54のパラレルワールド

Photon's parallel world~光子の世界はパラレルだ。

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Look atからLook aroundへ

2006年11月04日 | パラレル
カゴの中の鳥、オリの中のライオン、そしてハコの中の人間。

人間は囚われの身だ。ハコの中に閉じ込められている。
家の中、学校の中、会社の中、店の中、車の中、電車の中。

狭いハコの中で、人間は「見る」行為を制限されている。
ハコの中では遠くを「見回す(Look around)」という行為は阻害され、
何か特定のものを「見る(Look at)」ことばかりを強いられる。
テレビやパソコンの画面、黒板やホワイトボード、教科書や書類、、、
見て、見て、見て、見て、、、近くにあるものばかり、、、

子供のころ、授業中に窓の外ばかり見ていたのは、遠くのものを見たいという欲求からだったのかもしれない。


目の前のものを見るということに慣れた人間は、遠くのものを見るという能力が低下している。
目先のことしか見えない。

環境破壊や株価の暴落、犯罪の増加が起こる。
先のことを見通す目を持っていないから。
夢を持てない子どもたち、そしてニート、、、
目先の快楽に気をとられてしまう。
遠くに目を向けて、未来に向かって努力することができない。

Look aroundできない。Look atだけ。
そのうち人間は、本当に目の前にあるものしか見えなくなるんじゃないか。
自分の網膜しか見えない。
周りのことなど何も見えず、自分のことしか見えない。
『すべての網膜の終り』。


―――それを変えるのよ。

そんなの、無理だよ、、

―――そうやってすぐ無理だとあきらめてしまうのは、遠くを見回そうとしないから。
壁ばかりをみつめていても何もはじまらない。見回すのよ。
扉はもう少し遠くのほうにある。


僕は風景画を描き始めた。遠くまで見渡せるような、広大な風景の絵を。
絵を見るという行為はLook atだけど、そこからLook aroundできるような。

Look atからLook aroundへ。。


「この絵には引き込まれるような魅力がありますなあ、、、はて?」
評論家たちは絵をじろじろと見ていた。
Look atの盲者。

しかし、、、

「おい見てみろよ、この絵!」「うわあ、すげえ!」
「こんな景色、どこ行ったら見れるのかな?」「山の上じゃない?」
「じゃあ、今度の日曜日、一緒に山登りしようぜ!」

Look atからLook aroundへ、、、
視線を変えたら別世界。。

Look at a round。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

「われわれ成人は、見回すのではなくて見ることに大半の時間を費やしている。」(ギブソン『生態学的視覚論』)

ギブソンというと、レスポール。Tak Burst。
でもそっちのギブソンは無関係。

『すべての網膜の終り』はマーティン・ケリー監督の映画の仮タイトル。
人工的色盲者の青年がラスヴェガスの色彩に擬態する天使をみつけるというストーリー。

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夢で逢えたら、、

2006年11月01日 | パラレル
夢の中で好きな異性に会ったという経験はないだろうか。
あるいは、別に意識していなかった異性が夢の中に現れたら、なんだか急に気になりはじめた、とか。
異性でなくとも、好きな芸能人やミュージシャンなどに夢の中で会ったということは。

今回は、「夢」の話。

夢の中で会うというのは、想像上の出来事ではなく、“本当に”会っているのだ。

以前書いた「瞬間移動の理論的考察」を思い出してほしい。
これはフロイト的な夢ではなく、量子力学的な夢なのだ。

人間は眠りに就き、意識を失うと、その物質的存在は波動関数に還元される。
身体の物質的存在があいまいになる。
もちろんこれは、他に観測者がいない場合に限られる。
もしも誰かがその人の寝顔を眺めていたりしたら、存在は確固たるものとして存在する。
誰かの目の前で人間が消えるなんてことは99.99999999、、、%起こりえない。
しかし、たった一人で眠っているとき、人間は“可能性の波”になる。

さて、波動関数になった人間はどこにでも存在しうる。
夢の中で人は、自分の家だけではなく、どこか別のさまざまな場所に出現しうる。
知らない街、知らない図書館、知らない屋敷、、私は一度“恐竜パーク”と呼べるような場所に行ったことがある。
しかしそれは“夢の中”というけれども、実際に存在しているのである。

意識が完全に眠っているノンレム睡眠時には、人は夢を見ない。
そこからレム睡眠に移行して、意識が半分覚醒したとき、人は夢を見る。
意識を取り戻し、自分自身を観測したとき、波動関数は収束し、身体は再物質化する。
これは「夢」とはいうけれども、現実である。超現実。

「夢」とは、睡眠と覚醒の中間にある半覚醒状態の意識が存在する現実である。

ただし、その意識は半分眠っている状態なので、その物質的存在は極めてあいまいである。
たとえば、夢の中で高いところから落ちても死ななかったりする。
それは身体の物質的存在があいまいなので、地面との衝突の際にその物質的存在が拡散するからである。

さて、ここまでよろしいかな。
夢は現実である、という話。

ここからは、「夢で逢えたら」の話。
「意志は量子に干渉する」を思い出してほしい。

夢の中で誰かと会う、というのはまったくの偶然ではない。
その人の意志が影響した結果である。

たとえば、私が“恐竜パーク”に飛んだのは、ちょうどそのとき「ジュラシック・パーク」に心を惹かれていた影響であろう。(ちなみに、その夢の中で私は、巨大な恐竜(ティラノザウルスではない)から逃げていた。暗緑色に濁った河に飛び込んだら、ワニがいるのに気づいて急いで岸に上がったり(私は泳げないのだが)。なんとかパークから出ようと思ったら、柵がめちゃめちゃ高くて(3メートルくらい)、一生懸命上ったり、した。)

だから、夢の中で誰かと会うというのは、会いたいと思ったから会ったのである。
自分、もしくは相手、あるいは両思い。
そしてその相手は想像上の存在ではなく、実在である。

相手も眠りに就き波動関数となって、そして意志の干渉のもとに同じ場所に具現化した。
だから“本当に”会っているのである。

ということは。
私は夢の中で何度かB'zのLIVEを見たことがある。
あるときは、気づくと部屋の外から爆音が聞こえて。窓を開けると、目の前のビルの屋上でB'zがLIVEをやっていた。
あるときは、どこかの体育館でB'zがLIVEをやっていて、私は最前列でそれを見ていた!
あれは現実だったのだ!!
目の前に稲葉さん!松本さん!

