礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

最高戦争指導会議の構成員に御召があった

2020-04-04 02:19:17 | コラムと名言

◎最高戦争指導会議の構成員に御召があった

 雑誌『自由国民』第一九巻二号(一九四六年二月)から、迫水久常(さこみず・ひさつね)の「降伏時の真相」を紹介している。本日は、その二回目。

 その当時、この御前会議に接続して臨時議会が開催せられた。この臨時議会においては戦時緊急措置法といふ画期的な法律が付議せられた。議会においては多くの議員から何故に憲法第三十一条に基く天皇の非常大権の発動をなさゞるやといふ質問が出され、中にはかくの如き法律を出すことは政府は責任を議会に転嫁せんとするものにして、甚だ政府とし卑怯なやり方であるといふ議論があつた。この法律を提出した目的は、当時国力の総発揮に関し相当の障碍をなしつつあつた各種の統制法規を一刀両断的に修正し、もつて戦争遂行に資せんとずるものであつたのであるが、〔鈴木貫太郎〕総理大臣が特に法律の形を選び第三十一条の非常大権発動の形式をとられなかつたことは全く非常大権を発動することは天皇陛下に必要以上の御迷惑をおよぼし奉ることを惧れられた結果立憲措置としてその途を選ばれたものである。議会における論議の状況を見て、私は秘かに議会の為めに惜んだのであつた。この法案が通過した結果政府は直に〈タダチニ〉各般の障碍除去に着手したのである。
 この間沖縄の戦況は急速に悪化し来たり、陸海軍の懸命な努力に拘らず絶望の状態に達した。沖縄の戦況不利なのを見て輿論は漸次沸騰し、殊に陸海軍間の不一致を攻撃する声が高くなつた。陸海軍の不一致といふことは戦争の当初からいはれてゐたところであつて、鈴木内閣組閣の際も陸海軍の統合といふことが問題となつた。総理は組閣後、間もなく陸海軍の首脳部と会合し、相互の協力促進を図られたこともある。然し少くとも沖縄戦に関する限り、陸海軍の作戦上の協力は満足すべきものであつたと思ふ。 唯遺憾乍ら〈ナガラ〉物量の不足は如何ともなし難く、沖縄に突入した伊藤〔整一〕中将の艦隊も燃料は重油が足りず代用油であつたともいはれてゐる。義烈空挺隊の突入の前後天候が我に幸しなかつたことも当時は真に残念がつたところである。沖縄の守りはかくてこれを失つて挙国不安の中に投げ込まれたのである。かかる際、六月廿二日測らずも宮中より総理大臣、〔阿南惟幾〕陸軍大臣、〔米内光政〕海軍大臣、〔東郷茂徳〕外務大臣、〔梅津美治郎〕参謀総長、〔豊田副武〕軍令部総長の六人、すなはち最高戦争指導会議の構成員に対して御召があつて、陛下より親しく御懇談あらせられ、戦争に関しては適当なる方法をもつてなる速かにこれを終結せしむることをも考慮しなければならない旨の御諭しがあつた。
 総理大臣は官邸に帰られて、私にその内容は詳しくは話されなかつたが、今日は陛下からわれわれが何か言ひたいけれどもいふことを憚かられるやうなことを率直に御示しがあつて、洵に〈マコトニ〉恐懼に堪へないといふお話があつた。この御召があつて以来、六巨頭はしばしば会合を重ねた結果、結局公式にソ連に対して特派大使を派遣し、ソ連政府との間に一には日ソ間の国交調整を議するとともに、進んで戦争の終結に関し、ソ連の斡旋を求むるの方針を決定したのである。この特使として近衛〔文麿〕公爵が選任せられたのであるが、それについては貴い思召もあつた次第である。【以下、次回】

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