもカナは笑顔だった。
「助けてください・・・神様どうか助けてください!」私は夜の闇に叫んだ。

カナは私の身代わりになってくれたんだ。どうにかして私の余命とカナの余命を入れ替えたんだ。私はそんなことも知らずに・・・あぁ私にはどうすることもできない。

空には赤い三日月が死神のカマのように不気味に浮かんでいた。。

イルカの絵

2005年11月07日 | クリエイティブな思考への挑戦
私は高層ビルの54階にいた。壁に飾ってある1枚の絵を見ていた。太陽の光でアクアブルーに輝く海の中を3匹のイルカが気持ちよさそうに泳いでいる絵。今にも動き出しそうな生き生きとした絵だった。
窓の外を見た。3匹のイルカが泳いでいた。さっきの絵そのままに。本当に絵が動き出したのか?再び絵を見てみると、絵はなくなっていて、壁1面すべてが窓になっていた。ビルの周りをたくさんのイルカが泳いでいて、まるで海の中にいるようだった。イルカの群れは空に浮かぶ太陽に向かって泳いでいった。太陽は空にあるように見えたし、水面に映っているようにも見えた。
これは新しい水族館か?それとも日本は水没してしまったのだろうか?いや、イルカが進化して空を飛べるようになったのかもしれない。

確かなことがあった。私は外に出ることができないだろう。なぜかそんな気がした。
ビルの外が海だからかもしれないし、イルカがサメのように襲ってくるからかもしれない。空に浮かぶ太陽に吸い込まれて焼かれてしまうからかもしれない。
そんな思考の末にたどり着いたのは、イルカは私よりもはるかに自由だということだった。外に出られない私を尻目に、イルカは自由に気持ちよさそうに泳いでいる。泳ぐイルカを見て新しい水族館かと思ったのだが、これは逆に、ビルという水槽の中で私がイルカに飼われているのかもしれない。

大陸のほとんどが水没してしまった未来世界では、イルカが人間を飼って暮らしている。
アクアブルーに輝くきれいな海を優雅に泳ぐイルカの美しい絵を見ながら、私はそんな残酷なことを考えていた。
いや、それこそが美しい世界なのかもしれない。。

ミームの正体

2005年11月02日 | パラソル
スーザン・ブラックモアの「ミームマシンとしての私」を読みながらミームについて考えていた。ミーム(meme)とは遺伝子(gene)とは別のもうひとつの自己複製子で、文化を伝えていくもので、模倣によって複製される。
「心を操るウイルス」などというと、言葉を発したら口からミームという粒子みたいのが飛んできて、耳に入ってきて脳に宿る、というようなイメージをもってしまうが、ミームなどという物質があるとは思えない。アフォーダンスと同じように、ミームも実体のない比喩的な存在でしかないと、私は思っていた。
しかしブラックモアの「ミームとは脳に形成される何か」というような表現を見て私はミームの実体をつかんだ。つまりミームとは脳内に形成された神経ネットワークであると。言い換えるなら、記憶そのものである。ある概念が伝えられると、それは記憶として脳に蓄えられる。その記憶というのは神経回路である。その神経回路は実体であるから、それこそがミームの実体であろうと。
また、「ミームの表現型」というのがあり、これは遺伝でいう表現型のような意味で、えんどう豆なら「丸」と「しわ」という形質。ミームの表現型は、実際に行われるジェスチャーや発せられた言葉、あるいは小説やオーディオから流れる音楽などがあげられる。これらもミームの実体といえるかもしれないが、脳にある記憶をもとに表現されたものであると考えると、ミームの本質はやはり脳内の神経回路ということになろう。

私のミームに対する関心は「強いミームの作り方」だった。強いミームさえ作れれば、売れる小説、売れる音楽、売れる漫画に売れる映画、あるいは洗脳さえもできてしまう。そんなわけで強いミームを作るにはどうすればいいのかという目的をもってミームを調べてきたのだが、ミームの正体は脳内の神経回路であった。
強いミームとは、記憶されやすいものでなければならない。単純かつ繰り返されるものは記憶されやすいだろう。例えば「ゲッツ」。単純であり、その年はテレビで何度も見させられた。
こちらの方が本筋だと思うが、強いミームとは強い感情を伴うものである。記憶を考えると、感情を伴ったほうが記憶されやすい。例えば、とても美しいと感じた人の顔はよく覚えている。同じようにブサイクと感じた顔も覚えてしまうものだ。記憶されにくいのはどうとも思わない普通の顔。神経の仕組みを考えてもわかる。感情は神経伝達物質によって引き起こされるが、その神経伝達物質は神経間の伝達をスムーズにし、神経間のつながりを強くする。つまり神経伝達物質が多いと記憶されやすい状態になる。