ということは。
私はある日の夢の中で、ダウンタウンの松本さんと爆笑問題の太田さんという現実ではありえない組み合わせのビッグ2とスリーショットで歩いていた。
松本さんも太田さんもすごいトークを繰り広げて私を笑わせた。
そしてなにより、私の一言が松本さんを笑わせたのが一番印象的だった。
あれも現実だったのだ!!

これらは、私がB'zや松本さんや太田さんに会いたいという強い意志があったから実現したのであろう。
とりわけ、夢の中でのB'zのLIVEというのは、多くのB'zファンの意志が関わっている。
まさに夢のLIVEである。

シュレーディンガーの波動関数、そしてコペンハーゲン解釈。
それらによって生み出された量子力学的「夢」、超現実。
夢で逢えたら、、

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脳神経は現実と想像を区別できない。
特に、思い出される記憶は、夢の記憶も現実の記憶も等価である。
私は幼いころの記憶で、あれは現実だったか夢だったか判断できない記憶がいくつかある。

何でも好き勝手できる夢の中で思い出つくってもいいじゃないか!
B'zの夢もそうだし、あるいはイルカの夢もそう。
夢の中で食べるごちそうはたしかに美味を知覚させた。

そんなわけで、私は今日も夢を見る。。
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瞬間移動の理論的考察

2006年09月26日 | パラレル
どしゃ降りの日に学校へ行くのは気が滅入る。そんなとき、「瞬間移動」ができたらなと思う。瞬間移動ができれば、北海道の実家から横浜の大学まで通うことができる。テレポーテーション。ドラえもんの「どこでもドア」。
私が今回導き出す瞬間移動はドラゴンボールZの孫悟空が使う瞬間移動に近いものだろう。

瞬間移動の前に、「幽体離脱」は可能か。意識は脳で作られている。それは間違いない。だから意識は脳にあるはずだ。その、脳にある意識が身体を離れて幽体離脱するということは可能だろうか。
電球と光について考えてもらいたい。光は電球によって生み出される。しかし、光は遠くへ広がっていくことができる。同じように、意識もまた、脳を離れていくことが可能なのではないか。
幽体離脱というと、寝ている自分を天井から眺めるという状態を思い浮かべる。しかし、中には、意識だけを自由に操ることができて、夜の空を自由に飛びまわるという幽体離脱もある。
身体から離脱した意識はあらゆる物理法則を超えることができる。

シュレーディンガーの波動方程式は電子の動きを正確に記述するものである。そして波動関数は任意の点に電子がみつかる確率を表している。
量子論によれば、電子はあらゆる点に存在する可能性をもっている。波動関数が大きければ、その確率が高いということだ。たとえば、ある人の波動関数を見ることができるなら、それはその人と同じ形になるだろう。それはそこにある確率が高いからである。しかし、波動関数は宇宙全体に広がっているため、その人が月で見つかる確率もわずかだがある。
確率の波は宇宙全体に広がっているが、実際に存在する私はここにのみ存在しているように思える。確率から存在へ、それは観測によってなされる。コペンハーゲン解釈と呼ばれるものである。
観測を行う前、物質はあらゆる状態で同時に存在しうる。観測を行うと、波動関数は収縮し、物体が明確な状態になる。観測が物体を確率の波に実体をもたせる。

さて、私は今ここに存在しているが、しかし同時に月や火星にも存在しているのである(可能性の段階では)。私の波動関数は月にも広がっているわけである。もしも月にいる私を誰かが観測すれば、私は月で実体化する。

ここで、「瞬間移動」である。波動関数で表されるごくごく小さな確率の私を、私自身の意識が観測するのである。私という確率の波を私自身が観測することによって、月に、いやありとあらゆる場所に私を実体化することができるのである。「我思う、ゆえに我あり」である。

私の身体は、今ここに存在してしまっている。私という観測者によって観測されている私の身体の波動関数は収縮し、実体化している。私の身体は今100%の確率でここに存在している。
まず、その収縮した波動関数、100%の私の身体を解体する必要がある。そのためには観測者を排除しなければならない。観測者は私自身の意識である。意識を無にしていくのである。何も考えずに、意識を消し去って、無になっていく。
すると、私の身体は消えて、波動関数は再び宇宙全体へと広がってゆく。
次に、行きたい場所にある私の身体の波動関数をつかまえる。波動関数はもちろん今しがた私がいた場所に大きく存在している。そこにいる確率が極めて高いからだ。だから行きたい場所にいる私の身体の波動関数をつかまえるのはとても難しいだろう。そこいる確率が極めて小さいのだから。
しかし、意識がそこにいるわずかな波動関数を見つけることができたら、私の意識による観測によって私の身体は実体化し、行きたい場所へ瞬間移動することができる。月でも火星でも宇宙のあらゆる場所へ瞬間移動することができる。(もちろん、宇宙空間に生命維持装置なしで瞬間移動したら風船爆弾になってしまうから注意)。

