54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

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神様論

2005年04月28日 | パラソル
量子の奇妙な働きに対して新世代の物理学者は確率を持ち出した。それに対してアインシュタインは「神様はサイコロを振らない」と言った。神様は完全な理論に基づいてこの宇宙を創造したのだと。
しかし神様は完全な存在であろうか。世の中には完全なものなど存在しない。円は始まりも終わりもない永遠を形作っているように見えるが、ミクロな視点で見るならばいびつに歪んでいる。三角形の内角の和は180°であるがミクロな視点で見るならばそうはならない。完全な円や三角形は存在しない。完全な図形は頭の中で空想することでしか現れない。完全なものは空想でしかない。
ならば、神様が完全であるとするならばそれは空想でしかないだろう。完全なものなど存在しないのだから。完全な神様は存在しない。神様が存在するには不完全でなければならない。神様は不完全な存在だ。
爆笑問題の太田光がその著書「ヒレハレ草」の中で描く世界観に私は感銘を受けた。全知全能の神は存在するか。全知全能の神は自分を超える存在を創り出せるか。創り出せるのならその時点で神は全知全能ではなくなり、創り出せなければやはり全知全能ではなくなる。胎児は子宮の中で進化の過程を再現する。地球が、この宇宙が神の子宮だとしたなら・・・。神様は神を超える存在を創り出そうとしているのかもしれない。人間はその過程に過ぎないのだ。長い受胎気を終え、神の形になったとき、新しい神は宇宙の外へと生まれるだろう。
不完全な神様はより完全に近い神様を創造してゆく。しかし物質が光速を超えられないように、完全な神様を創造することはできないだろう。不完全な神様が創り出した不完全な宇宙の不完全な真理を不完全な人間が完全に理解することなどできるはずもないと、ふと思ってしまった。

ちなみに、物質が光速を超えられないのは、光速に近づくにつれ物質の質量が無限に大きくなり、さらに加速するには無限のエネルギーが必要になってしまうからだ。不完全な神様に無限のエネルギーは創り出せない。エンタの神様もナメック星人も、あまりにも不完全すぎる。


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「ないものねだり」の教育改革

2005年04月27日 | パラソル
人間の本質は「ないものねだり」である。「飽きる」というのもそれが関係するのではなかろうか。エアロスミスやヴァンヘイレンを初めて聴いたときは衝撃的だった。こんな最高な音楽があるなんて!しかし今となっては慣れてしまったというか、飽きてしまっている。「ないものねだり」ゆえに、日本にはないサウンドに感動したが、その新しいサウンドが「ないもの」から「あるもの」になってしまい、ねだらなくなってしまった。
テレビゲーム、サッカー、K-1、いろんなものが飽きてしまっている中、今は学問に夢中になっている。小中高と学生の頃は勉強に興味がなくテレビゲームに夢中になっていた。「ないものねだり」だったのだろう。学校では勉強を大量に与えられる。やらなければならなかった。「ないものねだり」な少年は大量にある勉強ではなく、テレビゲームを求めたのだろう。それが今になって勉強に目覚めたというのは、勉強が「ある」から「ない」になったからではないだろうか。テレビゲームは学生の時期に飽きてしまったのだ。大学生になっても勉強を大量に与えられたとしたらこうはならなかったのかもしれない。
「ないものねだり」という人間の本質を利用して教育改革ができるのではないだろうか。勉強をしない子どもが増えているというが無理やりやらせるのは逆効果である。「ないものねだり」なのだから、学校は勉強ではなくテレビゲームだのスポーツだの遊びばかりを提供すればいい。そうすれば生徒は自ら勉強するようになるだろう。勉強させない学校、それが子どもに勉強させる。
ゆとり教育とは中途ハンパなのである。確かに勉強を減らしてはいるが十分ではない。この中途ハンパさが学力低下を生み出している。勉強を押し付ければ勉強はしない。大量に与えれば嫌がるがそれでも身には付いてくる。これを中途ハンパに減らすと、押し付けは押し付けなので勉強はしない、与えられるものが減ったので身にも付かない。学力低下を打破するにはとことん勉強をなくすか、とことん勉強させるかのどちらかしかない。
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重力による時間の遅れ

