◎「福沢惚れ」を自認する丸山眞男の福沢諭吉論
本年七月初めに、丸山眞男著『「文明論之概略」を読む』岩波新書、上中下三冊(一九八六)を入手し、三週間ほどかけて読了した。
よく理解できた、というほどは読みこんでいない。福沢諭吉についての認識が変わったという実感はない。しかし、この本を読んだことで、丸山眞男という思想家についての認識は、確実に深まった。以前にも増して、その人物に好感を抱いた。
同書上巻の「まえがき」の中で、丸山眞男は、次のようなことを言っている。
かつて服部之総が「主体的に云ってみて福沢惚れによって福沢の真実にはとうてい到達できない」と喝破したことがある。(「福沢諭吉」昭和二十七年、「改造」五月号、のち著作集第六巻に収録)善い哉、言や。服部の言葉はもうすこし一般化すれば、M・ウェーバーのあの著名な、社会科学的認識の客観性と価値判断、の問題に行き当るだろう。私は彼の言葉には一理も二理もある、と思う。けれども果してその反対のことはいえないだろうか。惚れた恋人には「あばたもえくぼ」に映る危険は確かにある。しかし、とことんまで惚れてはじめてみえてくる恋人の真実――つまり、電車の反対側の席に坐っている美人を見ているだけの目には、况んやはじめから超越的な批判のまなざしで判断する者には、ついに到達できない真実――というものもあるのではなかろうか。そうでなければ、伊藤仁斎の『論語古義』も、荻生徂徠の『論語徴』も、こうした儒者がぞっこん孔子に惚れているかぎり、とうてい論語の真実に達しられないことになってしまうだろう。そうして、とことんまで惚れてはじめて見えてきた対象の真実は、一時ほどの熱がたとえ醒めたあとでも、持続的な刻印として当人の頭脳と胸奥に残るものである。すくなくとも思想書については私はこう信じている。くり返しいうように本書は「福沢研究」一般ではない。あくまで『文明論之概略』を通してみた福沢という思想家の姿を、福沢惚れを自認する私のまずしい解説によって、いくらかでも読者に伝えることが私のさし当っての狙いである。〈ⅲ~ⅳページ〉
服部之総(はっとり・しそう)の指摘を、「一理も二理もある」としながらも、ハッキリと、それに異を唱えている。その際、電車内の美人という「喩え」を使っているが、これがまさに福沢譲りである。「福沢惚れを自認する私のまずしい解説」と開き直るあたりも、巧み。そもそも、文章に品がある。
かつて私は、『知られざる福沢諭吉』(平凡社新書、二〇〇六)という本を上梓したことがある。執筆中に、服部之総の「福沢諭吉」という文章を読み、「福沢研究のかんどころは、主体的に云ってみて、福沢惚れによって福沢の真実にはとうてい到達できないということである」という指摘に同感した。拙著にも、それを引用した。しかし、丸山が、『「文明論之概略」を読む』で、服部に言及していたことは知らなかった。もっと早く、この本を読んでおくべきだったと思った。【この話、しばらく続く】
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