さて、今ここで述べた「瞬間移動」はドラゴンボールZに出てくる孫悟空の瞬間移動のイメージにそっくりではないだろうか。悟空の瞬間移動の場合、生命体の「気」をみつけて、そこへ飛ぶので、生命体が存在しない場所へ飛ぶことはできないが、目を閉じ、観測者を探すという感じが似ている。
まあ、それはいいとして。

今回私が考えた「波動関数」と「観測者」による瞬間移動は理論的には可能(?)かもしれないが、現在のところ実現はしていない。とりあえず私としては、毎晩寝る前に瞬間移動を試みてみようかなというところです。
もしも「瞬間移動」ができたという人がいましたら、ぜひご一報ください。。

いや本気ですよ、超現実。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

難しかったでしょうか?波動関数とか、ね。一般向けの量子論の本を一冊読んでいただければわかるかと思います。
オススメは、「パラレルワールド―11次元の宇宙から超空間へ

わかりやすいし、おもしろい。相対性理論、量子論、超ひも理論と物理学を理解できます。宇宙論がメインテーマで、ビッグバンやブラックホールなどの理論がどのように生まれたか、あるいはそこからどんなおもしろいことが考えられるか。SFなどの題材も交えて、とても読みやすい本です。
私はタイトルが気になったので手にとったのですが、思わぬ良書でした。おかげで再び物理学ブームです。。

ところで、10月2日深夜からフジテレビで「24-twenty four-」シーズン・フォー(あれ?死語?)が9夜連続放送されるらしい!
眠れない夜が今年もやってきた。。
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永遠の距離

2006年09月06日 | パラレル
永遠の時間はないけれど、永遠の距離はある。

つまり、人間にはどうしても行けない場所があるということ。

永遠の距離÷有限の時間=無限大の速度

有限の時間で永遠の距離を越えるには無限大の速度が必要。
しかし、無限大の速度を出すには無限大のエネルギーが必要で、無限大のエネルギーを生み出すことは不可能だから、永遠の距離をつかむことはできない。

行きたい場所がある。
北海道から横浜へやってきて、世界の違いがおもしろくて。
京都にも住んでみたいし、沖縄にも住んでみたい。パリ、ロサンゼルス、ロンドンでも暮らしてみたい。あるいは、アフリカのサバンナや、アマゾンのジャングル、北欧のツンドラなどでも生活してみたい。あるいは、月に行ってみたいし、太陽系を飛び出してみたいし、宇宙の果てがあるなら見てみたいし、その先があるならその先へも行ってみたい。
しかし、そのすべてを実行するのは不可能だ。
時間は有限なのだから。

人生は短すぎる。
人間の寿命は大幅に伸びたとはいっても、せいぜい100年。
宇宙が誕生してからの歴史と比べれば微々たるもの。
宇宙の万物を知ることなど到底かなわない。

やりたいことはたくさんあるはずなのに、そのすべてをやることはできないから、やりたいことが何も残らない。何一つできないまま、時間だけが過ぎる。
限られた貴重な時間が、零れ落ちてゆく。

夜空に輝く星を見ながら、永遠の距離を裏病む。
光になって飛んでいけたらたどり着けるのに。
いや、それでも数年かかってしまう。
私の命はその間に燃え尽きてしまわないだろうか。
たどり着いたところで一体何ができるだろうか。
結局は時間の無駄だった、なんてことにならないだろうか。

そんなことを考えると、光になる気力も失せる。
想像力が光を失う。

光を失った星は死んだ星とみなされる。
もはや誰にも観測されないのだから、無いのと同じだから。

七色に光る星があるという。
宇宙の長い歴史の中で、その星はゆっくりと、ときには突然、色を変えてきたという。
赤や青、黄色や緑と、さまざまに色を変えてきた。
しかし、その星の長い歴史の中で、光を失ったことは一度も無いという。

七色に光る星は永遠の距離を越えて、この地球に希望を届けてくれているのではないか。

輝き続けること。
永遠は光の中にあるのではないか。
距離も時間も速度も関係ない。
無限大のエネルギーが生まれる場所。

人間は笑っているときが一番エネルギーに満ちているという。。

虹色の想いを抱きしめて。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

HYDEがTETSUを刺し殺すなんて、、
「DIVE TO BLUE」とか、「Driver's High」とか、「自由への招待」とか。

L'Arc-en-Cielを英訳すると、The Arch in Skyらしい。
だから「虹」。
空、Sky、Ciel、どれも同じ空。
なんとなく、世界がつながっているような気がする。。
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I can't see

2006年08月19日 | パラレル
I can't see.

見えないことはわからないこと。。

状況を理解するには周りが見えていなければいけない。
物事を理解するにはその物を見つめなければならない。

わからない、わからない、ないないばかりの世の中になってしまったのは、
現代人の視力の低下のせいではないだろうか。

現代人の視力が低下したのは、遠くまで見渡せなくなったからだ。
今私が周りを見回しても部屋の壁があるために5メートルも見えやしない。
窓から外を見てみても、建物に阻まれてそんなに遠くまで見ることができない。

人工的な建物がなかった頃、それはそれは遠くまで見渡せたはずだ。
どこからでも富士山が見えたはずだ。
どこからでも見える富士山を見るたびに、あれが日本一の山か、、と自然の偉大さを感じていたに違いない。

しかし遠くまで見渡せなくなった今、我々は山の巨大さ、自然の偉大さがわからなくなってしまったのではないか。
巨大な高層ビルを見るたびに人間の偉大さを感じるようになってしまったのではないか。
人間の方が自然よりも偉大だと感じるようになってしまったのではないか。