2005年04月26日 | 飛行する時間
相対性理論によれば時空は平坦ではなく湾曲している。物質の密度が高いほど時空の湾曲も大きくなる。質量の大きい太陽では時空の歪みが大きくなる。そこでは重力も大きい。重力というのは、重いものには強く、軽いものには弱く働く不思議な力ではなく、時空のゆがみである。
歪んだ時空の中で時間はどうなるのか。アインシュタインは重力が強いほど時計がゆっくり進むことを発見した。標高が高い場所に置かれた時計が標高の低い場所に置かれた時計よりも早く進むことが確認されている。標高が高いほうが重力は弱くなるからだ。時間は重力によっても遅れるようだ。
時計の遅れは量子の遅れである。重力によって量子が遅れるというのは想像に難くない。「ドラゴンボール」の中で孫悟空は重力による修行をしている。重力を10倍にすると体が重くなり運動に負荷がかかる。これを重力によって量子が動きにくくなっていると見ることもできる。重力によって量子が遅れるというのは自明のことのように思える。しかし鳥山明氏は重力の影響を大きく見落としているようだ。重力はすべての量子にはたらくのである。漫画の中では孫悟空の意識は平常どおりに働いている。これはおかしい。意識を構成する量子もまた遅れるはずなので意識もまた遅れるはずなのである。そう考えるならば体の動きが遅れるが、意識もまた遅れるので、感覚的には普通の重力と同じように感じられるはずである。これは新幹線に乗っている人が車両の中で走ったとしても自分が時速320kmで走っているようには感じずに、普通に時速20kmで走っているように感じるのと同じである。重力を10倍や100倍にしたところで普通の重力と変わらないのであれば孫悟空の修行はまったく無意味だったということになる。ブリーフ博士の研究もまた無意味だったことになる。
話は反れてしまったが、重力によって時間が遅れるということは宇宙のあらゆるところで時間の進み具合が違ってくるということになる。太陽木星土星といった質量の大きな惑星では時間はゆっくりと進み、月のような小さな衛星では時間が早く進む。このような宇宙観においては「絶対時間」などというものはまったく意味を成さない。しかもブラックホールという超高密度な場所では時間が止まってしまうのだ!
地球の時計はグリニッジ天文台を標準時としているが、宇宙の時計は一体どこを標準時とするのだろうか。
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アンドリューNDR114

2005年04月25日 | パラソル
昨日テレビで「アンドリューNDR114」という映画を見た。ロボットが人間になりたがるという物語。笑いあり感動ありで、ひとつの理想がそこにはあった。
アンドリューは人工知能をもったロボットであるが、自分で学習するにつれ自分を人間に近づけるためにヴァージョンアップしていく。まず、顔に表情を出せるようにして感情を表現できるようにした。次に皮膚や髪の毛をつけて外見を人間そっくりにした。そして人口臓器をつけて食べ物を食べたり痛みを感じたりできるようになった。アンドリューは人間になりたかった。法廷で自分が人間であると認めてもらいたかった。しかし法廷はアンドリューが不死身であるという理由でアンドリューが人間であるとは認めなかった。そこでアンドリューは血液を輸血し寿命をつくった。死ぬための改造である。アンドリューの死の直前になって法廷はアンドリューが人間であると認めた。アンドリューはその言葉を聞く前に息を引き取ったのだが。
アンドリューはなぜ死にたかったのか。自分とは違い寿命のある愛する人たちの死を永遠に看取り続けることに耐えられなかったからか。人間として認めてほしかったからか。そこには「ないものねだり」があると私は思う。人間は「ないものねだり」である。夏が暑いと冬の寒さが恋しかったり、冬が寒いと夏の暑さが恋しかったりする。北海道から上京すると急に雪が恋しくなったりする。人間はいつか死んでしまうから長く生きたいとか死にたくないとか思うのだろう。逆にロボットは死なないから死にたいと願ったのではなかろうか。もしも人間が不死を手に入れたとしたら、今度は死にたいと願うようになるだろう。満たされることのない、終わりのない欲望。「ないものねだり」こそが人間特有の本質なのではないだろうか。だとすれば、「ないものねだり」に突き動かされたアンドリューは初めから人間だったのかもしれない。

