礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朴烈・金子文子「怪写真」事件と小川平吉への問責

2012-07-11 05:05:52 | 日記

◎朴烈・金子文子「怪写真」事件と小川平吉への問責

 一九二六年(大正一五)七月、「朴烈文子怪写真事件」と呼ばれる事件が勃発した。前年の一九二五年、大逆罪件で起訴され、取調べを受けていた朴烈〈ボク・レツ〉と金子文子〈カネコ・フミコ〉の二人が、獄中で「雌雄相抱いて」いる写真が流出し、大問題になったのである。
 この事件については、インターネット上で、多くの解説がなされているし、当の写真も紹介されているので、詳述の必要はあるまい。以下に紹介するのは、この事件の「余波」として起きた小川平吉(元・司法大臣)への問責問題である。
 もっともここでは、この小川平吉問責問題について、吉野作造博士が書いている文章「小川平吉問責の悪戯〈アクギ〉」をそのまま引用するだけである。
 出典は、昨日も利用した吉野作造『現代憲政の運用』(一元社、一九三〇)。「小川平吉問責の悪戯」は、一九二七年(昭和二)三月に発表された文章であるが、初出は示されていない。かな遣いなどは改めている。

 憲政会所属の少壮代議士間に更新会なる一団があると云う。二月初旬緊急総会を開き、例の怪写真の撮影期日が小川平吉翁の法相〔司法大臣〕在任中たることが明瞭となったからとて改めて同氏の引責を要求するとかいう意味の相談をしたとやら。若い者の癖に下らぬことを騒ぎまわる連中である。
 と云っても私は小川翁に全然責任がないと云うのではない。彼は去年の夏〔一九二六年七月〕朴烈文子の怪写真件の起こったときこれを司法権の威信に関する重大事件なりと呼号し、もしこれが俺の在任中の出来事であったら国家に対する申し訳なさに全然政界を引退するといきまき、武者振り勇ましく江木〔翼〕法相に肉薄〔肉迫〕してその挂冠〔辞任〕を迫ったのである。すなわち彼は怪写真を以て当の責任者たる大臣の政治的致命傷に値する重大事件なりとなし、この武器を取って江木法相に喰ってかかったのである。もっともあの当時ですら、世間は下らぬことに力みかえる男だナと彼の態度を冷笑的侮蔑を以て迎え、その事実がどう決まろうと政治的責任を叫ぶべき筋の問題ではないと、人みな高を括っていた。ゆえに今日それが小川法相時代の出来事だとわかっても、改まって彼の責任を問うなどの子供らしい態度に出ようとするものは一人もない。ただこれを小川翁一個人の問題としてみると、敵に擬した刃〈ヤイバ〉はなんぞ図らん自ら自分の頭に引っかかっている姿であり、公人の徳義としてはなんとかこれを始末せずしては自己の良心が済むまい。世間一般はそれがどうなろうと今日〈コンニチ〉一向これに関心していないことは勿論だ。蓋し〈ケダシ〉彼の存否のごときもとより国民がその眼中にに置く所ではないからである。【以下略】

 皮肉のきいた文章である。それにしても、吉野作造博士の学者離れした文章力に驚く。博士の文章力は、当時の一流の新聞記者に匹敵するものがあったのではないだろうか。
 年表的事実を確認しておけば、小川平吉は、第一次加藤高明内閣(一九二四年六月~一九二五年七月)の司法大臣。江木翼〈タスク〉は、第二次加藤高明内閣(一九二五年八月~一九二六年一月)、および第一次若槻礼次郎内閣(一九二六年一月~一九二七年四月)の司法大臣であった。
 ちなみに、元首相の宮沢喜一は、小川平吉の孫にあたるという(小川平吉の二女「こと」の長男)。

今日の名言 2012・7・11

◎頭の悪い者が自分の利害ばかりに拘泥して編み出す議論ほど始末に負へぬものはない

 吉野作造の言葉。「小川平吉問責の悪戯」(一九二七)の「追記一」に出てくる。ここで、吉野が「頭の悪い者」と呼んでいるのは、「更新会」幹部および小川平吉のことである。とても八〇年以上前のものとは思えない、生々しい「名言」である。

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