巨大台風や巨大地震などの大規模な自然災害に直面しないと自然の驚異がわからなくなってしまったのではないか。

I can't see...
見えないことはわからないことである。

今遠くまで見ることができるのは、空だけだ。
空だけが何ものにも遮られずに遠くまで見ることができる。

私は思うのだけど、空はどこまで続いているのだろう。
空の青は一体どこに貼り付いているのだろう。
地球と宇宙を分ける境界面が空だ。

最近私が感じるのは、空がどんどん低くなってきているのではないかということだ。
私が子どもの頃はもっと空は高かったような気がする。
これは私の錯覚だろうか。あなたにはそれが見えないだろうか。

私は地球が日に日に小さくなってきているように思えるのだ。
空の青はどんどん濃くなり、私のもとへと近づいてくる。
私はそのうち深い暗い青に飲み込まれてしまうのではないかと不安になる。

宇宙は膨張し拡大しているのに、地球は収縮しているように思える。
これは我々人間が地球の偉大さを感じることができなくなってしまったからではないだろうか。
地球が偉大さを失っていっているのではないだろうか。

見える景色がどんどん狭くなっていく。
わからないことがどんどん増えていく。

I can't see...
見えないことはわからないこと。

私は空をみつめる。
私は空の偉大さを感じる。
地球の偉大さを感じる。
そうすることで地球が再び偉大さを取り戻すのではないかと思って。

空はどこまでも高く、青く澄んでいなければならない。。

るろうに剣心、人斬り巌達の名言。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ
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意味

2006年08月03日 | パラレル
文頭に意味があるとすれば、文中文末に意味はない。
文中に意味があるとすれば、文頭文末に意味はない。
文末に意味があるとすれば、文頭文中に意味はない。

これらをすべて合わせるとすれば、文章のすべてに意味がある、といえる。
しかし逆にいえば、文章のどこにも意味はない、ともいえる。
私はいつも後者の見方をしてきた。

人生もまた同じである。

すべてが新鮮で物事をありのままに受け止めることができる子どもの頃に意味があるのか、
精神身体ともに成熟し最もエネルギーに満ちている大人の頃に意味があるのか、
すべてを悟ったつもりになっている老人の頃に意味があるのか、

どこにも意味はない、人生に意味などない。
生きていることに意味などないのだ。

「意味」という言葉をどう捉えるかによっても見方は違ってくる。
「意味」に意味はあるのか。

「宇宙」というたった2文字の言葉は、膨大な空間を秘めている。
同じように「意味」という2文字は、膨大な意味を秘めているのかもしれない。
しかし逆にいえば、意味に意味はないのである。

生きていることに意味などない、と書いたけども、
逆にいえば、意味を自由に与えられるということだ。

なんでもいい。
「君を愛するために生まれたのだ」と言ってもいいのだ。

あらかじめ与えられた意味などないのだから、自分で自由に決めていいのだ。

「意味がない」ということは、その中に膨大な意味を秘めているということなのだ。。

「宇宙」に意味なんかないんだよ。。にほんブログ村 大学生日記ブログへ

人間だって「生物」なのだから、生存に有利なことしかしないんだよ。
もしも人間が死に向かっているとすれば、それがこの星の生存に有利なことだからじゃないかな。
それでも生きようとするのは、それもやっぱり「生物」だからかな。

、、、意味なんかないんだよ。

つまり、意味だらけで意味わかんないんだよ。。

E=E=┏(・~・)┛???

あ、、

人間はなぜ生きる意味を探すのだろう?
動物が生まれて死ぬのを見る限り生きることにたいした意味などないとわかるのに。
種の保存、それだけなのに。

なのに人間が生きる意味を求めるのはなぜか。
それは人間の本質が意味を生み出すことだからじゃないか。

人間の特性は言葉を生み出すことである。
そして言葉は意味を生み出す。

脳は言葉を生み出さずにはいられない。
どんなものにも意味を与えようとする。
だから「人生」なんてものにも意味を与えようとするのだ。。

ということを書こうと思ってたのに、、
脳が次々と生み出す言葉が論旨をどんどん曲げてしまう。

う~ん、、書くことにも意味なんかないんだね。。
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自己愛

2006年07月16日 | パラレル
母親はそこに悪魔を見た。
少年はそこに悪魔を見た。
しかしそれは鏡に映った自分だったのではないか。
殺したのは“自分自身”だったのではないか。

なぜ親が子を殺し、子が親を殺すのか。

親が子を愛し、子が親を愛する。
それは動物の本能ではないのか。
それは絶対的なものではないのか。

自分自身を愛せない。
自己嫌悪に陥る。
現代社会は評価社会で、我々は常に評価される。
我々は点数に置き換えられ、優劣をつけられる。
誰かと比較され、自分の能力のなさに自己嫌悪する。
もっとマシな人間だったらと思う。

自分自身を心から愛せる人はどれだけいるだろうか。

私は私が嫌いだ。
変わりたいと思う。
しかし変われない自分がいて、そんな自分をますます嫌いになってゆく。

親と子は半身分身ではないだろうか。
DNAの半分は同じなのだ。

親が子を殺す、子が親を殺すというのは、自分自身を殺すということの変異体なのではないか。
親は子に、子は親に、自分自身を見たのではないか。
そこに自分自身の嫌な部分を見てしまったのではないか。
自己嫌悪の気持ちが、親を子を、自分の半身分身を悪魔に見せたのではないか。

子殺し、親殺しという近年の嫌な流れは、自己嫌悪という風潮が原因にあるのではないか。
自分自身を愛せない人間が他人を愛せるわけがない。
言い換えれば、自分自身を嫌う人間は他人をも嫌うのだ。