いや、人間のほうがロボットなのかもしれない。
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今日は人生で最も長い1日になりそうだ/ジャック・バウアー

2005年04月21日 | 飛行する時間
頭がフルに回転すると心理的時間は遅れて周りの時間が早く感じられる。ならば忙しい日は早く過ぎるように感じるはずだ。しかし実際は、「24」でジャックバウアーが「今日は人生で最も長い1日になりそうだ」と言うように、忙しい日は長く感じられるようだ。ジャックがボケーッとあのハードな1日を過ごしたとは思えない。心理的時間に関する私の考えは間違いだったのか。
人生の内で睡眠が占める割合は大きい。1日6時間寝たとするならば1日の1/4は睡眠に使っていることになる。寿命を80年とするならばその内20年間は眠っていたことになる。なんともったいない。80年生きてるつもりが60年間しか生きてないような気になってくる。もしも睡眠時間をゼロにできるのならば人生を無駄に使うことなく過ごせる。同じ80歳でも眠らない人は眠る人に比べて長い人生を送ることになる。ゼロ睡眠の80年間は普通の106年間にもなるのだ!睡眠時間を減らすことは私にとって重要なテーマである。が、ここでは別の話。
さて「24」がなぜ人生の中で最も長い1日になったか。答えは、24時間起きていたから。普通に6時間眠る人にとって1日は18時間であろう。しかしジャックはその日1日中起きていたので24時間だったのだ。なるほど、最も長い1日だ。もっと細かい区切りで時間を見るならば、ジャックは時間が早く過ぎるように感じただろう。チップが偽物であるという証拠を手に入れるために車を走らせているとき、時間がなんて早く過ぎるのだろうと思っただろう。時間がいくらあっても足りないと。1日という長い区切りで見ると違うものが関係してくるようだ。それは「記憶」だ。
たとえば昨日1日を思い出すとき24時間も記憶を再生することはできない。圧縮された昨日を思い出すことしかできないのだ。逆に何か特別な日の場合は、いろんなことが記憶に残る。そんな日を思い出すと長い間再生されるだろう。長い1日ということになる。何もなくただ過ぎていった日は少ししか思い出せない、あるいはまったく思い出せない。1日が0秒になってしまう。
「記憶」という尺度でみるならば、忙しい日は長く、どうってことない日は短くなる。「24」でいう1日はそういう意味で長くなったといえるのではないだろうか。しかし物理的な尺度でみるならばその1日は周りに比べて相対的に遅れていたはずで、心理的時間に関する私の考えは間違いではないであろう。

しかしながら、ここでいう「心理的時間」という言葉は誤解を生みやすいようだ。私自身使っていてどういう意味かわからなくなるときがある。正しくは「物理的心理的時間」とすべきだろうが長ったらしい。ここは新しい語を創り出す必要があるかもしれないが、私にはなかなか思いつかない。新語を創り出すのは難しい。
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遅れる時間を見る

