◎房州では、オオバコを「ほほづきば」と呼ぶ
昨日の続きである。前田勇『児戯叢考』(湯川弘文社、一九四四)の「禽虫篇」の冒頭の「蛙」から、「二、蛙の弔ひ」を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分に、改行しない形で、以下の文章が続く。■は、クサカンムリに不という字である。
信州のガイロツパ、、仙台のゲエルツパ、何れもカヘ(イ)ルバの訛〈ナマリ〉なる事は云ふ迄もない。金井紫雲氏の『草と芸術』に依れば、
《房州から上総下総では、『ほほづきば』といふ、これば此の葉をよく揉み、柔かくして、葉柄の方から吹くと、風船のやうにふくらむ、それから来た名であるし、関東地方から東北へかけて、『かへるつぱ』と呼ぶ処があるが、これはそのふくらせた形が、蛙の腹に似てゐるからといふ意味である。》
と云ふ。ホホヅキバの説は如何にもさうであらう。しかしカヘルツパの説は果してどうであらうか。尚、一茶が本草綱目に車前草の異名を蝦蟇衣と呼んでゐるのは和漢心を同じくしたのだと云つた事について一言して置く。これは上に引いた鈴木煥卿を始め其の後の諸家も注意した事柄であるが、支那で蝦蟇衣と呼んだのは蛙が好んで車前草繁れるあたりに棲む意であつて、我がカヘルバが児戯に基いて生れたのと訳がちがふのである。先学の説は速断が多い。
さて『倭訓栞』〈ワクンノシオリ〉には、「児戯に、蛙を殺し、■苡を覆ひ、其の穂をもて微にうちて蘇へる事あり。」(後編・おほばこ)とあるが、かう云ふ風にしたのであらうが、しかし葉を被せて〈カブセテ〉咒ふ〈マジナウ〉にせよ穂で微に打つにせよ、一旦なぶり殺しにしたものが如何に霊験あらたかな車前草の葉つぱであるにしてからが、どうなるものかであるけれど、先達達は大真面目でこれを信じてゐた。たゞ一茶だけは「生ながら土に埋めて」と云つてゐる。生きながら土に埋めたのなら、それは勿論「須臾ニシテ蹶然跳躍ス」ることもあらう。あるのが当然である。【以下、次回】
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