我々は自分自身をみつめなければならない。
人間にはいろんな面がある。
いいところもあれば悪いところもある。
人間は不完全な生き物なのだから、欠点があって当たり前なのだ。
人間は本来欠点まみれなのだ。
重要なのは、欠点ばかりをみるのではなく、自分の長所をみることではないか。
他人にはない、自分だけのいいところ。
これだけは他人よりも優れていると思えるところ。
自分のいいところを愛することが大事なのではないか。
自己愛が大事なのではないか。

自分自身を愛することができたとき、我々は同時に他人を愛することができるのだ。
欠点ばかりを見る目ではなく、長所ばかりを見る目で世界を見たとき、見える景色は全然違ってくるだろう。

鏡に映った自分が微笑みかけてきたとき、心の中には大きな白い翼が。。

汝、汝を愛せよ。。

今日のヘビーローテーションは、相川七瀬「EVERYBODY GOES」です。
(自己愛の流れだと河村隆一を挙げたくもなりますが、、)

先日フジテレビで相川七瀬のLIVEをやってて、めっちゃよかった。
七瀬さんも10周年ですよ。バンドメンバーがすごいよね、元MEGADETHのMARTY FRIEDMAN、元X-JAPANのPATA、元LUNA SEAの真矢。
もうね、全盛期の相川七瀬よりも全盛期って感じですよ。
本物のROCKって感じでさ、大塚愛なんか霞んで見えてしまうよ。

10周年記念LIVEDVD「AIKAWA NANASE 7.7.7.LIVE AT SHIBUYA AX」が欲しい。

同じくフジテレビでKREVAのLIVE「愛・自分博~国民的行事~」もやってて、やっぱりKREVAのRAPはすげーなと思った。
Dr.Kすげーよ。
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人は誰でも罪を背負って生きている

2006年04月29日 | パラレル
人間は生まれながらにして罪人である。
アダムが禁断の実を食べたという罪を生まれながらにしてもっているのである。

そんな話ではございません。

アダムの罪はイエスが死をもって償ってくれたじゃないか!

人は誰でも罪を背負って生きている。

子どもの頃というのは誰でも悪いことをしたんじゃないだろうか。
たとえば、トンボの羽を千切ったり、アリに砂をかけて埋めたり、
あるいは、女子に悪口を言って泣かしてしまったり、いたずらで靴に画鋲を入れたり、
万引きしたり、窓を割ったり、、

子どもは好奇心と無知、溢れる衝動のために悪事をはたらいてしまうのだ。
だから人は誰でも罪を犯しているのだ。

大人はだから、子どもの頃に積み重ねてきた罪を償って生きていかなければならないのだ。
大人になれば、良い事と悪いことはプラスマイナスゼロというわけにはいかない。
子どもの頃にかなりマイナスになっているから、大人は良いことを繰り返してプラスにしていかなければならないのだ。

「贖罪」という考え方は和月伸宏「るろうに剣心」による。
緋村剣心は幕末に「人斬り抜刀斎」として多くの人を斬ってきた。よりよい世の中のため、とはいえ人斬りは人斬りである。
人斬りの罪を償う答えを探す、贖罪のための流浪。
「逆刃刀」を手にした剣心は、二度と人を殺めることなく、目に映る弱き人を守るために流浪するのである。

人間はときに過ちを犯してしまう。
しかしその罪は償えばいい。

目に映る弱き人を守りましょう。。

いつも心に逆刃刀。。

今日のヘビーローテーションはmihimaruGT「mihimalife」です。
「ユルメのレイデ」とか「Love is...」とかいいですねえ。ファンキーディスコティック。
新曲「気分上々↑↑」もいい感じだし、ミヒマルいいねえ。
ボーカルのhirokoが矢口真里に見えるのは私だけ?
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ブログに心が宿るか

2006年04月16日 | パラレル
「私という書物」にも少し書いたが、
ブログに自分の思考のすべてを書いたなら、そのブログは自分のクローンになるだろうか。ブログに心が宿るだろうか。

「O茶の水女子大生の上京日記」を最初の記事から最新の記事まですべて読んだとき、私はそこに「亀本さやか」を感じていた。そこには本当に亀本さんがいて、本当に亀本さんが語っていた。
私は会ってもいないのに、実際に会って話を聞いているような気になった。ブログには確かに亀本さんの心が宿っていた。
これは書物にもいえることだ。「相対性理論」を読めばアインシュタインの講義を聞いているような気になるし、「恐怖の存在」を読めばクライトンが語る物語を聞いているような気になる。書物にも心は宿っている。

ブログや書物がもつ心はどこから来ているのだろうか。
ブログはもともと、サーバーにある電子情報である。生の電子情報を見て心を感じることはないだろう。
書物は紙に印刷されたインクである。インク自体に心はないだろう。

では心はどこから来るのか?

それを読む人間からである。

ブログも書物も、読まれて初めて心が宿るのである。
読む者が誰もいなければ、それはただの電子情報、ただの紙の束である。
ブログも書物も、読まれて初めて語ることができるのである。

考えてみれば、ブログや書物に語らせているのは自分だと気づく。
その声は自分が想像したものである。

人間が心を与えるのである。

「ペットに心があるか」では犬や猫について「本当は心なんてないのに、人間のほうで勝手に心があると思い込んでいるだけなのかもしれない。」と書いた。
そこでの結論は「人間には本当は心が宿っていないかもしれない」というものだったが、その一方では「人間が心を与える」のである。

この世に物質しかなかった頃、精神なんてものが存在しなかった頃、神が物質に精神を与えた、という。
しかし、人間が心を与えるとすれば、人間が神なのかもしれないし、神は人間だったのかもしれない。
いずれにせよ、「心を与える」という能力は素晴らしいものである。

