◎昭和初期の血液型ブームと浅田一
数日前のコラムで、法医学者の浅田一〈ハジメ〉を取り上げたところ、浅田一の曾孫と拝察される方から、「今もこうして、曾祖父の事を書いて頂いていることに感謝いたします」というコメントをいただいた。
ブログを開設してから、一か月半、どういう読者によって、どういうふうに受けとめられているのか、皆目見当がつかない。それだけに、少数でも、こうしたコメントをいただけると張り合いがあるというものである。
そういうわけで、浅田一について、もう少し論じてみたい。
今日、浅田一という法医学者を知る人は少なくなっている。しかし、松田薫氏の『[血液型と性格]の社会史』(河出書房新社、一九九一。改訂一九九四)を読まれたことのある方であれば、あるいは、「血液型と気質」という問題に関心をお持ちの方であれば、かつて浅田一という法医学者がおり、古川竹二〈フルカワ・タケジ〉という心理学者の「血液型と気質」相関説を支持していたことをご存じのことと思う。
浅田一は、戦後の一九五二年(昭和二七)に亡くなっている。その前年に発行された『現代日本の人物事典 一九五一年度編集』(『自由国民』第三四号、一九五一)には、次のように紹介されている。
浅田 一(あさだ・はじめ) 明治二〇年東京生まれ〔大阪生まれが正しい〕。東京医大教授。東大医卒。医博。世田ケ谷区代田一ノ六三五。窒息、指紋の研究。著書として「法医学講義」のほか随筆ものが多い。
もうひとつ、インターネットで見られるデジタル版日本人名大辞典を見ておこう。
浅田 一 あさだ-はじめ 一八八七-一九五二 大正-昭和時代の法医学者。明治二〇年三月二四日生まれ。欧米に留学後、長崎医大教授となり、昭和九年東京医専(現東京医大)教授。血清学の研究で知られた。昭和二七年七月一六日死去。六五歳。大阪出身。東大帝大卒。著作に「法医学講義」「窒息死の検屍」「性的犯罪者」など。
浅田一の「人となり」を紹介している文章は数多いが、「文は人なり」という言葉もあるので、最初に、浅田本人の文章を紹介しておこう。
東京女子高等師範学校教授古川竹二氏は気質と血液型との間の関係を研究され、次に述べるような結論に到達された。すなわちA型の人は内気であきらめ悪く、悲観的で寡黙〈カモク〉に傾くが、B型の人は反対に豪放磊落〈ゴウホウライラク〉、あきらめよく、怒りやすいが怒った後は光風霽月〈コウフウセイゲツ〉である。率先して事をする。悪くいえば出しゃばりである。AB型の人は表面B型で豪放磊落だが、内心はA型で綿密細心、つまらぬことまでも気にかける。O型の人は感情的でなく理智的に振るまう。A、B、ABはつまり感情に走りやすくO型は理性に走りやすい、執拗〈シツヨウ〉である、片意地〈カタイジ〉である。
これは、一九二九年(昭和四)に発表された「最近に於ける血液型の知見の進歩に就て」という文章の一部である。「光風霽月」というのは、「心が澄み切っているさま」を指す言葉だという。『治療及処方』第一〇巻第五冊所載。引用は、『犯罪鑑定余談』(武侠社、一九二九)より(ただし、初出も参照した)。引用にあたって、かな遣いなどは、少し直している。
見てわかるように、文章は平易で、しかも独特のリズムがある。これは、並の学者の文章ではない。浅田はここで、古川竹二の「血液型と気質」相関説を簡潔に紹介しているだけだが、各血液型についての素描は、いかにも印象的である(ここでは、「血液型と気質」相関説そのものについての判断は保留する)。
「血液型と気質」相関説を創始した古川竹二も、比較的わかりやすい文章を書く人だったが、古川本人は、ここまで端的に言い切る勇気と表現力は持っていなかったと思われる。
もちろん世間は(あるいはマスメディアは)、こうした浅田式素描を歓迎したはずである。浅田一の文章力、法医学者としての地位は(当時、長崎医科大学医学部法医学教室教授)、古川竹二の「血液型と気質」相関説(古川学説)の普及に貢献すると同時に、昭和初期における「血液型ブーム」の拡大に大きく関与することになったと考える。【この話、続く】
今日の名言 2012・7・12
◎当社は名誉回復のため近く提訴します
昨日の日本経済新聞朝刊より。日本経済新聞社は、昨日11日に発売された週刊文春の見出し・記事に関して、株式会社文藝春秋などを提訴する予定だという。昨日の日経新聞には、週刊新潮の広告はあったが、週刊文春の広告は掲載されていなかった。
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