◎迫水久常「降伏時の真相」(1946)を読む
本日以降、迫水久常(さこみず・ひさつね)の「降伏時の真相」という文章を紹介してみたい。この文章は、雑誌『自由国民』特輯「近衛文麿公・手記/最後の御前会議」=第一九巻二号(一九四六年二月)の後半に、「対照篇」として載っていたものである。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。
迫水久常(一九〇二~一九七七)は、大蔵官僚、政治家。岡田啓介内閣で内閣総理大臣秘書官、鈴木貫太郎内閣で内閣総理大臣書記官長兼綜合計画局長官を務めた。著書に『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)ほか。
降 伏 時 の 真 相 鈴木内閣書記官長 迫水久常氏・手記
戦争終結をソ連に申入れ
特使として近衛公・選任―
鈴木〔貫太郎〕内閣は四月七日(昭和廿年)に成立した。鈴木総理大臣か組閣当初から終戦の計画をもつてをられたかどうかは自分にはわからない。しかし組閣の直後われわれに我方の戦争遂行能力に関して徹底的な研究を命ぜられた所から察すると総理は単純に戦争遂行の一本槍ではなく深い決意を持つてをられたに相違ない。私の古い米国人の友人が最近進駐軍の一大尉として来てゐるが、彼のいふところによると彼は鈴木内閣成立しその中に私の名を見出したとき鈴木総理の性格とも思ひ合せ、米国内の友人に戦争は六箇月内に終ると予言したといつてゐるから、外国でも鈴木内閣を単純な軍国内閣とは見なかつたことは事実であらう。
総理の下命により内閣調査局が中心になり陸海軍の軍務局当局その他の関係者が集つて国内における軍需生産、食糧、人心の動向などに関し詳細な統計見透しを基礎にして精密な研究をとげ、今後における我が国力の推移を判断すると共に列国の我が国に対する態度について研究を進めたのであつた。その結論は五月中旬になつて出来上つたのであるが、我が国内の現状は何等か寧ろ奇蹟的な措置が実行せられない限り、殆ど戦争継続に耐へないことが明かとなり、列国の我国に対する態度はドイツの崩潰に従つていよいよ強硬となるべく、九月末頃になればソ連邦の対日宣戦も予期せざるを得ないと判断せられた。それで少くとも七、八月完了を目途として、いはゆる根こそぎ動員をなし、或る目標の整備を完了するにあらざれば沖縄を確保することが困難なるのみならず、本土決戦も亦決して容易ならざる状況であるとの結論に達したのである。
しかもこの緊急整備の実現は事実上頗る〈スコブル〉困難であると考へられた。五月はじめから総理、外務、陸海軍の各大臣、参謀総長、軍令部総長はしばしば会合してをられた。其の内容は私にも陸海軍の下部機関にも一切全く秘密にせられてあつたが、その結果、いはゆる広田〔弘毅〕、マリツクの私的会談が進められたのである。その会談の目的は第一義的には日ソ間の関係を好転せしめ、尠くともソ連をして中立の態度を明確ならしめる(ソ連は四月始め中立条約の廃棄を予吿して来てゐた)ことを目的としたものであり、更に若し能ふればソ連を中継として戦争の結末をつけることを考へたものであつて、当初においては、やゝ好望に認められた。
一体ソ連を中継として戦争を終結せんとするの意図はかつて小磯〔国昭〕内閣当時においても試みられたところであるが、その時は殆ど話に入るか入らないで立消えになつたのである。その後沖縄の戦況が逐次不利となつて来て、絶望的な状況になるに伴つて今後における戦争指導の基本方針について決定するの必要を感じたので六月九日御前会議が開催せられた。この御前会議においては囊に〈サキニ〉述べた国力の判断ならびに国際情勢の判断を基礎として議論が進められたのであるが、その結論は國體を護持し皇土を保衛し以て戦争を完遂するといふことになつた。この結論の表現は実に非常に含みのあるものであつて、國體が護持せられ、皇土が保衛せられるならば、これをもつて戦争は完遂せられたものとすといふことを意味するものであるが、周囲の情勢上戦争遂行といふことを表面に出して表現した次第である。【以下、次回】
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