子どもは人形に心を与える。絵や車や、あらゆるものに心を与える。大人では想像もつかないことを。
子どもの方が大人よりも神に近いのかもしれない。

自分に心を与えるのも自分である。
自分には心が無いんじゃないか。自分の心は貧しい。そう思ったとしたら、自分で心を与えればいい。
人間には「心を与える」という素晴らしい能力があるのだから。

心が豊かな人間になりましょう。。


かなりがんばった。。

>>「意志は量子に干渉する」 >>「振動エネルギー論」
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あの世は頭の中にある

2006年04月13日 | パラレル
火曜に「文化環境論」という授業をとったんですけど、シャーマンとか、呪術とか、怪しげな授業です。でもおもしろそう。
私は幽霊を信じません。

芸術家には霊感のある人が多いという。

ラマチャンドランの「脳のなかの幽霊」では、側頭葉が宗教的神秘的体験と深い関わりがあると書いている。
側頭葉てんかん患者に治療のために側頭葉に電極を刺して電気刺激を与えると、患者は生き生きとした意識体験をする。明瞭なクオリアを感じる。これはしばしば宗教的体験、神秘的体験と表現される。

芸術家は側頭葉を酷使するのかもしれない。それにより生じた明瞭なクオリアがしばしば神秘的体験、霊感として感じられるのかもしれない。
あるいはゴッホやドストエフスキーは側頭葉てんかんだったといわれている。


さて、霊感や神秘的体験は側頭葉によってもたらされる。ゆえに科学的に説明されうるし、霊感は脳が生み出す幻なのだ、と私は結論した。

が、別の観方もできるだろう。

側頭葉はこの世とあの世をつなぐメディア(媒体)である。

芸術家は時に「アイデアが降りてくる」という表現をする。
アイデアはどこから降りてくるのだろうか。
天から?
いや、頭の中からである。

あの世は頭の中にある。。


表現することは生きることである。(参照:「生きるということのススメ」

頭の中に浮かんだ考えは、頭の外に出ることによって、はじめて生きるのである。
つまり、表現するということは、あの世からこの世へと生まれてくることであり、まさに「生きる」ことなのである。

何も表現できない人間は「死んでいる」のと同じなのである。
頭の中にとどまっているというのは「あの世」にいるのと同じなのである。
人間は表現してはじめて「生きる」ことができるのである。

頭の中という「あの世」から、外の世界という「この世」への出産。

何かアイデアがひらめいたとき、それを表現せずにはいられない。
それはアイデアが生まれようと欲しているからではないだろうか。
ミームは生まれたいのだ。
頭の中に浮かんだ以上、表現されずにはいられない。
妊娠したら出産しなければいられないのだ。
中絶というのは生命に対する冒涜だ。

アイデアを殺さないでくれ。ミームを殺さないでくれ。


芸術家には霊感をある人が多い、という話から、側頭葉による神秘的体験、そしてあの世が頭の中にある、、、。でもって表現することは生きること。
アイデアが飛躍していって、理系の話と文系の話が混ざり合って、わかりにくかったかもしれません。

霊感のない私は芸術家には向いていないのかも。

しかしながら、この記事を書いている間、アイデアの飛躍を体験している間、私はとてつもなく幸福感に包まれていた。。


かなりがんばった。。

ちなみに、、

あの世の52%は犠牲で出来ています
まあね、、

あの世の38%は税金で出来ています
そうなのか!!
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「現在は錯視のルネサンス」北岡明佳

2006年04月08日 | パラレル
茂木健一郎と愉しむ科学のクオリア(日経サイエンス2006年5月号)
「現在は錯視のルネサンス」(ゲスト:北岡明佳)
を読んで。

北岡先生の錯視図形はすごいです。「蛇の回転」を見たときは衝撃を受けました。
動画じゃないんですよ、静止画なんですよ。

ミュラー・リヤー錯視のような昔の錯視は単純な線画だったが、パソコンを使えるようになると飛躍的に錯視研究が進んだ。
今後も新しい錯視現象が次々と登場してくるだろう。
まさに錯覚のルネサンス時代である。

北岡先生は「優れた錯視図形は美しい」という。「錯視が発生すること自体が美しい」ともいっている。
そして「美しいものは普遍的に錯視を伴っているはずだ」という仮説もいっている。

私も同じようなことを思っている。
美しいと感じるのは錯視に基づいている。

好きな女の子をみるとかわいいと感じる。これは錯視だ。
好きだという感情が「かわいい」ように見せているのである。

私が中学生のとき、ある瞬間からカナちゃんを好きになった。
すると、それまではただのうるさい女子だと思っていたのに、好きになった瞬間からとてもかわいらしく見えたのだ。うるさいおしゃべりも心地よい。
カナちゃん自体はそんなに変わっていないのだから、これは私の脳が変わったということである。好きになったことでカナちゃんに対する見方が変わったのだ。

今思えばカナちゃんはそれほどかわいい女子ではなかった。(ごめんなさい)
それをかわいいと思わせていたのはひとえにカナちゃんのパーソナリティである。

パーソナリティの良い人は美しく見えるし、かっこよく見える。逆に嫌なヤツは表情がきついとか、仕草がむかつく、とか悪いようにしか見えない。
それは実際にその人の心がきれいだったり汚かったりということが表情に表れたり、振る舞いに表れたりという影響もあるだろう。
しかし、そこには見る側の感情による錯視も大きく関わっていると思われる。

世の中は錯視でできている。

どうせ見る錯視なら、世界を美しいものとして見ていたい。。


なかなか上がらないなあ、と思うよりは
よくここまで上がってきた、と思うほうが幸せでしょう。
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意志は量子に干渉する