2005年04月20日 | 飛行する時間
心理的時間の遅れは脳の活動が活発になり脳内の量子が光速で動くために引き起こされる。一人の人間が光速で移動するなんて考えられないが、こと脳内においては電子がまさに光速で移動しているのである。人は誰でも光速を出せる!
今回は心理的時間の遅れを「見る」実験をしてみた。まず、何も考えずにボーっと時計の秒針を見る。秒針がどれくらいのスピードで進んでいるかを見る。ボーっと見ているうちは秒針はゆっくり進んでいるように見える。次に、いろんなことを忙しく考えつつ時計の秒針を見る。すると秒針がとてつもない速さで進み始めた!少し大袈裟な表現だが初めはまさに驚くべき速さに見えた。何も考えずにといっても何かを考えてしまうし、いろんなことを考えるといっても急に疲れて思考停止になってしまったり、難しい実験ではあったが、心理的時間の遅れを「見る」ことができた。忙しく考えると脳内の量子が動き回り心理的時間が遅れるため、標準時間である時計が速く感じられるのだ。
さて実験ははたして成功だったのか。脳を活発にすると心理的時間が遅れるという「思い込み」が一種の暗示となって時計の進みを速く見せたのかもしれない。(しかしそれでも「心理的」時間の遅れといえるかもしれないが)。暗示といえば私は体がまったく動かなくなることがある。体が動かないと思い込むだけで本当に動けなくなってしまうのだ。左手を上げようとしても左手まで信号が届かずに肩の辺りで戻ってきてしまうような、気持ちの悪い感覚がある。そうなってしまうと一度左手に意識を集中して、切断されてしまった左手に再び接続しなければならなくなる。自分の体と「自分」は切り離された存在なのだろうか。金縛りになるとつくづくそう思ってしまう。しかも金縛りのときは自分の意志で再び接続することもできないのだ。そのときの気持ちの悪さといったらない。
私は自己暗示によって学校に行けなかったことがある。朝起きても眠くてやる気がしない。これでは体が動かないなと思ったとたんに暗示にかかってしまった。起き上がることができない。左手に集中しても再接続できない。いつまでたっても暗示は解けずに一日中金縛りにあっていた。後日、学校を休んだ理由を聞かれて「金縛っていたから」と言ったら怒られた。
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私は唯物論者かもしれない

2005年04月18日 | 飛行する時間
私が考える時間論について述べておこうと思う。
「時間」は存在しない。時間というのは人間が作り出した概念であって実態としてはどこにも存在しない。あるのは量子だけ、物体だけだ。そんなわけで私は唯物論者かもしれない。
「タイムマシン」は過去現在未来が同時に存在してこそ可能である。しかし実際には過去と未来は存在しない。あるのは現在の量子の状態だけある。過去というのは前の量子状態であり、現在においては変化し壊れてしまっている。未来というのはこれから変化しうる量子状態であり未だ存在しない。量子が移動するだけの世界においては現在が永遠に続くだけある。過去も未来も存在しない。もしも時間軸に沿ってタイムマシンを動かしたならそこには何一つ量子がなく「無」があるだけである。
時間は存在しないというのが「時間論」といえるかどうか。しかし「時間」という概念は確立されたものであり、この世から「時間」を消し去ることは不可能だ。そういうわけで私は時間という概念については考えなければならない。私にとって「時間」とは量子の動きである。
心理的時間と物理的時間は全く違うものか。私は心理的時間を物理的時間として扱えると考えている。なぜならば心理とは物理的に作られているからだ。脳という量子が絶妙なバランスで組み合わさった物体を電子と化学物質(これも量子)が駆け回って意識を作っている。心理というものは、魂という形のないもの、非科学的なものではなく、量子の組み合わせと相互作用によって物理的に作られているので、心理的時間は物理的時間と同じ法則で説明されうると私は考えている。
フロイトは物心二元論らしいが、私は唯物論のようだ。しかし量子が世界を構成しているのはいいが、その量子はどのようにして動くのか、それが私の新たな関心事だ。量子を動かす力はどこからくるのか。はたまた量子は自分の意志で動くのか(!?)。E=mc^2とはどういう意味なのか。それはまた別の話。
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アタックNo.1

