礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

平塚市はこの空襲で八割を焼かれた

2017-07-20 04:03:16 | コラムと名言

◎平塚市はこの空襲で八割を焼かれた

 富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、第四一号「対ソ仲介交渉」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 当時我々近衛公の側近連中は、入生田〈イリウダ〉の公爵別邸で、とぐろを巻くか、そうでなければ、同じ入生田で、近くに住んでおられた酒井〔鎬次〕将軍の寓居に、よくお邪魔したものである。ある時は近くを流れる早川の渓流に将軍共々水浴をしたことも今は思い出である。酒井さんから「皆の奴、儂〈ワシ〉のうちを供待ち〈トモマチ〉部屋と間違えやがってあつかましいもんだ、ガヤガヤよくしゃべくるが、日本のためには何一つ役に立たん、もう二度と来てくれるな」「それとも貸席料をうんと寄こせ」と戯談〈ギダン〉まじりに怒鳴られたことも憶えている。
 こうして毎日毎夜〈マイヤ〉、ソ連からの近衛特使入ソ受諾の返事を、今か今かと恃ち焦れていたのであった。又自然に仲介案の内容、ソ連のこれに対する態度の予想等が論議せられて尽くることがなかったのが実情である。誠に終戦直前の息づまるような焦燥の日々であった。この間にも、米軍に依る日本国内の空襲は愈々強化せられ、未空襲の都市が次々に毎日毎夜、焼夷弾の洗礼を受けて行った。七月十六日の夜八時頃、当時私の住んでいた平塚市にも警戒サイレンとほとんど同時に空襲があった。
 平塚市は当時人口およそ八万で、東海道線の北側に広大な海軍火薬廠があった。市街地もこの北部に集中していた。線路の南側海岸寄りは、大部分松林で概ね別荘住居地帯である。そこで日常の逃避訓練では、平塚空襲の時はこの南部海岸地帯に逃げろというのであった。ところが十六日の焼夷弾空襲は、先ず南部の海岸別荘地帯から始められた。そこでこの地帯に向って北部から逃げて来た住民、従って多くは老幼婦女子は、空襲の中心地帯に、たゝかれるために来たような格好になって、道路上、翌日には至る所、死骸が横たわるという惨状を呈した。私の友人の老母は、未婚のその娘さんと一しょに、皆と同様、海岸地帯に逃げて行った。ところが空襲最中〈サナカ〉の地帯に入ったわけで、遂に焼夷弾の一発は、この老婦人の大腿部を貫通し、数時間の後、十七日未明、命を失った。そしてこの時手をとって一しょに歩いていたお嬢さんは、カスリ傷一つうけなかったのである。
 私の宅も三発、焼夷弾をうけたが、恰も〈アタカモ〉この年、五月二十五日東京大空襲の時、東京麹町の私の宅が焼失した際、消火の経験を持つ女中二人が、平塚宅へ焼け出されてきていたので必死に防火に努めて<れた。私は庭先きの防空壕の中で、「消しに出るのは止めろ、危剣〔ママ〕だからやめろ、家は焼けてもかまわんのだ」とどなるだけであったが、これらの女中さん達は、元気一杯、日頃の訓練と経験を生かすのはこの時とばかり、焼夷弾の雨と降る中を二階、浴場とかけ廻って約一時間敢闘して、しかも怪我もなく、消火してしまったのである。近所には焼け落ちた家が多かったし、若し私の平塚宅も焼けていたなら、道路上で死んでいたなら、なお更のこと。今頃は、私も家人も路頭に迷っていたかも知れない。回想するだに、人間の運命というものは、一寸の差、一秒の違いであるような気がする。
 平塚市はこの空襲で八割を焼かれたといわれている。そして一番目標になると思われた火薬廠は大した空襲を受けなかったことも、日米両国には、色々な意味で、力の差があったように思う。その平塚は今すさまじく復興して、空襲直後のあの惨憺たるあとかたもない。
 私は当時、恰も近衛公から、ソ連行きの随員たることを要請されていたので、二人の息子は学徒動員で出征していたし、女中さん達もそれぞれ郷里へ帰って貰うこととし、家内と一人の身寄りのない家政婦さんと二人を、箱根湖尻の友人伊藤邸に預け、此処と富士屋ホテルとを転々し、平塚宅は平塚警察署長に頼んで、独身署員二十数名の合宿所にして貰うことになった。そして現今、私は思い出多いこの平塚宅に住んでいる。というよりは住まわせて頂いているという感謝の気持ちである。東京とはかなり距たって〈ヘダタッテ〉おり、不便なこともあるが、こういう経緯からして、私はこの家を去ることがつらく、又永遠に離れることはできないであろう。

 平塚空襲の際、市街を広範囲に爆撃したのは、第二海軍航空廠補給部・兵器部平塚工場、横須賀海軍工廠造兵部・造機部平塚分工場、日本国際航空(株)平塚製作所など、航空兵器関係の研究施設、工場が多かったからであろう。なお、米軍は、平塚で、特攻機「桜花」の研究ないし生産がおこなわれていると見ていたという(平塚の空襲と戦災を記録する会編『市民が探る平塚空襲 通史編Ⅰ』平塚市博物館、二〇一五、による)。
 一方、海軍火薬廠(第二海軍火薬廠)の被害が少なかったのは、あえて爆撃せず、温存しようとしたという説がある。米軍は、相模湾上陸作戦の際、ここに師団司令部を置く予定だったのだという(佐藤繁氏のブログの記事「平塚空襲の実態」による)。
 富田健治は、文中で、「日米両国には、色々な意味で、力の差があったように思う」と述べている(下線)。ことによると富田は、この文章をまとめた時点で、米軍における平塚爆撃計画の概要を把握していたのかもしれない。
 明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2017・7・20(7・10位に珍しいものが入っています)

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