2006年03月29日 | パラレル
今の私は偶然だろうか必然だろうか。
音楽が好きで読書も好きでお笑いも好きで。
太田光、松本人志を尊敬し、クライトンから科学が好きになって、脳科学に興味を持って、B’z、ラルク、エアロスミスさまざまな音楽を聴いて、人と話すのが苦手で、なにかを表現したくて、ブログを書いてる今の私。
この私は偶然だろうか、必然だろうか。

あのときああしていれば違う私があったのに。あのときああしていればこうはならなかっただろうに。
そんなことはたくさんあって。私という可能性は無数にあったはずだ。
その無数の私の中で、今存在している私はこの私ただひとりである。

「運命論」では、すべての物質が物理法則に従うなら、この宇宙がはじまった瞬間から、すべての未来が決定付けられていて、だから運命は最初から決まっている、ということを書いた。

しかし、量子論では違う見方ができる。量子の状態は観測しなければ確率でしか決定できない。有名なパラドックス「シュレディンガーの猫」は、箱の中の猫は、箱を開けない限り、生きているし、同時に死んでいるというものだ。観測しない限り、確率でしか猫の生死を決定できない。

そこから生まれたのが「多世界解釈」である。未来というものは無数に分岐する。量子一個でもとりうる状態はいくつもあるのだ、宇宙全体の可能性は無限大だ。
こんな未来もあんな未来もある。しかし観測されるのはただひとつの宇宙である。
私という未来は無数にあるけれど、現実に実現されるのはただひとつの未来である。

今の私は、無数に存在する多世界のうちの、偶然観測されたただひとつの世界に存在するただひとりの私である。
無数にある多世界のうちどれを選択するかは偶然か、必然か。どれを観測するかは運命付けられているのだろうか。

宇宙に存在する無数の量子の波動関数の無限の組合せ。無限の多世界のうちのたったひとつだけ観測されて存在しているこの世界、この私。
唯一無二のこの私。奇跡的に存在しているこの私。
無限に存在する多世界のなかで、たったひとり選ばれたこの私。
もっと自信をもってもいいんじゃないか。

量子論も多世界解釈もなんのことかさっぱりわからない人にとってはわけのわからない文章だったかもしれない。知っている人が読むともっとわけがわからないかもしれない。

ここでひとつの希望ある仮説を立てたい。

意志は量子に干渉する。

量子の世界の不可思議さは、同じ条件で光子を放ったときに、2つのスリットをどちらも通ってしまうことである。Aの方を通過したら、同じ条件なのだからずっとAを通るはずなのに、同じ確率でBも通過するのだ。
これを説明するのに、「多世界の光子が干渉する」という仮説が出てきた。

私は無数の未来からどれを選び取るかというときに、意志が干渉すると考えたい。
「こうなりたい」という意志が、無数の未来の中から、理想の未来を選び取らせる。
もうこれは運命ではない。意志が運命に干渉するのだ。

強い意志を持てば、無数の多世界の中から理想の未来が選び取られていく。

個人の意志であれ、世界の意志であれ。
夢をみること、平和を祈ることは無駄なことではない。
理想を描くことは、量子に干渉し、物理法則に干渉し、運命に干渉し、無限の多世界から理想の世界を選び取らせるのだ。

だから、
強い意志を持っていたい。。


  
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犯罪増加の原因は少子化問題!?

2006年03月27日 | パラレル
近年犯罪件数が増加している。日本の治安は悪化している。安全は金で買う時代だ。

こんな議論をすると、批判的な意見にも出会う。
実際は、犯罪件数は戦後減少し続けていて、日本の治安は昔よりもかなり安全になっている。犯罪が増加したと不安に思っているのは、凶悪犯罪をことさらに強調して報道するメディアのせいだ。
だから私も犯罪は実際は減少していて、メディアのせいで不安になっているのだと考えていた。

しかし本当だろうか?
確かに戦後からみた長期的な統計では、犯罪件数は大幅に減少している。しかしそれは、警察が整備されたことや、経済的に豊かになったことを考えると当然のことである。
ここ十数年という短期的な統計に限ってみると、犯罪件数は明らかに増加傾向にある。これは今後犯罪件数が長期的に増加していくという前兆なのではないか。減少傾向から増加傾向へと移ったのではないか。

さて、近年の犯罪増加は、少子化が原因なのではないか
ということを今回考えてみる。

子どもは夢を見る。
夢はその日の出来事を脳が整理するために見るものである。子どもはまだ未熟で、日々いろんなものごとを見たり聞いたりして新しく学習・経験をするので、子どもの脳はその新しい学習を整理するために、とりわけたくさんの夢を見るのだ。
逆に大人は新しいものごとにあまり出会わないのであまり夢を見なくなる。

子どもは夢をたくさん見る。それだけでなく、子どもは大人にも夢を与えてくれる。
子どもを見ていると心が和んでくる。大人は子どもに夢を見ている。

しかし、少子化によって子どもがいなくなれば、大人は夢を見られなくなるのだ。

「夢を見れない若者」で書いたが、夢を見ることは犯罪へ向かう衝動を抑制する。
夢を見られなくなると、抑制が効かなくなり、人は犯罪に向かってしまう。
少子化によって、子どもから夢をもらえなくなった大人は、だから犯罪に向かってしまうのではないか。それが近年の犯罪増加につながっているのではないか。

仕事におけるストレス、大人社会のストレス、日々ストレスにさらされ続ける大人は、子どもを見ることによって一時的にでもストレスから開放された。しかし、子どもが少なくなれば、ストレスは発散する場を失い、犯罪に向けられる。

子どもが持つ不思議な力。夢を与えてくれるという神秘的な力。子どもが心の平和をつくるのだ。
犯罪を減らすためにも、少子化問題を早急に解決し、子どもを増やさなくてはいけない。
犯罪の多い世の中、子どもが安全に生活できるか心配、といって子どもを生むのをためらっているならそれは間違いだ。逆効果だ。負のスパイラルだ。
子どもが犯罪を減少させるのだ。子どもが平和をつくるのだ。