2005年04月15日 | パラソル
昨日テレ朝でやっていたドラマ「アタックNo.1」。上戸彩、酒井彩名、森田彩華が昨年の「エースをねらえ」に続いて出ていたので、なんだ再放送か~などと思ってしまった。しかしストーリー展開も似ている部分もありデジャヴを感じるのも無理もない気がする。「H2」や「タッチ」も加えて昔のスポーツ漫画を実写化するというのがブームなのだろうか。ならば「キャプテン翼」も実写化してほしい。立花兄弟のスカイラブハリケーンをどうやって表現するのだろうか。
「エースをねらえ」から「アタックNo.1」へという流れ、同じように「ウォーターボーイズ」から「ファイヤーボーイズ」「スイングガールズ」という流れ、「リング」「呪怨」が「THE RING」「THE JUON」としてハリウッドでリメイクされたり、「フレディVSジェイソン」「エイリアンVSプレデター」というVSシリーズ、これらはみなヒット作を再生産したものにすぎない。そこにある創造力は微々たるものでしかないように思える。過去にあるものを再生産するということを続けていくならば、人類は止まってしまうだろう。過去のカタログから順番に再生産していく、なくなったらもう一度再生産する。それを繰り返していくのならばキリがない。無限に続く再生産。カタログは増えていくが、同じものをヴァージョンアップしたものに過ぎない。1冊ですべてである。
昨年「プライド」で主題歌として使われてQUEENがヒットした。VAN HALENやMOTLEY CRUEが再結成してベストアルバムを出した。過去の作品が顧みられることが悪いとはいわないが、私がほしいのは新しいQUEENであり新しいVAN HALENであり新しいMOTLEY CRUEである。過去の作品に頼ってしまうのは現代人の創造力が乏しくなっているからではないだろうか。ハードロックの時間は止まってしまっている。
情報化は加速するばかりだが人間の思考力は逆に停滞しているように思える。コンピュータという小さな箱に思考を委ねてしまったために人間の思考力が衰えてきているのではないか。ただでさえ30%しか使われていない脳に蓄えるべき記憶をコンピュータという外部メモリに保存するようになって、さらに脳は使われなくなってくる。いずれ人間は考えることをやめてしまうだろう。蓄積された情報に埋没してしまそうな現在を抜け出すにはクリエイティブな思考への跳躍が必要だ。

話は戻るが「アタックNo.1」の中で登場人物はみんなミズノ製品だ。シャツもパンツもシューズもサポータもカバンもすべてミズノ。スポンサーだかなんだか知らないがみんながみんな全身ミズノづくめではあまりにもヘンではないか。お前らみんなミズノ信者か!と言いたくなる。非現実感がそこにはある。バラエティ番組の隠し撮りなんかではペットボトルにモザイクがかかることがある。スポンサー以外の飲み物なのだろう。しかしそこまでする必要があるだろうか。スポンサーは大事だけど、作品としてリアリティを追求するならばミズノづくめにするべきではないだろう。かくいう私はミズノが大好きである。
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クリス・クロス/高畑京一郎

2005年04月14日 | ハコ
世界最強のコンピュータ「ギガント」が作り出すヴァーチャルリアリティRPG。256人のプレイヤーが体中に電極をつけ仮想世界で冒険をして誰よりも早くゲームクリアを目指す。
プレイヤー自身がゲームの中に入って冒険するというアイディアはありきたりすぎるが、だからこそラク~に読むことができた。気晴らしにはよかった。
はじめは普通にゲームを楽しんでいたのだが、ゲームの中でトラブルが起き現実に戻れなくなってしまう。しかもゲーム内での「死」は現実での死につながるという。この「死のゲーム」から抜け出すには「魔王」を倒すしか方法はない。仲間を集め、装備を整え魔王との決戦に挑む。「魔王」と戦っている最中にふと現実に呼び戻される。そこは病院だった。ゲーム内でのトラブルによって意識を失い病院に運ばれたのだ。しかしそばにあったバラには香りがなかった。仮想世界では視覚聴覚触覚は再現されるが味覚嗅覚は再現されない。ここも仮想世界だったのだ。仮想世界のなかの仮想世界から脱出するために窓から飛び降りる。すると再び「魔王」と戦っている場面。HPギリギリの中最後の一撃がクリティカルヒットとなり「魔王」を倒す。次の瞬間ゲームスタッフにより起こされる。現実世界に戻ってきたのだ。実はゲーム内でのトラブルというのは演出であり「ゲーム」だったと聞かされる。しかし主人公は信じられずここもまた仮想世界なのではないかと思う。嗅覚は戻ってきているのだが・・・。
これはつまり何が現実で何が仮想なのか区別がつかないということだろう。電気信号により感覚は簡単に操作される。確かなものなどどこにもない。今私は現実世界にいると思っているが、コンピュータの中にいるのかもしれないし、夢なのかもしれないし、誰かが書いた本の中にいるのかもしれない。それを確かめる術はない。自分という存在の不確かさは大きな不安を与える。しかしフロイトの二元論じゃないが、そのことについて考えるこの「自分」は確かに存在していて確かなものだ。考える自分が存在している以上ここが現実であれ仮想世界であれどうでもいいじゃないか。所詮我々は神の手のひらの上で踊らされているにすぎない。
私が考えている世界の全体像。神様が、我々が地球儀を見るように、地球を見ていて一人一人の暮らしや国同士の動きなどを楽しんでいる。人間が作り出した映画や音楽も楽しんでいる。そして、そんな「地球儀」が何個もありいろんな神様がいろんな「地球儀」を見て楽しんでいる。世界は限りなく広い。
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心理的時間の遅れ

