◎明日ありと思ふ心の仇桜……
野村兼太郎『随筆 文化建設』(慶應出版社、一九四六)から、「空襲」というエッセイを紹介している。本日は、その二回目。
家族の者が皆無事に夕食をとることが出来たといふとでも、今までにない感じをもつ。先づ今日も無事だつたといふ安心を得られる。このことは勿論何も空襲必至の時に限られたわけではない。殊に日本人は昔からその点においては修練されてゐる筈である。明日をも知れぬ身である、今日の生命に感謝せよ。明日ありと思ふ心の仇桜〈アダザクラ〉、夜半〈ヨワ〉にあらしの吹かぬものかは、といふ歌は誰もが何度も聞かされてゐる歌である。しかし本当にその覚悟で今日を送つてゐる者は極めて稀である。矢張り明日ありと思つて安心してゐる。
死が何時、如何なる事で人間を襲つて来るかは全く予想出来ないことである。現に朝〈アシタ〉に家を出た良人が夕〈ユウベ〉に骸〈ムクロ〉となつて帰つた実例も少くない。ハンス・ホルバインの有名な「死の舞踏」に現はされてゐるやうに、死は常に身近に迫つつてゐても人はこれを悟らない。
さういふ実例を見、さういふ諷刺を聞かされても、それは他事【よそごと】のやうに考へられ、明日を期待するのが人情である。空襲といふやうな危険にさらされてゐても、なほすべての者がそれに遭遇するとは限らず、そのために生命を失ふやうな者は少数であるといふことから、自分の命にそれほどの危惧を感じないやうである。それでもなほ空襲といふ現実の問題に当面すれば、多くの人が平和な時よりも死といふことを考へる。汽車や電車の中で人人の語るところを聞いてゐてもこのことは窺ひ知ることが出来よう。理論を以つて死の必然性を説かれ、生のたよるべからざることを聞かされるよりも、もつと痛切にその身に感じさせられる。空襲警報が解除されると、ほつとしたやうな、身の軽くなつたやうな気持を誰もが感ずるのをみても推測されるであらう。
何時死に当面してもよいと覚悟し得るやうに、十分一日一日を充実して送り得たならば、人生は生甲斐〈イキガイ〉のあるものとならう。死の危険を冒してなしつつある生活――それは平和な時でも同じことなのではあるが、特に現在のやうな場合、その一日を全力をこめて意義あらしめようとすれば、空襲は却つて人人に緊張した生を齎す事になるのではあるまいか。【以下、次回】
文中、「良人」の読みは、「りょうにん」、「りょうじん」または「おっと」。
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