◎伊藤修氏の労力と執念とに圧倒された(丸山眞男)
丸山眞男『「文明論之概略」を読む』(岩波新書、一九八六)について、感想などを書きとめている。本日はその二回目。
上巻の「まえがき」の中で、丸山眞男は、この本が成立した由来について述べている。それによれば、この本の「火元」は、岩波書店の伊藤修氏を中心とする私的な読書会だったという。伊藤氏からの申し入れを承諾した丸山は、一九七八年七月から、『文明論之概略』の講読を始めた。以下、引用。
私はどういう基準で参加者の顔触れが決まったのか、まったく与り知らない。第一、参加者の大半は当時の私には未知の人たちであった。けれども何せ多忙な編集者たちがそれぞれの仕事の終ったあとに集る会であるから、むろん学部演習の場合とちがって、報告は課さず、順番による朗読と私の解説とのみにとどめたが、それでも全巻を読み了ったのは一九八一年三月末であり、つまり初めてから足掛け四年を要したことになる。
第一回の集りの折に世話人役の伊藤氏から、参加者の「復習」の便宜のためにテープをとらせてほしい、といわれた。私はその目的以外にテープを公開しないことを条件にして承諾した。結果的にはこのテープが本書のもとになったわけである。私は伊藤氏に最初からこれを書物にする「たくらみ」があった、とは思いたくない。現に読書会が終了し、何か月も経ってから同氏が初め何回分かのテープをおこした原稿を私の許に持参した折にも、暇な折に目を通しておいてくれ、という以上に具体的なことは何も申し出がなかった。いや、全部で二十五回分のテープ起し原稿が、私の机辺〈キヘン〉に積み上げられたまま、二年以上も放置されていたのが実状であった。ただ私がたまたま原稿をめくってみると、第一回から最終回までことごとくが伊藤氏の筆になっているのに驚き、ききとりにくいテープをよくもここまで起してまとめたものだ、とその労力と執念とにいささか圧倒されたのも事実である。結局、私の個人的な用事や仕事の合間をみて、今年〔一九八五〕の春ごろからポツポツと原稿に手を入れはじめた。
岩波の内部で一体いつごろから、この原稿を新書にする企画が立てられたのか、私は知らない。無責任ないい方になるが、ある朝、目覚めてみると私は新書刊行のレールの上に乗っていた、というのが正直な実感である。「事既にここに至る」というのは、さる方がさる際にいわれた言葉であるが、今にして私はこの言葉の意味が痛いほど分るような気がする。分量上、全体を上中下の三巻に分けることがきまったのは十二月に入ってからであった。〈ⅴ~ⅶページ〉
この文章には、丸山独特の皮肉と諧謔が見られる。
丸山は、〝私は伊藤氏に最初からこれを書物にする「たくらみ」があった、とは思いたくない〟と言っている。これは、「実は、そう思っている」ということの、遠回しな表現である。
丸山が、伊藤氏の「たくらみ」を強くは責めなかったのは、「その労力と執念とにいささか圧倒された」からである。読書会がはじまったのが一九七八年七月、読書会が終わったのが一九八一年三月、丸山がテープ起し原稿に手を入れはじめたのが一九八五年春。
そのあとの展開は早かった。『「文明論之概略」を読む』上巻の刊行は、一九八六年一月。中巻の刊行が、同年三月、下巻の刊行が、同年一一月。それにしても、編集者・伊藤修氏の忍耐と執念には恐れ入る。
「ある朝、目覚めてみると私は新書刊行のレールの上に乗っていた、というのが正直な実感である」とあり、「事既にここに至る」という言葉がある。これは、岩波書店側に対する強烈な皮肉であり、同時に、自嘲風の諧謔である。おそらく丸山は、新書・分冊という形での刊行に、納得していなかったのであろう。
「事既にここに至る」について、丸山は、「さる方がさる際にいわれた言葉」だとする。老婆心ながら注釈しておく。その「言葉」とは、一九四五年(昭和二〇)八月一四日の御前会議における、昭和天皇の発言である。――「しかし乍ら事茲に至つては国家を維持するの道はたゞこれしかないと考へるから、堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍んで、茲にこの決心をしたのである」(迫水久常「降伏時の回想」、『自由国民』第一九巻二号、一九四六年二月)。
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