2005年04月13日 | 飛行する時間
人は楽しいとき時が経つのが早いとか、つまらないとき時が経つのが遅いとか表現する。これは体験的にも確かであるように思う。心理的状況によって時間の進みが早くなったり遅くなったりする感覚はどこからくるのだろうか。
「ウラシマ効果」。動く時計が遅れるという事実。先日、以前の実験を時計を入れ替えてやってみたところ、やはり4日で1秒遅れた。実はアインシュタインが遅れる時間の公式を残している。√1-(v/c)^2□:1という比である。ここで、ルートは□までかかっていて、^2は2乗のことで、vは時計の速度、cは光速(秒速約30万km)である。この式で私の実験を計算しようとしたがうまく計算できず答え合わせができなかった。これは私の数学レベルが低いためである。この公式が紹介されていた「時間について / P.J.ズワルト」の中では、vが光速に十分近くならないと時間の遅れは認知できないとあるが、私の実験によるならば4日(345600秒)というスケールなら1秒くらいの遅れは認知できそうである。
動く時計が遅れるのは高速で動く量子がなんらかの抵抗力を受けることに由来するという仮説。これによって心理的な時間の遅れも説明できそうである。楽しいとき脳は活発に活動していると思われる。多くの処理をこなすので脳の中を電気信号や科学物質が高速で駆け回る。このことが脳内の時間を遅れさせているのではないだろうか。脳内の時間が遅れるのでふと外の時計に目をやるともうこんな時間か、と思うのである。つまり「時が経つのが早い」のではなく「脳内時間が遅れている」のである。逆に、つまらないときは脳もあまり活動せず、諸粒子の動きは遅い。すると、固定された時計と同じ状態なので標準時とほぼ同じ速度で脳内の時間が流れる。「時が経つのが遅い」のではなく、実は普通の速度で時は流れていて、それと同じ速度で脳内の時間も流れているのだが、脳の通常の時間の流れと比べると早いので「時が経つのが遅い」と錯覚しているだけなのである。
時計の遅れと比べると心理的な時間の遅れは誰でも体験的に認知されうるのだがそれもそのはずで、脳内の活動はまさに光速である。電気信号は光速で脳内を駆け回っているのだ。こう考えると心理的な時間は非常に不安定なものである。脳の活動レベルによって遅れたり早くなったりする。生態リズムでは1日が25時間ともいうし。そんなわけで人間は時計を必要としているのではないだろうか。時計を見るたびに心理的時間を調節しているのである。そうしなければ1日が30時間になったり10時間になったりしてしまうのである。
世界中の時計が壊れてしまったとき、私は1日を何時間過ごすのだろうか。

ところで、√とか2乗とかちゃんと表せないもんかね~。書くのに一瞬悩んじゃったよ。
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歴史を越える(新選組血風録/司馬遼太郎)