強いミームを作るには、記憶に残るようにしなければならない。そのために感情に訴える必要がある。感情に訴えかけるものは広まりやすい。と、なんとも当たり前な結論に至ってしまった。そらおもしろいものは売れるよ。ひどくつまらないものは記憶に残れど売れない。
売れる小説を書くには、感情に訴えるものでなければならない。となると心理学の話になると思われ、「ミーム学」というものは結局もうどうでもいいやと思う昨今であります。
ただ、脳内の神経回路がなぜ自己複製したがるかという問いにはまだ答えられないので、その辺はどうなんでしょうと思ったりしたりたり。

キチガイ病院

2005年11月01日 | クリエイティブな思考への挑戦
グオーン・・・グオーン・・・グオーン・・・
私はその音に目を覚ました。私は真白いベッドの上にいた。はて、ここはどこかしら、と思い考えてみて唖然とした。私は自分が誰かもわからなかった。記憶という記憶が全く飛んでいたのだ。あるのは、「グオーン・・・グオーン・・・」という音だけだった。
一瞬にして記憶喪失になってしまったのか。ふと気づいて窓の外を見た。青い海がどこまでも広がっていて、どういうわけか砂浜に、クジラが打ち上げられているみたように、飛行機が打ち上げられていた。私はいよいよ頭がおかしくなってしまったか。そう思うと同時にいろいろ思い出してきた。

部屋を見てみると、外に3つベッドがあり、2人がベッドの上にいて、1人が廊下で医者ともめていた。激しく言い寄る男の手に包丁が握られていたので、私は近づいていって「そんな怖いもの持たないでくれよ。反則だぜ。お前の勝ちだよ。だけど料理は俺の方が得意なんだ。だからこの包丁はもらうよ。」なんぞと言ってゆっくり包丁を取ったのだが、包丁を握った瞬間とてつもなく冷たい感じがしたので、いや熱かったかもしれない。「冷たいっ」と言ったのに実は熱かった、あるいはその逆みたような感じ。とにかく包丁を取り落としてしまった。医者先生がすぐさま取り上げたのでどうもならなかったが。
私が思い出したというのは、ここが精神に異常をきたして殺人を犯してしまった人たちの集まるキチガイ病院だということだ。はて、私がどんな犯罪を?そこまでは思い出せなかった。

今度は廊下の右手奥の部屋から黒い煙が出ていて騒ぎになっていた。行ってみると、部屋の真ん中に山積みにされた本が燃えていて、女性が布で叩いて消そうとしているところだった。私は近くにあった手ぬぐいを取り、一緒になって叩き始めたが、収まる様子はない。私は上の方の燃えていない本を取り除けるように、そばにいた女の子に指示した。すると、黒煙をあげる一冊の本だけが残った。一所懸命叩くが一向に消えないので、花瓶の水をかけるよう言って、ようやく消し止めた。すると少女と女性から「すばらしい判断だったわ、ありがとう」なんぞと褒められて、お礼にとグレイプフルーツをもらった。
私は得意気になっていたのだが、床の本を見てみると、さっきまで黒煙をあげて燃えていたのに、焦げた跡などが全く見当たらないので、あの煙は幻覚だったのではないかしらと思った。もらったグレイプを見てみると、テニスボールだったので、いよいよ私はキチガイだと思った。
どうしても気になるので、私はその本「ドグラマグラ」を持って部屋を出た。

部屋に戻る途中、向かいの部屋の男と目が合った。行ってみると、男は「お前は絶対に殺してやるからな。」なぞと物騒なことを言う。何かこの男と因縁を持ってしまい、命を狙われているのだということを思い出した。一体何があったのかまでは思い出せなかった。
私は窓の外を見ながら、「どこまでも白い雪景色を見てみろよ。美しいだろ。もっと早くお前と知り合いたかった。」「そうだな。」なぞと、わかったふうな意味不明な言葉を交わした。
はて、さっきは真夏の青い海、反対のこっちは真冬の雪景色ときた。やはり私の頭はどうかしているらしい。

グオーン・・・グオーン・・・グオーン・・・
どうやら時間を告げる時計の音らしいとわかったが、医者先生が何人かやってきて制服を渡してきた。白に男は青、女は赤のラインの入った制服。「作業だ。」と言われて、みんな列を成してぞろぞろ歩いていった。歩いていく先には重い鉄の扉があり、私はとてつもなくイヤな感じがした。キチガイ病院ではなく、あの世に来てしまったのではないかしら。あの扉の向こうにはエンマ大王様がいて、「お前は天国、お前は地獄」なんぞと選別しているのではないかしら。生前の行いを元に・・・記憶のない私は一体どうなるのかしら。なぞと思いながら、扉をくぐればいよいよ死人だぞと思い、逃げようかと思った。しかし、もしかするとエンマ大王様は私の失われた記憶を返してくれるかもしれないと思いつき、このまま歩いていくことに決めた。

私は今本当の自己を取り戻すために歩いている。。