◎菊池は議場で蓑田が物した草稿を読みあげた
木下半治『日本国家主義運動史』の戦後版には、岩崎書店から刊行された『日本国家主義運動史 上』、『日本国家主義運動史 下』(ともに1952年6月刊)と、福村出版から刊行された『日本国家主義運動史Ⅰ』、『日本国家主義運動史Ⅱ』(ともに1971年9月刊)とがある。
このうち、岩崎書店刊行の『日本国家主義運動史』は未見。福村出版刊行の『日本国家主義運動史』を見ると、「Ⅱ巻」の第六章「二・二六事件を中心として」の第一節「陸軍内部の激動」に、「二 機関説排撃と国体明徴運動」という項がある。
本日以降、これを二回に分けて紹介してみたい。なお、Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。
二 機関説排撃と国体明徴運動
陸軍、皇道派の第二の攻撃は、天皇機関説排撃運動およびそれに引き続く国体明徴運動であった。
この事件は、国家主義勢力が単に政治的領域への滲透をもって満足し得ず、学問の領域にまで及び学問上の意見をもって刑事上の犯罪としたという点において、きわめて特異性を有する事件であるが、もちろん、同運動の真実の目的は、一学説ではなく、この学説を信奉しもしくは擁護しているとみられた元老・重臣方面の政治的努力の打倒にあったのである。
ことの起こりは、一九三五年(昭和十年)一月二十二日〔ママ〕、第六十七議会における貴族院議員予備中将菊池武夫の天皇機関説排撃演説に始まる。菊池は原理日本社(一九二五年二月創立)の蓑田狂喜〔ママ〕の物した草稿を議場で読み上げたわけであるが、一月二十五日〔ママ〕に美濃部達吉博士は、一身上の弁明を名として起ってこれを反駁した。その所論一々肯綮〈コウケイ〉にあたり、満場粛としてこれに傾聴し、博士の言葉終わるや、当時の貴族院としては「珍しくも拍手」が起こった。そして当の質問者菊池すらうっかり感心して、美濃部博士の弁明を諒とする旨の発言をしたほどであったが、その後で、かれは筋書作者である陸軍から大いにその不心得を叱責され、翌日、前日の発言を取り消すという醜態を演じた。陸軍は、この美濃部博士の逆襲的弁明が世の支持を得て逆効果を招来したのにあせり、陸軍勢力および院外国家主義団体を総動員して機関説攻撃を開始した。これに呼応して衆議院においては、三月に国家主義代議士予備陸軍少将江藤源九郎(奈良県選出)が質問をした。この時の衆議院は、さきの貴族院ほどの気魄ももち合わさず、騒然とした陸軍=国家主義の総攻撃に頭を下げたのであった。当時、統一目標を失って萎微〈イビ〉沈滞していた国家主義運動にとっては、これは統一のためのよき道具であったのである。
四面楚歌の裡〈ウチ〉にあって、美濃部博士は、貴族院議員その他いっさいの公職を辞するのやむなきに至った。後、太平洋戦争の危機が迫ると河合〔栄治郎〕教授馘首事件、大内〔兵衛〕教授・有沢〔広巳〕助教授等のいわゆる教授グループ事件等、一連の教授弾圧事件があったが、またさきには三・一五事件との関連において、京大河上〔肇〕教授、東大大森〔義太郎〕助教授の罷免事件があったが、太平洋戦争の準備と直結しての学問圧迫は、この美濃部博士をもって最初とするであろう。博士は、このためにその公職を辞させられたのみならず、名著『憲法撮要』その他の著書を焼かれ、一時に起訴説まで伝えられたが、さすがに当時の司法部をもってしても、そこまではゆき得なかった。しかし、博士の身辺は、国家主義的暴力におびやかされ、人々はひそかにこれを憂えたのであったが、ついに小田某によってピストルで狙撃されて、帝大病院へ入院した。博士の学説に同感するものは、病院に博士を見舞うことによって、わずかにそのうつをやる〔欝を遣る〕のほかなかったのである。〈295~296ページ〉【以下、次回】
貴族院議員の菊池武夫が、第六十七議会で天皇機関説排撃の演説をおこなったのは、一九三五年(昭和十年)二月十八日が正しい。貴族院議員であった美濃部達吉が、「一身上の弁明」をおこなったのは、同年二月二十五日が正しい。また、「蓑田狂喜」とあるが、正しくは、「蓑田胸喜」である。蓑田胸喜(みのだ・むねき、1894~1946)は、右翼思想家。そのファナティックな言動のために、蓑田狂喜(みのだ・きょうき)と揶揄されていたと聞くが、本名ではない。こういった不正確な記述は、書物の信頼性を損ねる。
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