2005年04月12日 | パラソル
私は新選組が好きである。幕末から明治にかけての動乱の時代。漫画「るろうに剣心」がきっかけでこの時代に興味をもった。己の正義のために命をかけて刀を振るう。かっこいい。この「血風録」は短編集なので読みやすい。
私が描く沖田総司像は「るろうに剣心」に出てくる瀬田宗次郎のものだ。外見も声も(声はアニメの)。もともと瀬田のモチーフが司馬遼太郎が描く沖田総司だからというのがその理由だ。なるほど「血風録」を読んでるとまさに瀬田宗次郎である。その口調や性格が瀬田を連想させる。ほかにも原田左之助は相楽左之助を連想させるし、斉藤一はまさに「るろうに剣心」の斉藤一だ。「るろうに剣心」の中で新選組が登場するシーンが少しあるのだが、近藤勇と土方歳三はそのイメージだ。そこに沖田も登場するのだが、宗次郎のイメージの方が強い。
さて、「るろうに剣心」のモチーフが司馬遼太郎なのだが、私の中では司馬遼太郎のモチーフが「るろうに剣心」になっているのである。これは私が司馬遼太郎の作品よりも「るろうに剣心」を先に読んでいるからである。これと似たようなことを音楽でも経験している。B'zの「Don't Leave Me」がAEROSMITHの「Cry'n」に似ているのだが、それを知っているにも関わらずAEROSMITHがB'zに似ているかのように感じてしまう。やはりB'zを先に聴いているからだろう。
ここで言いたいのはそこにオリジナルとクローンの意味がなくなるということだ。司馬遼太郎がオリジナルなのだがクローンである剣心を先に読んでしまったために剣心がオリジナルになってしまっている。知識として司馬遼太郎の方がオリジナルだと知ることはできるが、感覚としては剣心の方がオリジナルである。もはやどっちがオリジナルかなんてどうでもいいことであるような気がする。どっちがオリジナルかは別にして、消費者がどちらを先にとるかでオリジナルとクローンが決まるのではないだろうか。パクリだパクリだという議論はそこでは意味をなさないように私には思える。
複製技術、大量生産、保存技術の向上により、現在のものだけでなく過去のものまでも容易に手に入るようになった。そこに時間軸などはない。1984年の作品も1974年の作品も時間を越えて同じ2005年に存在している。時間軸はそれを消費する者によって形成されていく。
私の中ではB'zより後にAEROSMITHがデビューしている。

話を「新選組血風録」に戻そう。沖田総司のイメージは和月伸宏が描く瀬田宗次郎であり、司馬遼太郎が描く沖田総司なのだが、実際の沖田総司の性格はどうであったのか。宗次郎のように底抜けに明るくかわいい人物だと私は思い込んでいるが、実際は近藤勇のように無口なのかもしれない。しかし歴史小説の面白さはそこにあるのかもしれない。過去の偉大な人物を蘇らせ息吹を吹き込む。司馬遼太郎が創り上げた沖田総司が私は好きだ。現在のように映像として後世に残ってしまえばその楽しみは消え去ってしまうだろう。タイムマシンで過去に戻って確かめるなんていうのも面白くない。科学と文学はそんなわけで対立しているようにみえる。
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未来の科学