そして我々は子どもたちに感謝しなくてはならない。
夢をありがとう。。

>>「少子化について」 >>「少子化と多コンピュータ化」 
>>「コミュニケーション不足で人類は滅びる!」


  
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私という書物

2006年03月26日 | パラレル
私というのは一冊の書物である。
頭の中は言葉の宇宙である。
脳細胞を細かく見ていくと、そこには文字が書いてある。
電子顕微鏡のコンピュータ画像では見えないが、心で見ると見える文字が書いてある。
そこには、私が何を感じ、何を考えてきたかのすべてが書き記されてある。
私という人生のプロフィールのすべてが書いてある。

私とあなたが出会ったとき、あなたは私を読む。
私もあなたを読む。
書物と書物の出会い。それは文字と文字との混ざり合いである。
あなたは私を書き換え、私はあなたを書き換える。
私が出会ったすべての人たちが私を書き換えてきた。
私という書物には私が出会ったすべての書物が書き記されている。

ときには、私を大きく改変し、まったく違う書物にしてしまうような書物に出会うこともある。
太田光、松本人志、室井尚、稲葉浩志、松本孝弘、HYDE、スティーヴン・タイラー、マイクル・クライトン、アルバート・アインシュタイン、、上げればキリがない。
人生を変えてしまうような、そんな書物にたくさん出会いたい。
そして私自身がそんな書物になりたい。

書物は読まれるためにある。書き加えられるためにある。
私はあなたに読まれたときにはじめて存在できる。
生まれてきた意味を現象させることができる。

そして今私とあなたは出会っている。
あなたは私を読んでいる。
私はあなたをどれだけ書き換えられるだろうか。

私はブログを書いている。
これは私の翻訳作業であり、複製作業である。
私がより広く拡散するための、私を増殖させるためのクローン生成。

そして、私の永続化。
私という肉体が滅んでも、私を読んだすべての人の中に、私は存在できる。
私を読んだすべての書物の中に私の一部が書き加えられている。
私という存在が永続化する。

私とあなたは今出会ってしまった。
これからも私という書物を愛読していただきたい。

ありがとう。。  
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松田美由紀「生きるということのススメ」

2006年03月25日 | パラレル
「爆笑問題のススメ」、ゲストは松田美由紀さん、「生きるということのススメ」。

私は実は松田美由紀さんが松田優作さんの奥さんだと初めて知った。また松田優作はBVDのTシャツというのも知った。ダウンタウンの松本さんもBVDのTシャツ。あれは松田優作を意識してのことなのかもしれない。
太田さんは松田優作のファン。黒澤映画も絶賛する。松本さんも同じく。太田光と松本人志。私が敬愛する二人の共通点。松田優作や黒澤映画に私も興味をひかれてしまう。

さて太田さんは松田優作さんの大ファンということで、今回はとくに熱く語っていたのが印象的だった。


なにかを誰かに伝えたい。なにかをなんで伝えたいかというと、自分の中のことをこの世の中に吐き出してみてその反応を見たいということで、それは生きているということを確認したいということなんだ。
生きていることが正しいかどうかなんて誰にもわからない。だからそれを確かめるために会話をしたり、何かを伝えたり、音楽を聴いたり、音楽を発したり、人間のやることすべてがそういうことなんじゃないか。
その叫びを一番感じさせてくれるのが松田優作だった。

人の反応を気にして、これを言おうかどうか迷うことがあるけど、思っちゃったことは表現しないわけにはいかない。
発言を自分の中に抑え込んで後悔するよりも、言って批判される方が数段マシなんだ。
それを後押ししてくれるのが松田優作だった。

                (爆笑問題のススメO.A.より)


そして松田優作全集最後の言葉。

ぼくは役者ですからね、ものをつくるとか、
なにかを感じるとか、なにかを表現していきたい
自分が感じることに、
とことん、まじめでありたい

それがぼくにとって、生きるということだと思うんです

               (松田優作全集松田美由紀より)


「表現」ということについて強く考えさせられた。なにかを表現するということが生きているということなんだ。
太田さんと同じように私も高校生のころは友達が一人もいなく、自分というものを抑えこんできた。いや、大学生になった今でもそうだ。
だから今こうしてブログを書いて、必死で表現しようとしているのかもしれない。「生きている」ということを確認するために。

私は生きてきた証として、曲をこの世に残しておきたいと考えていた。肉体は滅んでも、音楽は生き続ける。最近では音楽よりも小説を残したいと考えるようになった。一生に一冊でいいから、後世に残るような小説を書きたい。「私」という存在が生き続けるために。

なにかを表現したい。クリエイティブでありたい。最近ブログを頻繁に更新するようになってその思いは日に日に強くなってきている。今私はとても生き生きしているように思う。「表現する」ことによって「生きている」からかもしれない。

表現することは生きることである。

この言葉を常に心がけていたい。。


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ところで、「爆笑問題のススメ」が次週で最終回だそうです。内P、松本紳助に続いて、私の好きなテレビ番組がまたひとつ消えていく。
特に「爆笑問題のススメ」は重要だった。太田さんが一番輝いている場所だったし、私が読書をするうえで参考になる場所であった。眞鍋さんを毎週見る場所でもあった。太田さんのすぐ近くにいる眞鍋さんをどれほど羨んだことか。
「爆笑問題のススメ」、、、もう見れなくなると思うと残念です。
木村カエラが来週でサクサク卒業というのもあり、春は別れの季節だなあと思うのです。

パラレルな世紀への跳躍太田光

 
        
           
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