礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

死中自ら活あるを信ず(阿南惟幾陸相)

2023-08-04 02:01:58 | コラムと名言

◎死中自ら活あるを信ず(阿南惟幾陸相)

 藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)の「敗戦の日来る」の章のあとには、「継戦と軍人精神」の章が続いている。本日以降、その「継戦と軍人精神」の章を紹介したい。

     継 戦 と 軍 人 精 神

 帝国政府の上層部のみが知る、経済的、物量的情勢からして、交戦国との間に停戦協定を樹立しなければならぬといふ焦慮から、ソ連邦政府にその斡旋〈アッセン〉を依頼するとともに、日ソ間の国交調整をも企図して近衛〔文麿〕公を特使として同国に派遣する意向をもつて政府の一部が活潑に動き始めたのは七月十三日頃からと判断されるが、この事実を陸軍当局が公然と知るに至つたのはそれから一ケ月も遅れた八月九日頃であつた。
そして、その時には既にソ連邦との交渉は、破談となつて居たのみならず同国は参戦を表明し、原子爆弾亦使用せられ、陸軍全部と海軍統帥部の一部を除く政府首脳部の意見は、ポツダム宣言の受諸といふ局面にまで押し詰められてゐた時であつた。
 これを知つた当時の陸相阿南〔惟幾〕大将は愕然として、八月九日午前宮中で開催された緊急最高戦争指導会議以降、終日臨時閣議その他に於いて各方面の意見、情報を聴取するとともに陸軍側の意見を開陳、戦争継続の意見を強硬に主張したのであつた。
 その当時、原子爆弾の真の威力は詳細に判明してはゐなかつたし、ソ連の参戦に就いては、参謀本部としては予期して居り、独ソ開戦の当初より満州に兵を増強してゐたこととて、政府一部のいふ所謂終戦理由直接の二原因に就いては、陸軍は真向う〈マッコウ〉から反対し得たのである。
 そして、その他の物量的、経済的理由に対しても、彼等の所謂軍人精神なるものがそのすべてを反対せしめる思想の基礎となり、それは断然強固なるものがあつたといへる。
 なればこそ、一方に於いてポツダム宣言受諸への伏線として政府が意味深長なる情報局総裁談を発表してゐるかたはら、同日〔1945年8月10日〕附布告をもつて阿南陸相は『全軍将兵に告ぐ』なる布告を発し、楠公救国の精神と時宗滅敵の闘魂を謳歌して
『事〈コト〉茲に到る又何をか言はん。断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。仮令〈タトイ〉、草を喰み〈ハミ〉土を噛り〈カジリ〉野に伏するとも、断じて戦ふところ死中自ら〈オノズカラ〉活あるを信ず』
と論じ、その布告文を一般新聞紙上に相当大きく取扱はさせ、情報局総裁談の内容上に於ける特種性を抹殺せんとする挙に出てゐる。
 この思想の基礎となつたものはきのふけふ陸軍部内に芽生えたものでなく、その根幹は明治十五年一月四日陸海軍人に賜はりたる勅諭によつて教育された精神が、軍人的に解釈された大和魂といふ裏づけに結びついて長年培はれたもので、牢固ぬくべからざるものとなったものであるが、その結果は遂に現代戦は科学戦、物資戦であり経済戦であると叫ぶ一方に於いて、しかもそれらの総ては結局魂による戦ひ、精神戦力には絶対勝ち得ないと言ひ切る矛盾を平気で行はせる結果となつたのは当然の成行〈ナリユキ〉であらう。【以下、次回】

 文中、「楠公救国」の楠公(なんこう)は、楠木正成(くすのき・まさしげ)のこと。「時宗滅敵」の時宗は、北条時宗(ほうじょう・ときむね)のことである。
 阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の布告「全軍将兵に告ぐ」(1945・8・10)については、当ブログ記事「草を食み土を齧り野に伏すとも断じて戦う(阿南惟幾)」(2017・8・7)を、併せて参照されたい。

*このブログの人気記事 2023・8・4(9位になぜか穂積八束)

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