2005年04月11日 | 飛行する時間
酸素は細胞を錆びさせるので有害である。しかし我々は生きるうえで酸素を必要としている。酸素がなければ細胞は死んでしまう。生きるために酸素を吸い、そのせいで死へと向かっている。「呼吸」という我々にとって当たり前の行為はとても矛盾しているように思われる。ギリシャ神話風に言うのなら、神様は人間に寿命を与えるために酸素呼吸を人間に課した、とでも言おうか。
さてギリシャ神話の中には自然の謎を解き明かしているものがある。たとえば、裁縫上手な人間を神様がクモに変えてしまったという話。元が裁縫上手な人間だからクモはあんなにきれいな巣を作るのだとか。しかしクモの巣作りのメカニズムは生物学的に解明されているだろう。だから私は「神様が~」などという主張は受け入れられない。
ギリシャ神話に抱く「非現実感」「非科学的感」は科学が正解だという認識からきていると思う。科学がなかった時代、神話には現実感があったのではないだろうか。人々はそれを真実であるかのように受け入れていたのではないだろうか。その「現実感」が科学の登場によって覆された。科学は実験などによって自然現象を説明してきた。論理的な説明は我々に否応なしにそれが「正しい」と認識させる。科学が正解なのだ。
しかし神話が科学によって覆されたように科学による「現実感」が新しい何かに覆される日がくるのではないかと私は危惧している。今まで正解だと思っていたものがすべて間違いだったと言い渡されるとき。
私はこんな夢をみた。空を見ていると太陽のように輝く物体が現れて、私はたまらず目を瞑ってしまう。再び目を開けるとその物体が私の目の前にあった。銀色の光る物体、UFOのような。そこから人間が降りてきた。宇宙人ではなく普通の地球人、衣服のデザインは見たこともないようなものだが。彼は普通の日本語で「私は未来から来ました」という。なるほど未来人なのか、と夢の中なのであっさり信じてしまう。そして彼はこう聞いてきた。「あなたの住んでいるこの地球はどんな形ですか」と。私は知っている。昔地球は平らだったが、現在では誰もが地球は球体だと「知っている」。私はそれくらいは知っているさと得意げに「球体に決まってるだろう」と言った。しかし未来人は人を小馬鹿にしたような顔でこう言うのである。「地球が球体だって?何馬鹿なこと言ってるんだ。地球は○×▽☆型だろう」と。
科学を超えた未来の世界では地球の形は見たことも聞いたこともない形になっているかもしれない。
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夢を見れない若者

2005年04月07日 | パラレル
最近、夢を見れない若者が増えているという。

将来何になりたいかと問われると、公務員になって安定した収入を得たいとか、何でもいいから職に就きたいとか、普通に暮らせればいいとか言うのである。
社長になって金持ちになりたいとか、総理大臣になって日本を変えたいとか、ロックバンドを組んでビルボード1位になりたいとか言ってもいいじゃないかと思う。

私の中学生のときの夢はサッカー選手だった。たいしてうまくもないのに将来は日本代表になっているはずだなどと平気で思っていた。
今思えば何を馬鹿な夢を見ているんだと思うが、若いうちは馬鹿な夢を見るべきだと思う。金八先生が言うように「夢見る力=エネルギー」である。(私はこの言葉をめちゃイケの期末テストのときに岡村先生から教えられました)。

さて、私は中学生のころ悪ふざけが好きだった。女子のスカートをめくったり、授業中に机に立って騒いだり、廊下でサッカーをして窓ガラスを割ったり、夜の校舎窓ガラス壊して回ったり・・・していた。
そんな私は親や教師にいつも怒られていた。

実は今でも悪ふざけが好きである。好意の女性のあとをつけまわしたり、「オレオレ」と言って大金を騙し取ったり、些細なことで親に暴行したり、となりのババァの犬をバラしたりする。
そんな私は世間や警察にいつも怒られている。裁判官に死刑を言い渡されたところで目が覚めて、あぁ夢だったのかとほっとする。
そう、私の悪ふざけは夢の中のできごとだった。しかしながら、あまりにもリアルな夢なのでいつも冷や汗ものである。

しかしそういう夢を見るからこそ現実の世界で犯罪に手を染めずにいられているのかもしれない、と私は思う。そういう夢を見ていなければいつ自分が凶悪な犯罪者になってもおかしくないのではないか。
夢の中で犯罪を犯してしまいそれを後悔することで、現実の世界において絶対に犯罪なんてしてはいけないと自制できているのだろう。

最近、夢を見れない若者が増えているという。。


秘密の入り口

さて、人生がスタンプラリーだとしたら、
この一瞬私が見ている夢はどんなスタンプになるのだろうか。
夢のスタンプ帳が満タンになったら夢が叶うのだろうか。

少なくとも、行動しなけりゃスタンプはたまらないということ。。
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